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指切りげんまん  作者: 田中芽生
10/11

愛しているからこそ

 洋子は二日後に退院した。『会社には、ひどい風邪をひいたと連絡しました。ごめんなさい』というメールが届いてから音沙汰がない。

 わたしは自分の部屋に帰る回数が増えたものの、相変わらず、あやちゃん家に入り浸っている。あやちゃんは、再デビューの日に行われる記念ライブの打ち合わせとリハーサルで忙しい。

 あれから山口さんのもとに、わたしたちの関係を示唆する情報が入らないこともあって、わたしの「少しの間、会うのを控えよう」という提案は宙に浮いているのだ。

 再デビューの一か月前となる九月一日には、あやちゃんの記者会見があって、各局の情報番組で取り上げられた。

 記者たちからは、再デビューに至った経緯や離婚理由に関する質問もあったけれど、

「今だからこそ歌える歌があると思ったんです」

「いつの間にか、グランド・キャニオン級の溝ができていたんですよねえ」

 と笑顔でかわしていた。

『うわあ、〈川村彩香〉になってる……』

 と変な関心の仕方をしていたら、

「ただいまあ……」

 と、あやちゃんの声が。スーパーのレジ袋を下げて、疲れ切った表情で帰ってきたので、ついTVと見比べてしまった。

「どうしたの?」

「だって、ほら……」

 わたしが指をさしたTVに映っていたのは、〈川村彩香〉のパーフェクトな笑顔。

「やだ、もう流れているのね」

「……電池、切れちゃった?」

「ホント、意地悪なんだから」

 と言ってあやちゃんは、わたしの鼻をキュッとつまんだ。

 そう。表向きは、平穏に毎日が過ぎている。だけど、わたしは『どうしたらいいんだろう』という思いを、ぬぐい去れてはいない。

 あやちゃんを守るということは、〈川村彩香〉も守るということだ。わたしはライターもしているから分かる。特ダネを欲しがる連中の嗅覚は、ハンパなものではない。

 わたしは、何を言われてもかまわない。だけど、この一〇年、歌いたいと思い続けてきて、やっと再デビュー目前までこぎ着けたあやちゃんから、歌を奪うような真似だけはしたくはない。



「美咲、そのダンボール箱の中には、何が入ってる?」

 と、あやちゃんがキッチンの中から言った。

「えっとね……洋服だよ。これは寝室でいい?」

「うん、そのままで置いておいて……あれえ、譜面が入ってる。お鍋とか、どこかしら」

「ダンボール箱に上書きをしておくんだったね」

 と、わたし。

 引っ越しの準備は少しずつしてはいたけれど、本格的に始められたのは昨日のことだった。とにかく運べるようにしなくてはと、手当たりしだいに荷物を入れてしまっていた。

「少し休憩しようよ」

 と言って、わたしはソファへ。

「そうね、コーヒーをいれるわ」

 と、あやちゃん。ゴソゴソとダンボール箱の中を探っている。

「コーヒーメーカー、見つかったの?」

「うん、最初に出てきた。食器はここにあるから……」

 と言って取り出したのは、おそろいのマグカップだ。

「疲れたでしょう?」

 と、コーヒーメーカーをセットしながら、あやちゃんが言った。

「ううん、大丈夫だよ」

「必要なものだけでも出しておかないと……明日は、私はリハーサルだし、美咲もお仕事があるでしょう?」

「そうだね……」

 と言いながら、わたしは『いつにしよう……』と考えていた。

 早くしなければ……あまり時間は残されていない。


 翌朝。いつものように見送りに出ると、

「どうしたの? 疲れてる?」

 と、あやちゃんに言われてしまった。わたしは笑顔をつくってから、

「平気、平気。リハーサル、頑張って」

 と言って、あやちゃんの頬にキスをした。

「じゃあ、行ってくるね」

 と、あやちゃんは言って出かけていった。

 わたしはベランダに周って外を見た。しばらくすると、あやちゃんの車が駐車場から出て行くのが見えた。

「さてと、始めるか……」

 と、わたしは一人つぶやいて部屋に戻った。

 片づいていない荷物は山のようにある。少しでも整理しておかないと後が大変だ。

 わたしは、近くにあったダンボール箱を手に取った。


「どうしたの、これ……大変だったでしょう?」

 リハーサルを終えて帰ってきたあやちゃんが、驚いた様子で部屋を見回している。

「全部出したかったんだけど、これが限界。残りは何が入っているか、上書きをしておいたよ」

「ありがとう。お仕事は大丈夫なの?」

「なんとかなるよ。それよりもさ、コーヒーでも飲もうか」

 と言って、わたしはキッチンへ。コーヒーメーカーをセットした。

「どうしたの、美咲」

 あやちゃんが心配そうな顔で見ている。わたしは何も言わずに、マグカップを用意した。

 いまなら、まだ間に合う。『ビックリさせたかったんだ、頑張ったんだよ』と言って抱きしめれば、あやちゃんは、とびきりの笑顔を見せてくれるだろう。

 わたしは、時間が止まればいいと思いながら、コーヒーをマグカップに注いだ。

「はい、はいったよ」

 と言いながら、わたしはソファへ。あやちゃんにマグカップを手渡してから、隣に座った。

「ありがとう」

 と、あやちゃん。ゆっくりとコーヒーを飲んだ。

「美咲がコーヒーをいれてくれるなんて……珍しいわね」

 いま言わなくては……言えなくなる。

 わたしは両手の中にあるマグカップをギュッと握り、

「今夜、自分の部屋に帰るよ」

 と言った。

「お仕事、ここじゃできない?」

「そうじゃなくて……もう……この部屋には来ない」

 あやちゃんの顔を見ることができなかった。

「悪い冗談よね?」

「ごめんね……」

「また、私に意地悪をしようとしてるのよね?」

「聞いて、あやちゃん」

 わたしはマグカップをテーブルにおいて、あやちゃんに向き直ってから、

「わたしがそばにいると、あやちゃんに迷惑がかかる……それだけは嫌なんだ」

 と言った。

「ずっと歌っていてほしい……別れたほうがいいと思う」

「嫌よ!」

 あやちゃんが叫んだ。

「あやちゃん……」

「なんで別れなきゃいけないの? それなら私、歌いたくない!」

「歌いたくないなんて、そんな心にもないこと言わないで」

 と、わたし。

「嫌よ、別れない!」

「ずうっと歌いたかったんでしょう? わたしと付き合っていることがバレると、絶対に大騒ぎになる。歌えなくなるかもしれない」

「それでもいい……」

 と言って、あやちゃんは泣き出してしまった。わたしは、あやちゃんの長い髪をなでながら、

「みんな、あやちゃんの歌を待ってるよ」

 と言った。

「美咲……」

「あやちゃんを愛してる。だから、歌ってほしい」

「私が歌えば……美咲は幸せになれる?」

 小さな小さな、やっと聞き取れたあやちゃんの声。わたしは、うつむいているあやちゃんの顔をのぞき込みながら、

「あやちゃんが歌っていなかったときよりは、幸せだと思う」

 と言った。

「私はどうなるの?」

「ファンのみんなが、ついているじゃない」

「………」

「絶対、世界でいちばん幸せになれる」

「なれなかったら、どうするの?」

 わたしは、一瞬、ちゅうちょしてから、

「迎えに行く」

 と言ってしまった。

「本当に?」

「どこにいても何をしていても、迎えに行くから」

「約束してくれる?」

「ずっと、あやちゃんを見守っている。約束する」

 意味のない約束であることは分かっていた。それでも、あやちゃんのために……いや、わたし自身のために約束しておきたかった。

「………お願い、最後に抱きしめて」

 わたしは何も言わずに、あやちゃんを抱きしめた。これが最後だと思いながら。


 日付が変わる前に、わたしはあやちゃんの部屋を出た。久しぶりに帰った自分の部屋は、まるで他人の部屋のように振る舞う。妙によそよそしい。

 あやちゃんの部屋にあったわたしの荷物は、昼間のうちに宅配便で送る手配をした。数か月だったけれど、ダンボール箱三つにもなってしまった。明日の午後には届くはずだ。

 わたしは、リビングの窓を開け放して風を通した。コンビニで買ってきたビールを飲みながら、

「いいんだ、これで」

 と一人つぶやいた。


 翌日、インターホンのチャイムで目が覚めた。少々、飲み過ぎたようだ。ボーっとしたまま荷物を受け取る。荷ほどきをしないで、再びベッドへ。

 目が覚めたら夜になっていた。さすがに仕事をしなければならない。

 コーヒーカップを片手にパソコンを立ち上げた。小説の世界にトリップすれば、何も考えなくてすむ。

 気がついたら太陽が真上に昇っていた。カーテンを閉めてベッドに潜り込んだ。

 そんな日々を一週間ほど過ごしたら、原稿が書き上がってしまった。ライターの仕事もない。

 仕方がないので、健吾に電話をかけた。


「ったく、お前ってヤツは……突然、呼び出すな」

 と健吾。ハンカチで汗をふきながら、わたしの隣に座った。

 場所は銀座にあるワインバー。いつか、あやちゃんと一緒に行こうと思っていた店だ。

「暑苦しいなあ。もう秋だよ」

 と、わたし。

「うっさいな……とりあえず生ビール」

 ウエイターが生ビールを持ってくると、健吾はあっという間にグラスを空にしてしまった。

「ふう、生き返った! で、どうした?」

「あ? 飲みたかっただけだよ」

 と、わたし。グラスに残っていた生ビールを飲み干した。

「ちょっと、いいワインを飲もうよ……この辺はどうだ?」

 と言って、わたしが指し示したのは、シャトー・マルゴーのセカンドラベル。

「おい、少し高くないか?」

「たまには、いいじゃん。おごるから」

「……マジで、どうした?」

 と健吾。

「いいから飲もうぜ」

「……分かったよ、付き合うよ」

 健吾は、あきらめ顔で頷いた。

 わたしは、ウエイターを呼び止めてワインを注文した。


「ホント、分かりやすいヤツだな」

 と言って、健吾はワインを口に含んだ。そして、ゆっくりとワインを舌で転がしてから、

「……うまいなあ」

 と、つぶやいた。

「だな。チーズとの相性も抜群だ」

 と、わたし。ワインを飲んだ後にチーズをかじった。

「これくらいのワインだと、さすがにがぶ飲みはできないな」

 と健吾。わたしは、

「そういうこと」

 と言って、苦笑いを浮かべた。そして、

「後悔はしていない。いい恋愛だったから」

 と言った。

「そうか」

「ただ……こんなに喪失感に襲われるとは思わなかった」

「いい女だったんだな」

「ああ、彼女のような女性(ひと)には、二度と巡り会えないだろうなあ」

 と言って、わたしはワインを飲んだ。

「紹介してくれよ」

「ヤダね」

 と、わたしが言ったとき、

「あれ、片岡さんじゃないですか」

 という声がした。振り返ると山口さんがいた。

「あ……山口さん。その節はどうも……」

「ちょうどいい、ご一緒してもいいですか?」

「ええ、もちろん」

 と言って、わたしは隣の席をうながした。

 できれば一緒に飲みたくはない。だけど断る理由が見つからない。

 わたしは悟られないように笑顔を浮かべて、健吾と山口さんを、それぞれに紹介した。健吾は『あの、プロデューサーの!』と興奮気味だ。

 わたしはウエイターを呼び止めて、ワイングラスをもう一つ持ってきてもらった。山口さんにワインを注いだ。

「山口さんなら、飲み慣れているとは思いますが……」

「セカンドでもマルゴーともなると、気軽には飲めないですよ……いただきます」

 山口さんは、わたしたちに会釈をしてからワインをひと口。

「いやあ、さすがマルゴーだ。うん、うまい」

 と言って、笑みを浮かべた。

「こんなところでお会いするとは、思っていなかったです」

 と、わたし。正直、何を話していいのか分からない。

「オレもですよ。一度、お会いしたいと思っていたんですけど、連絡先を聞きそびれてしまったから、どうしようかと……」

「山口さん、美咲とは、どこで知り合ったんです? もしかして川村彩香さん繋がりですか?」

 と健吾。山口さんは『おや?』という表情を浮かべて、

「もしかして、彼は何も知らないんですか?」

 と、わたしに尋ねた。

「ええ、知りませんけど……もういいです」

 わたしは苦笑い。

「察しがついたよね?」

「え? まさかお前の元彼女って……」

「そう、あや……あや姉ちゃんだよ」

 と、わたしは言った。

 久しぶりに言った〈あや姉ちゃん〉という呼び方。懐かしいような、切ないような……おかしな気分だ。

「お前、彩香さんを振ったのか?」

 健吾は『バカか、お前』とでも言いたげだ。

「振ったんじゃない、別れたの」

「同じことですよねえ」

 と、山口さん。ワインをひと口飲んでから、

「片岡さんの気持ちは分かりますよ。再デビュー目前の彩香をスキャンダルまみれにしたくはない……事情を知っているスタッフの多くがホッとしています」

「そうですよね……」

 と、わたし。

「でも同様に、このままで大丈夫なのかと、多くのスタッフが感じているんですよ。いまの彩香の様子、想像できますか?」

「………」

「ビックリするほどテンションが高いんですよ。このまま突っ走って、持つのかな……」

 山口さんは、グラスのワインをグイッと飲み干してからウエイターを呼び止めて、シャトー・ラトゥールのセカンドラベルを注文した。

「あのワインは、コレのお礼です」

 と言って、少しワイングラスを持ち上げた。そして、

「こっちは記念ライブのチケットです。あまり番号はよくありませんが、二枚あります。こちらのお友だちと一緒にどうぞ」

 と言って、わたしにチケットを差し出した。

「これ……プレミアになってるんじゃ……」

「誰かにあげるつもりで持ってたんです。ちょうどよかった」

「………」

「彩香の歌う姿を見てやってください。音楽業界の兄からのお願いです」

 と言って、席を立った。

「そうそう、最後にもう一つ……彩香は、とっくにアイドルを卒業してるんですよ」

「分かってます」

「本当に分かってますか? 歌で勝負するアーティストです。オレがほれ込んだ天才です」

 と言って、わたしの肩をポンとたたいた。

「では当日、会えたら……お会いしましょう」

 山口さんは、軽く会釈をして店を出て行った。

 わたしは、手元に残った記念ライブのチケットをじっと眺めた。

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