Bonus Track 444
夏のホラー2012 参加作品です。
泣いて泣いて、泣いたまま眠りについた体は重く、まぶたは腫れて上下がくっついていた。
意識がゆっくりとのぼっていく。
いやだ。覚めたくない。
あんな悲しいことがあった現実になんて、戻りたくない。
聞こえてくる、歌声。
【天音】の、高く澄んだ、名前のままの天上の調べ。
逝ってしまった、歌姫。
もっともっと、聴いていたかったのに。
一度でいいから、生で聴きたかったのに。
眠りの底に沈んでいたいと願っても、音楽に引き上げられる。今となっては悲しみの源ですらある、その曲に。
『Paradigm Shift』――。
ARCAMの最新アルバムの、同名タイトル曲にして、ラストナンバー。
本当の、最後になってしまった。
もう聴けない、天音の歌。
ゆらゆら、ぐるぐる、まわりながら、それでも螺旋階段を上るように少しずつ光が近づいてくる。
朝だ。
二番が終わる。間奏が入る。少しメロディの違う展開部が入って、もう一度、サビが流れて――。
曲が、終わる。
訪れる静寂。
……全曲リピートにしてあるから、また最初の曲が始まるはず。
ぼんやりと待ち、ほぼ同時に、なかなか始まらないことに気がつく。
一気に、覚めた。
がばりと身を起こす。変な格好で寝ていたのか、体が軋む。まぶたをこじ開けようとすれば、目やにでくっついた睫毛が引っ張れて痛んだが、子細構わず枕元のプレイヤーをつかむ。
動いている。再生は続いている。
時間のカウント表示は変わり続ける。二分三十五秒、三十六秒、三十七秒……。
トラックナンバーは「13」。
――『Paradigm Shift』は全十二曲だ。
来た。と思った。
鳥肌が立った。
辿り着いたんだ。どこがどこでどんな作用をしたかはわからないけれど。
隠しトラック。
まだ誰も辿り着けていない『Paradigm Shift』のそれ。
――ううん、辿り着いた人はいたかもしれないけれど。
誰も、伝えることが出来ずにいた、それに。
†
ARCAMは日本のロックバンドだ。
女性ヴォーカル・天音を軸に、ギター、ベース、ドラムス、ピアノの五人から成る。
天音の類い希な美声と歌唱力。幻想的で寓話的、それでいて深い共感を引き出す詞。音楽の専門知識に裏打ちされた美しいメロディ。重厚かつ自由な編曲に巧みな演奏。
評価されている項目はいくつもあるが、彼らが若い世代を中心にカルト的な人気を誇っているのには、もう一つ、大きな理由がある。
『ボーナストラック』。
CDを、ある決まった曲順で再生していった時のみ辿り着ける隠しトラックの存在。
公式には一切明言されていない。
おかしなことに、MP3等音楽ファイルに落として聴いていても、ボーナストラックは再生されない。
CD収録データを全精査しても、見つけられない。
だがそれは確かに存在する。
この奇妙で不可思議な仕掛けが、昨今には珍しくCDソフトの売上を伸ばしており――彼らが滅多にメディアに顔出しをしないことも手伝って、ますますその神秘性を高めていた。
††
上野香菜は、身じろぎもせず、CDプレイヤーを見つめていた。
再生表示は進んでいる。
三分五十八秒、五十九秒、四分……。
スピーカーからは依然何の音も聞こえてこない。
それでも香菜は待った。
今までにも、数分の無音状態の後に曲が始まることがあった。
せっかく掴んだ手がかりを離す訳にはいかない。
四分二十一秒、二十二秒、二十三秒……。
祈るような気持ちで目が数字を追う。
だが、間もなく数字は止まった。
再生は終わってしまったのだ。
4:44
トラック表示の13と並んでいる。
ありきたりで、あからさまで、それ故あまりにも。
――不吉な数字。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
階下からいつもの朝のニュース番組が聞こえてくる。
食事の支度をする母の気配。
それでも、そんな日常で消せないほど言いしれぬ寒気が、香菜を襲う。
いやだ。
もう、いやだ。
こんなのは違う。
これは私の日常じゃ、ない。
「……美咲ぃ……」
掠れた、震える声が友人の名を呼ぶ。
半月も前ではない、あの時確かに、自分は日常の中にいたのに。
†††
「かーなんっ」
香菜のことをその名で呼ぶのは一人だけだ。
朝の通学路。振り返れば予想通り、駆け寄ってくる桜庭美咲。
「おはよう、美咲」
「おはよー」
色素の薄いさらさらの髪が光に煌めき、可愛い/美人、どちらの形容を使っても差し支えないその顔を縁取っている。
今日はことさらに機嫌が良い。理由は恐らく。
「へっへっへー。アーカムの新譜! だよ!」
サブバッグから取り出したビニール袋は有名CDショップのもの。この辺では三つ向こうのターミナル駅前にしかない。
「フラゲ」の為なら電車賃も何のその。宣言通り、彼女は成し遂げたのだ。
香菜が予約した近所の店は今日にならないと入荷しない。朝からテンションが上がる。
「いいなー。どうだった?」
「よかったよ! 今回も、すっごくよかった!!」
「……【あれ】は?」
聞いてしまうのもつまらないかなと思いつつ、好奇心は抑えられない。
「【それ】は、まだ」
美咲の方も心得たもので、にやりと笑みを返してくる。
「自分でもいろんな組み合わせ試しながら、ネット漁ってたんだけど、今回はまだどこにもね、情報来てないみたい」
ARCAMの新譜が出るたびに、世間の話題はボーナストラックの出し方で持ちきりになる。
「今回は全十二曲だから、えーと、単純計算で四億八千万通りとか……」
「よんおくはっせんまん!」
正に桁違いの数字だ。数学は苦手だから、自分で計算は出来ないが――。
「前のアルバムの例だと、最初の一週間で四十万枚動いたじゃん?」
美咲が人差し指を立てて、空中をくるくるとかき回す。
「四億八千万割る四十万なら――千二百!」
「……絶望的じゃない」
しかもそれは全くダブりなく手分けできた場合だ。
早送り不可トラック飛ばし不可の噂もあるから、千二百回のフル再生が必要で、全曲一時間を日に三回聴いたとしても――。
「うーん、一年以上かかるねー」
美咲は笑う。
「まあでも、そこはやっぱり全くの出鱈目って訳じゃないからさ?」
そう、ボーナストラックに至る曲順のヒントは、常に散りばめられている。
ある時はタイトルの文字数順だったり、またある時は歌い出しのアイウエオ順だったり。ブックレットの装丁に隠されていたことも。
その暗号が解けたときがまた嬉しいから、盛り上がる。
「わかったら教えてね」
「かなんこそ。閃いたら教えてよ」
大抵の場合、美咲の方が情報が早い。ネット検索能力、リアルの友人の多さ、いずれも香菜を遙かに上回る。
一方香菜は、直感、第六感の類いが冴えていた。
「あーあ、ライブ行ってみたーいっ! 天音に会いたいよぉっ!」
「チケット取れないよね。ファンクラブ、何で未だに無いんだろ」
「そーゆーミステリアスなところがまたいいんだけどさ。でもでももっと情報ほしいよねー」
話し出せば止まらない。
二人が仲良くなったきっかけも、このバンドだったのだから。
††††
『Paradigm Shift』は名盤だった。
少なくとも香菜はそう思った。
ARCAMのアルバムは、出るたびに彼らの新しい一面を見せてくれる。
それは“古参ファン”から「変節」と批判されることも多く、案の定今回は特に叩かれた。
が、「故の『Paradigm Shift』なのだ」という肯定もそれ以上に見受けられた。
辞書でその語を引けば、「ある時代・集団を支配する考え方が、非連続的・劇的に変化すること。社会の規範や価値観が変わること」とある。
地動説や相対性理論、進化論にも通じる、大きな、圧倒的な変革の予感。
『Paradigm Shift』はそれを感じさせて、聴いていると自分でもよくわからない涙が溢れてくるのだ。
一方で、隠しトラックはなかなか見つからなかった。
私設の情報サイトにも、巨大匿名掲示板にも、飛び交うのは推量や憶測ばかり。
だが、香菜には全く気にならなかった。
というより、今回に限ってはボーナストラックのために曲順を組み替えることが、良いこととは到底思えなかったのだ。
このアルバムは、このままで完成している。
完璧なのに。
見つけられないことに焦れて、掌を返したように隠しトラックの存在自体を叩き始めたネットの声は、雑音以下の騒音で、香菜は何日かそこから遠ざかって、ただプレイヤーから流れる音楽に耳を傾けていた。
そして、その日はやってきた。
土曜日の朝。
休みでも変わらぬ時刻に起きる香菜は、テレビを点け、そして知る。
――次のニュースです。
人気ロックバンドARCAMのヴォーカル・天音さんが、亡くなりました。
今日未明、港区のビルの前の路上に倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認されました。
十三階には所属事務所があり、そこに天音さんの荷物が残されていたこと、窓が開いていたことなどから、ここから転落した可能性が高いと見られ、警察は事件・事故の両面から捜査に当たっています――。
第一報では、「自殺」という言葉は使われなかった。
けれど、それをまず疑った者は少なくなかったろう。
何故なら、いつも予感はあったから。
この世界は、彼女にとってあまりにも生きにくいのではないか。
繊細で美しく、優しすぎる彼女には。
しかしいくら予感があろうとも、引き替えに喪失感が埋められるものではない。
むしろ無形の後悔が載ってくる。
自分たちは、享受するばかりで何も返せていなかったのではないか。
否、自分たちこそが、彼女を追い詰めたのではないか。
ネットを飛び交う、噂の数々。
彼女はずっと前から神経を病んでいた。
体もぼろぼろだった。
薬を使っていた。
酒に溺れていた。
メンバーと不仲だった。
恋愛関係のもつれ。
音楽性の違い。
事務所移籍に伴ういざこざ。
――天音は、『ボーナストラック』に苦しんでいた。
つい覗いてしまった掲示板で目にした言葉に、香菜は凍り付く。
『隠しトラック』が販促の手段と成り果てて。
正当な評価が失われて。
それでも生み出さなくてはならない苦しみ。
やめたかったのに。
やめられなくて。
彼女は、人生そのものをやめてしまった。
†††††
桜庭美咲が死んだのは、天音の告別式の翌日だった。
††††††
――『Paradigm Shift』の隠しトラックは死を呼ぶ――。
後追い自殺って言われてる何件か、あれ、聴いちゃったせいらしいよ。
すごく苦しげな女性のうめき声が聞こえるんだって。
逆再生すると呪いの言葉になるって。
夜中に独りで聴いてると、後ろから肩を叩かれるって。
違うよ、机の下から手が伸びて足首を掴むんだよ。
血まみれの女の人が天井からこっちを見てるって。
四階なのに窓が外から叩かれるとか。
それで、掌の形にべったりと血の跡が。
――それで、肝腎のトラックの出し方は――?
わからないんだよ、だって知った人はみんな死んじゃうんだもの。
掲示板に書き込んでも、真実はいつの間にか消されるって。
残ってるのはみんなガセ。嘘。出鱈目。
私の友達の先輩、「わかった」って周りに言ったあとから、学校に来てないんだって。
後輩の親戚の子、急に病気になって入院したんだ。もしかして。
――今度ラジオで、ボーナストラック流すらしいよ――。
うそ、聴きたい。
でも、やっぱり怖いよ。
聴いてしまったら、どうなってしまうの?
†††††††
トラックの出し方を見つけました。
『Paradigm Shift』を、曲順を変えずに再生します。
全曲リピート機能を使って、七回。
七回目のラストナンバーの後、十三曲目が始まります。
それは、四分四十四秒の、無音です。
少なくとも私には、そうとしか聞こえませんでした。
††††††††
その書き込みは、香菜が見つけた真実であるにも関わらず、噂のようにいつの間にか消されたりはしなかった。
いつまでも残って、あちこちにコピーして貼り付けられて、拡散していった。
本当だ。という者がいた。
聴けない、ガセだ、という者もいた。
どちらでも、構わなかった。
だって美咲はいなくなってしまったのだから。
自分はトラックを聴いてしまったのだから。
もう戻れはしないのだから。
ただ、
「『四分三十三秒』へのオマージュなのかな」
という、何気ない誰かの書き込みだけが不思議と心に残った。
†††††††††
「かなん!」
高校に入学してまだ間もない頃のこと。
突然話しかけられて、驚かなかったと言えば嘘になる。
警戒しながら目線を上げれば、美少女がきらきら笑顔で席の横に立っていた。
目を引く容姿だったから、香菜の方では『桜庭美咲』の名前は認識済みだった。
「それ、アーカムのグッズ? どこで買ったの?」
と、香菜の使っているクリアファイルを指さしている。
「あ……えと、売り物じゃ、なくて」
急に気恥ずかしくなって小さくなる声を自覚する。
それは、香菜のために従兄が作ってくれたものだった。
アルバムのジャケット写真やブックレット、雑誌の記事などをスキャンしコラージュして印刷し、内側から貼ってある。
デザイナーの端くれである彼にとってはお手の物で、市販品と言っても見劣りしないそれを香菜は愛用しているのだった。
「すごい、素敵! 特にここ」
褒めてくれた箇所に、頬が熱くなる。
「辿り着いた約束の地で~」
口ずさむ声は小鳥のようだ。
「――『Canaan』のサビだよね」
「うん。……好きになった、きっかけの曲だから」
ファーストアルバム『Promised Land』の隠しトラック。
その歌詞があまりにも心に響いた香菜は、デザインに取り入れてくれるよう従兄にねだったのだ。
彼は期待に応えて、乗算、色調反転、余白への書き入れ、様々な手段で言の葉たちを散りばめてくれた。
「あたしも大好きなんだー。なのにカラオケ入らないよね」
「あの……同じのがまだ家にあるから、よかったら……使う?」
おずおずと提案したら、美咲は一瞬目を見開き、それからとびきりの笑顔で答えた。
「嬉しい! ありがとう!」
翌日、約束の通りファイルを渡して、香菜は美咲から「かなん」と呼ばれるようになった。
それまでの人生では名字にさん付けが基本だった。クラス内で一番仲がよかった子からも、「香菜ちゃん」止まりだったのに、そんなアダ名で呼ばれてしまうなんて。
こそばゆい。でもそれ以上に嬉しい。
勇気を出して、香菜も彼女を『美咲』と呼ぶことにした。
十五年間生きてきて、初めての、呼び捨て。
初めての、親友。
††††††††††
それなのに美咲は、「もういいよ」と言ったのだ。
しつこい、飽きた、聞きたくない。
ボーナストラックとかもう興味ない。
死んじゃったらおしまいじゃない。
自殺なんて絶対良くないよ。
どんな理由も理由にならないよ。
馬鹿のすることだよ。
失望した。
天音も、ARCAMも、もう嫌い。
もう、話題にしないで。
それで香菜は、言葉を奪われたも同然だった。
だって、ARCAMの他に美咲との共通の話題なんて、無いのだ。
あの時すでに、香菜はボーナストラックに出くわしていたのかもしれない。
耳の奥でがんがん鳴り響いていたのは、無音だった。
無音の他には何も聞こえなかった。
雑踏のざわめきも、遮断機の警報音も、駅のアナウンスも。
急ブレーキの音も。
物のぶつかる鈍い音も。
美咲が上げたであろう、最後の悲鳴すら。
香菜は今日も『Paradigm Shift』をリピートする。
ボーナストラックに辿り着くために。
あの無音の中に、香菜が本当に聞きたい何かが隠れている気がして。
耳を澄ます。
と、女性のうめき声が聞こえる。
おかしな話だ。まだ三曲目、ボーナストラックには遠いというのに。
天音の、高く澄んだ、名前のままの天上の調べ――に、絡みつくような、うめき声。
か……な…… …… ……ん。
ぽたりと、頬に熱い何かが落ちてきた。
指で拭うと、赤い。
爪の間に染みこんでいく。
生理の手当をするときに、こんな風につけてしまって、なかなか落ちないのを思い出した。
ああ、「手を汚す」って、こういうことなんだな。
ちょっと、ほんのちょっと、押しただけだったのに。
憤りが、悲しみが、絶望が、恐怖が、上手く言葉に出来なくて、ほんのちょっとぶつけただけだったのに。
ゆっくりと目を上げる。
天井の付近に、いる。
見る前からわかっていた。
変わり果てた姿の美咲が、こちらをじっと睨んでいた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
予告文とは、ちょっと、ちょーっと違う着地点になってしまいましたが、お楽しみいただけたでしょうか。
嘘予告とか、予告詐欺とか、言われてしまいそうです。
すみません。どうぞご容赦ください。
予告文の訂正って出来ないのがつらいわー。
今回、書けなくて書けなくて、困りました。
ホラー企画とか参加するんじゃなかった! と後悔しました。
だって「ホラー」なんて生まれてこの方書いたことないんですよ。
――と、思ってましたが、一回だけ書いたことあるのを思い出しました。
お金持ちのお嬢様に家庭教師として雇われた女性がドライフラワーにされてしまうという話……。
大学のとき、サークルの会誌に発表しました。
それからずいぶんと時が流れて、今回こんなのが仕上がりました。
閑話休題。
それで、とにかく書けなくて。
大体、途中の展開もオチも考えずに予告だけ書いたから仕方ないんですけど。
いつもだったらそれでも何とか、書いてるうちにどうにかなるんですけど、今回は「字数制限」という強敵がいて!
短くまとめるの苦手なんです、超苦手。
恐れおののいているうちに、話全体にストップがかかってしまいました。
ホラーとかあんまり読まないので、お手本にするものも思いつかず。
「――しまった。山岸凉子さんを目指せばよかった」
漫画ですけど、「怖い話」と言ってまず思いつくのはこの方なんです。
……いや、でももう、このネタにした時点で、ちょっと遠のいちゃったし。
うーん、と、また悩んで、辿り着いたのは楠桂さんでした。(またしても漫画家さんですが。)
あ! これならイケる!!
と思って、ようやく何とかなりました。
いや、本当に楠桂さん風になってるかどうかはまた別として。
いつか、もう少し実力がついたら、同じネタを違う展開違うオチで書き上げたいです。
あとがきがまたしてもだらだら長くなってしまいました。
書けなかった書けなかったと言い訳ばかりでお見苦しいですね。
申し訳ありません。
この辺で失礼したいと思います。
本当にありがとうございました。