ずっと歌っていたかった
飲み会から数日過ぎた、平日の午後。わたしは自宅のパソコンの前で頭を抱えていた。
小説のクライマックス、主人公が片思い中の友人に告白をするシーン。このままプロット通りに進行するか、ひと呼吸、置くべきかで悩んでいた。
指が止まって一時間あまり。気分転換がてらコーヒーでも飲みに行こうと思い席を立ったとき、スマートフォンが鳴った。あや姉ちゃんからだった。
「近くまで来てるんだけど、お茶でもどう?」
「行く!」
わたしは、ふたつ返事であや姉ちゃんの誘いに乗った。
待ち合わせ場所は、わたしのマンションから歩いて一〇分ぐらいの場所にあるカフェ。シフォンケーキがおいしいと、近所で評判のお店だ。
店の造りはアメリカン・カントリー風。手入れの行き届いた中庭を眺められるテラス席が、わたしのお気に入り。ノートパソコンを持ち込んで原稿を書くこともある。
オーナー夫妻は、わたしが、少々、粘っても嫌な顔ひとつしないでいてくれる。もちろん、コーヒーのお代わりぐらいはするけれど。
「テラス席が気持ちいいよ」と勧めたからだろう。あや姉ちゃんはテラス席でアイス・カフェラテを飲んでいた。
「お待たせ、待った?」
と声をかけると、
「ううん、ちょっと前に来たところよ」
とニッコリ。
「美咲さん、いらっしゃい。何にする?」
と奥さんが、水を置きながら尋ねた。
「わたしもアイス・カフェラテと……プレーンとチョコのシフォンケーキをひとつずつ」
と注文すると、奥さんはほほ笑みながら頷いて店の中へ。
「ここのシフォンケーキ、すごくおいしいの。おごるから一緒に食べようよ」
と、わたし。
「ありがとう。それにしても素敵なお店ね。こんなお店があるなんて、知らなかったわ」
「オープンしたのは三年ぐらい前かな。それまでは、普通に誰かが住んでいたみたい」
と、わたしが言ったとき、奥さんがシフォンケーキとアイス・カフェラテを持ってきた。
「お待たせしました」
と奥さん。
「失礼な質問だったらごめんなさい。こちらのお店って、前から奥さんたちが……?」
と、わたしが尋ねると、奥さんは、
「主人の両親が住んでいたんです」
と言った。
「そうなんですか」
「定年を機会に田舎暮らしを始めるということで、私たちが譲り受けたんですけど、同時に主人も『脱サラする、喫茶店をやりたい』って言い出しちゃって……」
と奥さんは苦笑い。
「それで、すぐにこの店をオープンしたんですか?」
と、あや姉ちゃん。
「二年ほど、知り合いのお店でいろいろ教えてもらいました。オープンして三年になります」
あや姉ちゃんは、なるほどという風に頷きながら、
「素敵なお庭ですね」
と言った。
「ありがとうございます。義母の趣味がガーデニングなんです。いまでも、時々、庭の手入れをしに来てくれます」
と奥さん。「ごゆっくりどうぞ」と会釈して、お店の中に戻っていった。
「シフォンケーキ、どっちがいい?」
と、わたしが尋ねると、あや姉ちゃんは少し考えてから、
「両方、食べたい……半分こしよ?」
と言った。少し上目づかいでわたしを見るので、妙にドギマギしてしまった。
「そうだね、半分こしよう」
わたしは心の中で〈落ち着け、自分!〉と言い聞かせながら、シフォンケーキにナイフを入れた。
「あの後、洋子ちゃんから連絡はあった?」
と、あや姉ちゃん。
「次の日の夕方かな、電話が来たよ。あや姉ちゃんには連絡なかったの?」
「メールは来たんだけど……」
と、あや姉ちゃんは心配そうな表情を浮かべた。
「大丈夫、〈三日酔い〉にはならなかったみたいだよ」
あや姉ちゃんの家で飲み直した、あの日。酔い潰れた洋子とわたしは、あや姉ちゃんの家に泊まらせてもらった。
翌朝、といっても目が覚めたのはお昼に近かったけれど、洋子は二日酔いで起き上がることができなかった。仕方がないので夕方まで待って、わたしがタクシーで洋子を自宅まで送ったのだ。
「それだけじゃなくて……あの日の洋子ちゃんの様子、おかしかったでしょ? 何かあったのかなと思って」
「う~ん、仕事は順調みたいだし……恋愛の方は、最近は何も言わないからなあ。前は一方的にしてきたんだけどね」
「前?」
「そう。三、四年前までは、よく長電話に付き合わされた」
と、わたしは苦笑い。
「合コンで会った○○君からメールがあった」、「食事に誘われたんだけど、どうしよう?」、「告白されるのを待った方がいいのかな?」、「○○君に彼女がいた」など、何かあれば電話が来た。
「最初のうちは、〈小説のネタになるかな〉なんて思いながら聞いていたんだけど、毎日のように続くとさあ……さすがにキレた」
と、わたし。
「恋バナって、堂々巡りになりがちだから、相手する方は大変よね」
と、あや姉ちゃん。
「みんな、わたしには話をしやすいみたいでさ……」
カミングアウトをしている・していないに関わらず、なぜかわたしは、友だちから恋愛の話を聞かされることが多い。それも男女問わずだ。
自分の恋愛に関しては、水を向けられても話さないのに(カミングアウトをしている友だちには多少はするが)なぜだろうと思っていたら、あるとき健吾から、
「お前って、いつまでも聞いてくれるから、話しやすいのさ」
と言われた。
「だって、話の終わらせ方が分からない」
と言ったら、
「眠いとか、仕事があるとか、いくらでも理由はあるじゃん」
と健吾。そんな風に話の腰を折るのは、ちょっとなあ……と思っていたら、顔に出ていたのだろうか、
「お前、そんなんじゃ、みんなのグチのはけ口になるぞ」
と健吾はあきれ顔。まあ、その傾向は多少はあるかもしれない。
「で、洋子ちゃんからの恋愛相談は、美咲ちゃんの小説のネタになったの?」
と、あや姉ちゃん。
「それはヒミツ。でも、今のところ洋子からのクレームはないよ」
と言って、わたしは笑った。
「忙しくないのならウチに来ない?」
と、あや姉ちゃんが言うので、原稿が気にはなったけれど、お邪魔することにした。
途中のスーパーで夕食の材料を買ってから、自由が丘のあや姉ちゃんの家へ。
あや姉ちゃんは、この前のように、すぐにエプロンを着けるとキッチンに向かった。
手際よく料理をするあや姉ちゃんの様子をキッチン・カウンター越しに眺めながら、手伝うべきかどうか迷っていたらスマートフォンが鳴った。
仕事の電話かと思ったら画面には〈洋子〉の文字。わたしは、
「洋子から」
と言って電話に出た。
「もしもし?」
「もしもし、美咲? いま大丈夫?」
「いま、あや姉ちゃん家にいるの」
と、わたしが言うと、
「えっ……彩香さん家?」
と洋子は驚いた様子。
「洋子ちゃんも誘ったら? 夕飯はクリームシチューだけど」
と、あや姉ちゃんが言うので洋子に伝えたら、
「う~ん、今日はやめておく……また連絡するわ」
と言って電話を切った。
「洋子ちゃん、何だって?」
小麦粉をバターで炒めながら、あや姉ちゃんが尋ねた。
「今日はやめておくって。それにしても、何の用だったんだろう」
「何も言わなかったの?」
「うん。まあいいや、明日にでも電話してみる」
わたしはカウンター越しに、鍋の中をのぞき込みながら言った。
「ホワイトソースから作るんだね。すごいな」
と、わたし。
「母直伝なの……ダマになりませんように……」
と言いながら、あや姉ちゃんは牛乳を少しずつ鍋に加え始めた。木べらで混ぜること数分。ホワイトソースができあがった。
「さ、あとはスープにホワイトソースを加えればOKよ」
と、あや姉ちゃん。そして、
「もうすぐできるから、座ってて」
と言った。
テーブルには、骨付きのチキンと野菜がたっぷり入ったクリームシチュー、生ハムのサラダ、作り置きしてあるというキノコのいため物、バケットが並んだ。お酒は白ワイン、ブルゴーニュ産のシャブリだ。
わたしは、よく冷えた白ワインをひと口飲んでからクリームシチューを食べた。
「おいしい! チキン、柔らかいねえ。スプーンで触っただけで骨から外れるよ」
と、わたしが言うと、あや姉ちゃんは、
「食べてくれる人がいると、作りがいがあるわ」
とニッコリ。
「それにしてもさあ、こんな広い家に独りって寂しくない?」
わたしは、リビングを見渡しながら尋ねた。
「いまは寂しくないなあ。ただ、部屋を使い切れないからもったいなくて。もう少ししたら引っ越すからいいんだけどね」
と、あや姉ちゃん。
「引っ越すって、どこに?」
「まだ決めてない。仕事も始めるから、いろいろと難しいのよ」
「仕事? 何するの?」
と、わたし。ワインを飲み、バケットに少しだけバターを塗ってかじったとき、あや姉ちゃんがわたしにグッと顔を近づけて、
「私にデスクワークが務まると思う?」
と言った。わたしはバケットを飲み込んでから、
「もしかして……歌うの?」
と尋ねた。
「うん、再デビューするの」
と言うと、あや姉ちゃんは座り直してクリームシチューを食べた。わたしは、ビックリしすぎて言葉が出てこない。
バケットを持ったままフリーズしているわたしを見て、
「そんなに驚かなくても」
と、あや姉ちゃんは苦笑い。
「だって……いままでも、再デビューの話はあったんでしょ? 断ったって聞いてるよ。それなのに、なぜ?」
「さすが、元ライターさん。詳しいじゃない」
いままでも、あや姉ちゃん……いや、川村彩香が再デビューするというウワサは、ファンの間ではもちろんのこと、TVや雑誌などで何度も持ち上がっては消えていった。
二、三年前になるだろうか。実際のところはどうなんだろうと思い、音楽雑誌の仕事をしているライター仲間に聞いたことがある。彼は、
「レコード会社や事務所が、何度も再デビューの話を持ちかけているのは事実だよ。でも、本人が首を縦に振らないそうだ」
と教えてくれた。だから、再デビューの可能性は限りなくゼロに近いと思っていたのだ。
「彼にプロボーズされたとき、『仕事を辞めてほしい』って言われたの。仕事か彼かを選ばされたのよ」
「そうだったんだ」
「そのときは、好きになったんだから仕方がないって思った。でも、本当はずっと歌っていたかった」
「………」
「再デビューの話が来る度に、『歌いたい!』って思ったわ。でも、彼には言えなかった……そういう遠慮が二人の間に溝を作ったって、いまなら分かるんだけどね」
と、あや姉ちゃん。グラスに口をつけた。
「わたしさ……ずっとあや姉ちゃんの歌を聴いてきたんだ。たとえ新しい歌が聴けなくても、この先、ずっと聴いていくとも思ってた。だから……だから、本当に嬉しいよ。これからも、あや姉ちゃんを応援する」
と、わたし。
「ありがとう。でね、再デビューが決まっただけで、詳しいことはこれからなの。だから、しばらくは誰にも言わないで」
と、あや姉ちゃん。
「洋子にも?」
「うん。もう知ってるかもしれないけれど」
洋子は音楽関係の仕事をしている。耳に入るのは時間の問題だろう。
「分かった」
「打ち合わせやボイストレーニングが、もうすぐ始まるの。歌もつくらなくちゃ」
と、あや姉ちゃんは嬉しそうだ。
「忙しくなるんだね」
「いままでよりはね。でも美咲ちゃん。気分転換ぐらい、付き合ってくれるでしょ?」
「もちろん! わたしでよければ」
と、わたし。
あや姉ちゃんが再デビューするなんて、また、あの歌声を聴くことができるなんて夢のようだ。
「生きててよかったよ、わたし」
と言うと、あや姉ちゃんは、
「オーバーね」
と、おかしそうに笑った。