四話
美術館地下のレストランは、あの美術館の盛況振りが嘘のように、人の姿がまばらだった。空いた席に腰掛け、栞と向かい合った春斗はまず、何を言ったらいいか考えた。
俯いた彼女は言いたいことがありそうだが、さすがについ先ほど顔を合わせたほど初対面の相手に何を話したらいいのか、彼女もきっと迷っているのだろう。
ここは場を和ませようと、春斗はにっこりと笑顔で栞に話しかけた。
「それにしても、修也さんの絵は優しくていい絵ですよね。実は星ヶ岳美術館で海の女を見るのは二度目で…今回はジゼルの騒ぎがあったからまた見たくなって見に来たんです」
「兄の絵を…そんな風に言って下さるなんて…嬉しいです。兄の生前にはあまり誰からも評価を頂かなかったので…」
「そうですか…残念です…僕はとても気に入っているのに」
案外嘘でもない一言を呟き、適当にメニューをめくる。
栞は今の会話で若干緊張が解けたのか、彼女も笑顔を返して話を続けた。
「そういえば…あの作品が何故未完成か…でしたね…未完成であることは兄から?」
「ええ…」
「実はあの絵は、二枚で一つの作品…なんです」
「二枚で?」
春斗は栞に気づかれないよう、携帯にメモを取りながら顔を上げる。
「あの絵、でかいでしょう。この美術館には展示スペースが少ないからって断られたんです。元々兄の絵をここの館長さんが気に入って下さって…それで置いて頂けることにはなったのですが…」
「絵の大きさから二つは飾れないと…」
「私…悔しくて…」
制服姿の栞は、自分の制服のスカートをきゅっ、と握り締めながら目に涙をためた。
春斗はおろおろと栞が泣きそうになっているのを慰められず、困っていると、栞はふふっ、と小さく笑んで涙を拭った。
「ごめんなさい…その…館長さんから昨日、電話が来たんです」
「えっ?どんな?」
「ジゼルのお陰で海の女を見に来る人が増えたから、もう一枚を絵を買い取らせて欲しいって…」
「な、なんて自分勝手な…」
「それで…私も断ってしまって…兄になんて謝ればいいか…私…」
ついに顔を覆って泣き出してしまった栞に、春斗は鞄からハンカチを取り出して栞に差し出す。
栞は差し出されたハンカチにきょとん、としていたが、やがて静かに受け取り、涙をふいてありがとうと述べた。彼女が断った以上、修也の悲願を叶えることは出来そうにない。
だが春斗には一つ、秘策が思いついていた。
「謝ればいいんです」
「えっ?」
「お願いがあるのですが、一つ、引き受けてはもらえませんか?」
夜。
すっかり来場客も消えた美術館で、春斗は厳重な警備を眺める。
リベンジともあり、海斗も隣に居たが、その格好は普段ジゼルが着用しているものと似た衣装で、表情は暗い。
「はあ、久々にこんな格好にさせられると思わなかったぜ…今度は失敗すんなよ…」
「わかってるよ、父様に叱られちゃうものね」
バサッ、と体をマントに包み込むと、数秒で剥ぎ取り、マントに包まれていた体は包む前とは打って変わり、丸みを帯びる。他校の制服に、セミロングの黒髪、愛らしい表情の少女、栞に変身した春斗はにっこりと笑って海斗にピースしてみせる。
「どう?完璧?」
「おう…お前変装術だけは得意だよな…ともかく、俺がおとりになっていられんのも数十分、すぐに蹴りをつけろよ!」
くん、と自分の身長の二倍はあろう鉄格子を飛び越え、海斗は美術館の方向へと走り出した。
栞の姿となった春斗もそれに続き、鉄格子を飛び越える。
丁度春斗の足が地面に着いた瞬間、鋭い警官の声と犬の鳴き声が響き渡った。
「いたぞ!ジゼルがやっぱり現れた!今日はなんだかちっこいぞ!」
「うるさい!黙って追ってこいのろま共!」
(大丈夫…かなぁ…)
追ってくる警官の一言に激昂して反論しながら逃げる海斗を思い、春斗は心配になりながらも美術館の壁を登るべく、歩き出した。
窓を割ると警報が鳴る為、ゆっくりと窓の桟に指先を引っ掛け、起用に押し開けた春斗は、警備が薄いことを確認して海の女のベースへと歩いてゆく。
既に海斗がここから誘導したのか、警備はされておらず、あっさりとホールに侵入した春斗は絵の付近まで歩み寄った。
『誰…か…いる…のか…?』
声がすぐにした。
その声は澱んでいて、修也のものだとは気づいたが、様子がおかしい。
しゃがみ込んで薄いその体を覗き込むと、修也は苦しげに顔を上げ、口を動かした。
『しお…り…?しおり…なん…でっ…!』
「天野さん、しっかりしてください!」
春斗が触れようとした瞬間、修也からどす黒い煙が一斉に噴出し、修也は悲鳴を上げる。
春斗は煙が口に入り込まないように口を押さえ、悪魔と変貌してしまった修也に、苦い表情をした。既に、己の自我を失くしたようにぐったりとした異形の姿。
体は犬のようであり、蛇のようにうろこがある。長い尾を力強く振り上げ、地面を叩きつければ、地震が起きたかのような大きな揺れが美術館を包み、外も中も全ての照明が一度に消えうせた。
「天野…さん…」
牙のびっしりと生えた口を大きく開き、咆哮をする姿はもはや人間だった事すら忘れてしまうようで、春斗はつい、目を逸らして俯いた。遅かった、自分が昨日助けられなかったから。様々な気持ちが溢れ出し、春斗はやるせなさから立ち尽くし、そんな春斗の巨大な爪が振り下ろされようとしていた。