愛しているからこそ
洋子は二日後に退院した。『会社には、ひどい風邪をひいたと連絡しました。ごめんなさい』というメールが届いてから音沙汰がない。
わたしは自分の部屋に帰る回数が増えたものの、相変わらず、あやちゃん家に入り浸っている。あやちゃんは、再デビューの日に行われる記念ライブの打ち合わせとリハーサルで忙しい。
あれから山口さんのもとに、わたしたちの関係を示唆する情報が入らないこともあって、わたしの「少しの間、会うのを控えよう」という提案は宙に浮いているのだ。
再デビューの一か月前となる九月一日には、あやちゃんの記者会見があって、各局の情報番組で取り上げられた。
記者たちからは、再デビューに至った経緯や離婚理由に関する質問もあったけれど、
「今だからこそ歌える歌があると思ったんです」
「いつの間にか、グランド・キャニオン級の溝ができていたんですよねえ」
と笑顔でかわしていた。
『うわあ、〈川村彩香〉になってる……』
と変な関心の仕方をしていたら、
「ただいまあ……」
と、あやちゃんの声が。スーパーのレジ袋を下げて、疲れ切った表情で帰ってきたので、ついTVと見比べてしまった。
「どうしたの?」
「だって、ほら……」
わたしが指をさしたTVに映っていたのは、〈川村彩香〉のパーフェクトな笑顔。
「やだ、もう流れているのね」
「……電池、切れちゃった?」
「ホント、意地悪なんだから」
と言ってあやちゃんは、わたしの鼻をキュッとつまんだ。
そう。表向きは、平穏に毎日が過ぎている。だけど、わたしは『どうしたらいいんだろう』という思いを、ぬぐい去れてはいない。
あやちゃんを守るということは、〈川村彩香〉も守るということだ。わたしはライターもしているから分かる。特ダネを欲しがる連中の嗅覚は、ハンパなものではない。
わたしは、何を言われてもかまわない。だけど、この一〇年、歌いたいと思い続けてきて、やっと再デビュー目前までこぎ着けたあやちゃんから、歌を奪うような真似だけはしたくはない。
「美咲、そのダンボール箱の中には、何が入ってる?」
と、あやちゃんがキッチンの中から言った。
「えっとね……洋服だよ。これは寝室でいい?」
「うん、そのままで置いておいて……あれえ、譜面が入ってる。お鍋とか、どこかしら」
「ダンボール箱に上書きをしておくんだったね」
と、わたし。
引っ越しの準備は少しずつしてはいたけれど、本格的に始められたのは昨日のことだった。とにかく運べるようにしなくてはと、手当たりしだいに荷物を入れてしまっていた。
「少し休憩しようよ」
と言って、わたしはソファへ。
「そうね、コーヒーをいれるわ」
と、あやちゃん。ゴソゴソとダンボール箱の中を探っている。
「コーヒーメーカー、見つかったの?」
「うん、最初に出てきた。食器はここにあるから……」
と言って取り出したのは、おそろいのマグカップだ。
「疲れたでしょう?」
と、コーヒーメーカーをセットしながら、あやちゃんが言った。
「ううん、大丈夫だよ」
「必要なものだけでも出しておかないと……明日は、私はリハーサルだし、美咲もお仕事があるでしょう?」
「そうだね……」
と言いながら、わたしは『いつにしよう……』と考えていた。
早くしなければ……あまり時間は残されていない。
翌朝。いつものように見送りに出ると、
「どうしたの? 疲れてる?」
と、あやちゃんに言われてしまった。わたしは笑顔をつくってから、
「平気、平気。リハーサル、頑張って」
と言って、あやちゃんの頬にキスをした。
「じゃあ、行ってくるね」
と、あやちゃんは言って出かけていった。
わたしはベランダに周って外を見た。しばらくすると、あやちゃんの車が駐車場から出て行くのが見えた。
「さてと、始めるか……」
と、わたしは一人つぶやいて部屋に戻った。
片づいていない荷物は山のようにある。少しでも整理しておかないと後が大変だ。
わたしは、近くにあったダンボール箱を手に取った。
「どうしたの、これ……大変だったでしょう?」
リハーサルを終えて帰ってきたあやちゃんが、驚いた様子で部屋を見回している。
「全部出したかったんだけど、これが限界。残りは何が入っているか、上書きをしておいたよ」
「ありがとう。お仕事は大丈夫なの?」
「なんとかなるよ。それよりもさ、コーヒーでも飲もうか」
と言って、わたしはキッチンへ。コーヒーメーカーをセットした。
「どうしたの、美咲」
あやちゃんが心配そうな顔で見ている。わたしは何も言わずに、マグカップを用意した。
いまなら、まだ間に合う。『ビックリさせたかったんだ、頑張ったんだよ』と言って抱きしめれば、あやちゃんは、とびきりの笑顔を見せてくれるだろう。
わたしは、時間が止まればいいと思いながら、コーヒーをマグカップに注いだ。
「はい、はいったよ」
と言いながら、わたしはソファへ。あやちゃんにマグカップを手渡してから、隣に座った。
「ありがとう」
と、あやちゃん。ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「美咲がコーヒーをいれてくれるなんて……珍しいわね」
いま言わなくては……言えなくなる。
わたしは両手の中にあるマグカップをギュッと握り、
「今夜、自分の部屋に帰るよ」
と言った。
「お仕事、ここじゃできない?」
「そうじゃなくて……もう……この部屋には来ない」
あやちゃんの顔を見ることができなかった。
「悪い冗談よね?」
「ごめんね……」
「また、私に意地悪をしようとしてるのよね?」
「聞いて、あやちゃん」
わたしはマグカップをテーブルにおいて、あやちゃんに向き直ってから、
「わたしがそばにいると、あやちゃんに迷惑がかかる……それだけは嫌なんだ」
と言った。
「ずっと歌っていてほしい……別れたほうがいいと思う」
「嫌よ!」
あやちゃんが叫んだ。
「あやちゃん……」
「なんで別れなきゃいけないの? それなら私、歌いたくない!」
「歌いたくないなんて、そんな心にもないこと言わないで」
と、わたし。
「嫌よ、別れない!」
「ずうっと歌いたかったんでしょう? わたしと付き合っていることがバレると、絶対に大騒ぎになる。歌えなくなるかもしれない」
「それでもいい……」
と言って、あやちゃんは泣き出してしまった。わたしは、あやちゃんの長い髪をなでながら、
「みんな、あやちゃんの歌を待ってるよ」
と言った。
「美咲……」
「あやちゃんを愛してる。だから、歌ってほしい」
「私が歌えば……美咲は幸せになれる?」
小さな小さな、やっと聞き取れたあやちゃんの声。わたしは、うつむいているあやちゃんの顔をのぞき込みながら、
「あやちゃんが歌っていなかったときよりは、幸せだと思う」
と言った。
「私はどうなるの?」
「ファンのみんなが、ついているじゃない」
「………」
「絶対、世界でいちばん幸せになれる」
「なれなかったら、どうするの?」
わたしは、一瞬、ちゅうちょしてから、
「迎えに行く」
と言ってしまった。
「本当に?」
「どこにいても何をしていても、迎えに行くから」
「約束してくれる?」
「ずっと、あやちゃんを見守っている。約束する」
意味のない約束であることは分かっていた。それでも、あやちゃんのために……いや、わたし自身のために約束しておきたかった。
「………お願い、最後に抱きしめて」
わたしは何も言わずに、あやちゃんを抱きしめた。これが最後だと思いながら。
日付が変わる前に、わたしはあやちゃんの部屋を出た。久しぶりに帰った自分の部屋は、まるで他人の部屋のように振る舞う。妙によそよそしい。
あやちゃんの部屋にあったわたしの荷物は、昼間のうちに宅配便で送る手配をした。数か月だったけれど、ダンボール箱三つにもなってしまった。明日の午後には届くはずだ。
わたしは、リビングの窓を開け放して風を通した。コンビニで買ってきたビールを飲みながら、
「いいんだ、これで」
と一人つぶやいた。
翌日、インターホンのチャイムで目が覚めた。少々、飲み過ぎたようだ。ボーっとしたまま荷物を受け取る。荷ほどきをしないで、再びベッドへ。
目が覚めたら夜になっていた。さすがに仕事をしなければならない。
コーヒーカップを片手にパソコンを立ち上げた。小説の世界にトリップすれば、何も考えなくてすむ。
気がついたら太陽が真上に昇っていた。カーテンを閉めてベッドに潜り込んだ。
そんな日々を一週間ほど過ごしたら、原稿が書き上がってしまった。ライターの仕事もない。
仕方がないので、健吾に電話をかけた。
「ったく、お前ってヤツは……突然、呼び出すな」
と健吾。ハンカチで汗をふきながら、わたしの隣に座った。
場所は銀座にあるワインバー。いつか、あやちゃんと一緒に行こうと思っていた店だ。
「暑苦しいなあ。もう秋だよ」
と、わたし。
「うっさいな……とりあえず生ビール」
ウエイターが生ビールを持ってくると、健吾はあっという間にグラスを空にしてしまった。
「ふう、生き返った! で、どうした?」
「あ? 飲みたかっただけだよ」
と、わたし。グラスに残っていた生ビールを飲み干した。
「ちょっと、いいワインを飲もうよ……この辺はどうだ?」
と言って、わたしが指し示したのは、シャトー・マルゴーのセカンドラベル。
「おい、少し高くないか?」
「たまには、いいじゃん。おごるから」
「……マジで、どうした?」
と健吾。
「いいから飲もうぜ」
「……分かったよ、付き合うよ」
健吾は、あきらめ顔で頷いた。
わたしは、ウエイターを呼び止めてワインを注文した。
「ホント、分かりやすいヤツだな」
と言って、健吾はワインを口に含んだ。そして、ゆっくりとワインを舌で転がしてから、
「……うまいなあ」
と、つぶやいた。
「だな。チーズとの相性も抜群だ」
と、わたし。ワインを飲んだ後にチーズをかじった。
「これくらいのワインだと、さすがにがぶ飲みはできないな」
と健吾。わたしは、
「そういうこと」
と言って、苦笑いを浮かべた。そして、
「後悔はしていない。いい恋愛だったから」
と言った。
「そうか」
「ただ……こんなに喪失感に襲われるとは思わなかった」
「いい女だったんだな」
「ああ、彼女のような女性には、二度と巡り会えないだろうなあ」
と言って、わたしはワインを飲んだ。
「紹介してくれよ」
「ヤダね」
と、わたしが言ったとき、
「あれ、片岡さんじゃないですか」
という声がした。振り返ると山口さんがいた。
「あ……山口さん。その節はどうも……」
「ちょうどいい、ご一緒してもいいですか?」
「ええ、もちろん」
と言って、わたしは隣の席をうながした。
できれば一緒に飲みたくはない。だけど断る理由が見つからない。
わたしは悟られないように笑顔を浮かべて、健吾と山口さんを、それぞれに紹介した。健吾は『あの、プロデューサーの!』と興奮気味だ。
わたしはウエイターを呼び止めて、ワイングラスをもう一つ持ってきてもらった。山口さんにワインを注いだ。
「山口さんなら、飲み慣れているとは思いますが……」
「セカンドでもマルゴーともなると、気軽には飲めないですよ……いただきます」
山口さんは、わたしたちに会釈をしてからワインをひと口。
「いやあ、さすがマルゴーだ。うん、うまい」
と言って、笑みを浮かべた。
「こんなところでお会いするとは、思っていなかったです」
と、わたし。正直、何を話していいのか分からない。
「オレもですよ。一度、お会いしたいと思っていたんですけど、連絡先を聞きそびれてしまったから、どうしようかと……」
「山口さん、美咲とは、どこで知り合ったんです? もしかして川村彩香さん繋がりですか?」
と健吾。山口さんは『おや?』という表情を浮かべて、
「もしかして、彼は何も知らないんですか?」
と、わたしに尋ねた。
「ええ、知りませんけど……もういいです」
わたしは苦笑い。
「察しがついたよね?」
「え? まさかお前の元彼女って……」
「そう、あや……あや姉ちゃんだよ」
と、わたしは言った。
久しぶりに言った〈あや姉ちゃん〉という呼び方。懐かしいような、切ないような……おかしな気分だ。
「お前、彩香さんを振ったのか?」
健吾は『バカか、お前』とでも言いたげだ。
「振ったんじゃない、別れたの」
「同じことですよねえ」
と、山口さん。ワインをひと口飲んでから、
「片岡さんの気持ちは分かりますよ。再デビュー目前の彩香をスキャンダルまみれにしたくはない……事情を知っているスタッフの多くがホッとしています」
「そうですよね……」
と、わたし。
「でも同様に、このままで大丈夫なのかと、多くのスタッフが感じているんですよ。いまの彩香の様子、想像できますか?」
「………」
「ビックリするほどテンションが高いんですよ。このまま突っ走って、持つのかな……」
山口さんは、グラスのワインをグイッと飲み干してからウエイターを呼び止めて、シャトー・ラトゥールのセカンドラベルを注文した。
「あのワインは、コレのお礼です」
と言って、少しワイングラスを持ち上げた。そして、
「こっちは記念ライブのチケットです。あまり番号はよくありませんが、二枚あります。こちらのお友だちと一緒にどうぞ」
と言って、わたしにチケットを差し出した。
「これ……プレミアになってるんじゃ……」
「誰かにあげるつもりで持ってたんです。ちょうどよかった」
「………」
「彩香の歌う姿を見てやってください。音楽業界の兄からのお願いです」
と言って、席を立った。
「そうそう、最後にもう一つ……彩香は、とっくにアイドルを卒業してるんですよ」
「分かってます」
「本当に分かってますか? 歌で勝負するアーティストです。オレがほれ込んだ天才です」
と言って、わたしの肩をポンとたたいた。
「では当日、会えたら……お会いしましょう」
山口さんは、軽く会釈をして店を出て行った。
わたしは、手元に残った記念ライブのチケットをじっと眺めた。




