五話
振り下ろされた爪は、見事に春斗の腹を抉るように命中し、血が出るような傷がかろうじて出来なかったものの、そのまま軽い体は吹っ飛ばされて壁に激突する。
腹部に強いダメージを受けた為か、春斗は大きく体をしならせて吐血し、その場にうずくまって動けなくなってしまう。
その衝撃でカンカン、と春斗の体から何かが飛び出したが、このホールにいる悪魔がそんな事を構うはずがなく、春斗は霞む視界で修也だった悪魔を見上げた。
「あまの…さんっ…!」
『お前のお陰がなければ、見に来るものが一人だっていやしないこんな絵の完成を待ち続けた俺を、笑いに来たのか…』
修也の声に混じり、低く野太い声が混じっている。ぎりぎり修也の自我が残されているのか、ジゼルだと気づいた修也が春斗にそう尋ねる。
頭の中に直接響くような不快な音声に顔をしかめていると、体を指先で持ち上げられ、春斗は息を詰まらせて小さく呻いた。
『答えろよ、怪盗ジゼル…なんの為に…なんの為に俺の絵なんかを…!』
パン!と再び振り下ろした尾の先が、先ほど春斗が落としたものに軽くぶつかり、カチッ、と小さな音の後、突然修也が聞きなれた優しい声が、ホールに響いた。
「お兄ちゃん、あのね、私。栞…だよ」
『し…栞…?本物…の?』
「実はお兄ちゃんの絵の片方を、展示しないで下さいって言ったの、私なの、怒ってる?けど、許して欲しいな、私ね、お兄ちゃんの絵が、一番好きなの、だからいいでしょ」
指先から春斗の体がこぼれ落ち、春斗の変身はふっ、と解けて倒れこむ。
声を聴いてから、先ほどまでの邪悪な煙が徐々に薄くなり始め、最後の一言には春斗の変身のように体は修也のものへと変わっていた。
「私があの絵の片方を、独り占めしても…ごめんね、お兄ちゃん、天国でも、幸せにね」
『しおり…っ…』
ぼろっ、と幽霊であるはずの修也の瞳から涙のような淡い光が漏れ、伝ってゆく。
春斗は上半身をゆっくり起こすと、緩く微笑んで彼の絵を見上げた。
「居たんじゃないですか…唯一、心から貴方の絵を愛する人が…」
修也の心の中に、ふわりふわりと過去の思い出が甦る。
何気なく、栞と過ごした、家族と過ごした日々、そして楽しんで絵を描いていた日々。
人が、走馬灯と呼ぶものが遅ればせながら流れてゆき、修也は静かに目を閉じた。
『ジゼル…』
「はい」
『昨日は悪かった…それともちろん…今日のことも…もう未練もなくなったよ、ただ…一つだけお願いしていいか?』
「ええ、構いません、何ですか?」
『 』
用件を言い終わると、
修也は清清しい笑顔で光の粒となって消えてしまった。
今回は自ら祓うことなく、修也が成仏した事で、ほっと安堵を一つ、春斗は困ったように微笑んで、横になったまま、彼の巨大な絵を再び見上げた。
「さて…もう仕事頑張ろう…!」
「待て!ジゼル!」
「ったくうじゃうじゃうじゃうじゃ、うぜえっ!いっそ纏めて爆発させてやろうか!」
「兄さん!」
警官から数十分、春斗と修也の出来事も知らず、追いかけっこをしていた海斗は、不意に声を掛けられて正面を見遣る。そこには満身創痍のジゼルの姿をした春斗と、開け放たれた窓からぶら下がったロープ。
そして何より目を惹いたのは、春斗の体より大きな美術品。
海斗は言いたいことを全て飲み込み、春斗の手を掴むと、追いかけてきた警官二人に同時に振り返り口角を上げて言い放つ。
「それでは、ごきげんよう」
窓から足を離し、ロープの先にあるヘリに揺られて、二人は美術館を飛び立った。
美しい月夜の夜、再び姿を消した二人のジゼルに圧倒されながら、短い夜はあっという間に更けてゆくのだった。
翌日、ジゼルに盗まれた絵画のニュースを眺め、栞は残念そうにテレビの電源を落とす。
学校へ行く為、食べかけのパンを口に押し込み、クツも同じようにかかとを押し込む。
まだ薄暗い朝、ドアを開けると何故だか数センチしか開かない。
開いた数センチから何が挟まっているのか確認した栞は、あっ、と声に出して驚き、ドアを強引に開いて立てかけられていたものをみて立ち尽くす。
そこには昨晩盗まれた絵画、海の女が綺麗に衝撃吸収剤に包まれて置かれていたのだ。
栞は暫く驚いたまま、一人の少年を思い出していた。
「…まさか…ね…お母さん、お母さん、大変だよ、お兄ちゃんの絵が!」
『この絵を愛する人だけに見せていたいんだ、お願いしてもいいだろうか』