三話
怪盗ジゼル、まさかの失敗?星ヶ岳美術館の海の女は無事。
新聞の一面を大きく飾る記事に、海斗は深いため息を一つ、分厚いその新聞紙を見事にくしゃりと握りつぶし、足元で土下座して動かなくなってしまった弟の春斗を見下ろす。
掛けてやりたい言葉は沢山あるが辛らつなものしか浮かばない。そんな言葉を掛けてやりたくもなるジゼル史上稀に見る汚点であったが、小動物のように震えている相手をそう嬲ることも出来ず、やはりその小さな唇からはため息が漏れるばかりだった。
「あのな…。別に美術品を盗まないのはよくあることなんだよ…悪魔か幽霊を祓えばそれでいいんだからよ…でも口上も何もなしに逃げて帰ってきたとあっちゃあ…親父が黙ってないぞ、これ」
「申し訳…ないです」
「はあ…、こんな見出しまで出されて…馬鹿だな!お前、正真正銘の馬鹿だろ!」
ばっ、と顔を上げた春斗の目には大粒の涙が浮かんでおり、心底嫌そうにその春斗の顔を見つめて、海斗は指で背後に来るように指示をする。
「もういい…肩もめ…もう疲れた。お前がホールにいる間眠り薬で警官足止めするのも大変だったんだぞ!」
「ううっ、ごめん…兄さん…。今度は祓ってくるから…」
「ったくしっかりしろよ。表向きは怪盗で派手にやってるけど、俺たちにしかあいつらは目に見えない。活動時間は夜で、調度一年でこの世に未練がある霊は悪魔に成り果てて人を襲う…。」
「兄さんは怪盗していた時…こんな目に遭ったらどうしていたの?」
「そりゃ捕まれば終わりだからな、逃げはしていたが目的はちゃんと果たしていたっつーの。ま、言っても俺がジゼルだったのはたったの二年だけだからなー…」
先代ジゼルである海斗は二年間、ジゼルの衣装に身を包み春斗と同じように美術品や悪魔に憑依された人間の元に現れては祓い、生活をしていた。
春斗達が住む屋敷は祖父の代から続く怪盗業のお陰でもあったが、それも盗んだ美術品の処分に困ってのこと。彼らの本来の目的はこの世に蔓延る目に触れられぬ存在との対峙にあった。
ものすごい労力を払って行うこの慈善事業も、訳があるのだが、春斗はそれを知らずにいる。
尤も、後に知ることにはなるのだったが…。
翌日。
学校が休みともあり、星ヶ岳美術館を訪れた春斗は、その人の多さに驚き、館内を見渡す。
すっかりジゼルが仕留めそこねた海の女のベースは行列が出来、その絵を一目見ようと外にまで人が溢れていた。チケットを購入し、まざまざと昨日の仕事の失態を見せ付けられたようで、春斗は一人、いたたまれない気持ちで群集を眺める。
「あれ、春斗じゃん!」
「げっ…慧…」
春斗が振り返るとそこには、両手一杯にジゼルのグッズを抱えた慧が立っていた。
美術館で販売されたジゼルのグッズなのだろうが、春斗はそれを見て改めて嫌な顔をする。当人の慧といえばにやにやとだらしない表情をして、春斗の肩を叩いた。
「何だよ、やっぱりお前ジゼルのファンなんだろー隠すなよー!今丁度海の女を見に行こうと思ってたんだ、一緒に行こうぜ」
「あ、ちょっと…!」
「ほら、早くしないと閉館しちゃうぞ、なんたって今あの絵を数秒見るだけで一時間は並ばないといけないからな!」
「…まるでアトラクション待ちみたいだね…」
慧はそのまま強引に春斗を海の女を見るための列に引き込む。
この美術館に訪れている殆どの人間が昨夜のジゼルが盗もうとした絵を見たがっている。
そんな大それた事をした少年が今まさにすぐ側にいるというのに誰もそれに気づくことはない。春斗は奇妙な気持ちになりながら、絵のあるホールを眺めた。
(修也さん…大丈夫かな…)
ふと米粒のように人が並ぶ列の脇に、一人絵を見つめるわけでも、並ぼうとしているわけでもない少女を見つけ、春斗は目を奪われる。
彼女の顔には見覚えがあったが、名前が出てこない。
前に悪魔を祓った人間だっただろうか、はたまた美術品を盗んだ屋敷の娘か。
考えを巡らせていると、急に彼女の名前を思い出した春斗は、慧に振り返って告げた。
「ごめん、やっぱり僕時間が惜しいから今度来るよ…慧は楽しんでいって、あ、これパンフレットもあげる」
「お、おい、折角並んだのに何処行くんだよ、春斗!?」
列の脇に設置されていたロープを潜り抜け、春斗は慧に振り返ることなく走り去った。
慧はまたしても置いてきぼりを食らい、自分も貰った美術館のパンフレットに視線を落として小さくため息をついた。
「あのっ!」
人ごみから先ほどの少女を見つけ出した春斗は、努めて大きな声で少女を呼んだ。
一瞬、自分の事とは分からなかった少女がきょとんとして立ち止まった為、春斗は少女の目の前まで回りこみ、少女がちゃんと名前の子と合っているのを確認して笑顔を向けた。
「あなた、天野栞さんですね?」
「…どうして、私の名前を?」
「僕の名前は吾妻春斗…お兄さんのその…知人で…あの絵のことについて尋ねたいんです、何故、未完成なのかを…」
「兄のお知り合いの方…そうですか…初めまして、あの絵が未完成であることを知っていたのは貴方が初めてです、私もお話を伺ってもよろしいですか?」
春斗は栞が不審がっていないことに安堵して、二度ほど頷いて踵を返した。
「じゃあここではなんですし、下のレストランでお話しましょう」
「はい」
栞の表情は浮かなかったが、静かに頷きそう返した為、春斗も歩き出す。
彼女は天野修也のたった一人の妹、天野栞。
何となく写真を目にしていて顔と名前を覚えていたのは奇跡ともいえた。春斗は後ろからついてくる彼女に不審がられないよういかに情報を引き出すべきか考えながら、携帯を取り出し、海斗にメールを送る。
〔天野栞さんに接触することが出来たから、修也さんの出来るだけプライベートなことを教えて〕
返信はすぐで簡潔だった。
〔わかった、今添付したデータを開いて目を通しておけ〕