二話
「いたぞ、逃すな!」
美術館の警報音を聞きながら、とても常人では成し得ない速さで廊下を駆け抜け、ジゼルは今夜も仕事をこなしていた。毎度、悪魔や霊を祓う時には警備員たちの目を逸らせる工夫が必要な為、今回は一箇所に集め、全員眠らせてから仕事を完了させる。
あとは帰還するだけとなったのだが、そう簡単に返してくれるはずもなく。
左右に分かれた廊下ではジゼルを挟み込むようにした大勢の警備員や警官が押し寄せ、すんで掴まれるという所で大きく飛び上がると、一人の警備員の頭を踏み台に、ジゼルは窓から飛び出した。
窓から飛び出せば後はこの美術館の構造上、そのまま落下すれば外壁の向こう側。
普通の人間ならば死んでしまうかもしれないが、ジゼルの想像する、という能力で飛び出した瞬間、着地しているイメージがあれば死ぬことはないし、見つかることもない。
少し振り返ってこちらに手を伸ばした警備員達にいつものように敬礼を一つ、ジゼルは今宵も闇の中へと姿を消した。
「きゃああ!」
ガサッ!と茂みが揺れる音と、着地に失敗し、頭から生垣に突っ込んでしまったジゼルは小さな悲鳴に驚いて顔を上げた。
美術館の外はあまりマークされてなかったが、もしかして一般人にでもぶつかったのかと慌てて体制を直して見渡せば、目の前にいたのはジゼルより幼いような、少女が一人。
それもまるで民家のような風景の中に佇んでいる。一体ここは何処なのか、イメージを間違ったのか。
混乱する頭は小さく先ほど聞いていた美術館の警報音を拾い上げ、まだここが美術館に近いことを悟る。ジゼルはなんと声を掛けようかと迷い、怯えた少女を見つめていたが、口を開いたのは少女が先だった。
「あなた、隣の美術館からここに逃げ込んできたのね!」
「えっ、と…隣…?」
ジゼルは背後に振り返る。ここはどうやら彼女の家の庭らしく、仰ぎ見れば高く美術館の壁が目に入る。確かに、すぐ側にあったようだ。美術館の外壁の横には車がやっと一台通れるような道があったが、どうやらイメージが薄すぎた為か、その道路ではなく、一本進んだ彼女の庭に落下したのだろう。
本来ならば四階から落下したとはいえ、道路を越えて庭まで飛んでくることなどあり得はしないのだ。
「ねえ!」
少女は座っていたテラスの椅子から少しだけ上半身を乗り出し、ジゼルを見据える。
暗くて最初見えなかった少女の端整な顔立ちが月夜に照らされ、ジゼルは思わず一歩引き、少女の姿を目の留める。
美しいウエーブのかかった銀髪が夜の冷たい風に揺れている。
どうやらこの国の人間ではないのか、目は湖畔の美しい水底を映したような淡い青色で、真っ白な肌がぼんやりとした闇夜に浮かんでいてそれは一目目にしただけで美しいという感想他者に抱かせる。
今にも折れてしまいそうなほど頼りない指先が、そっとジゼルの服を掴んだ。
「お願い、あなたがここに来たこと、誰にも言わないから明日もここに…来て欲しいの」
「えっ…でもそれは…」
「出来ないとは言わせないわよ、今すぐ家の人を呼んだっていいんだから…来なかったら警察に言ってあなたが来たことを話すわ」
「わ…わかった、じゃあ明日、またここに来ます。でも…どうして僕にそんなことを…?」
「いいから!約束よ!」
遠く、少女の悲鳴を聞きつけたらしい使用人の声がジゼルの耳にも届く。
「お嬢様!?どうかなさったのですか…?!」
「早く、行って!」
「待って最後に、」
ジゼルは椅子から立ち上がりこそしなかったが、背中を押してくる少女に振り返り、尋ねる。
「君の名前は?」
少女は使用人が近づいてくるのを焦って見つめながら、口早に音もなく呟き、もう一度ジゼルの背を押した。
ジゼルは少女の唇を読み取り、彼女がもう一度背中を押した瞬間にはまるで魔法のようにどろん、と姿を消してしまうのだった、これはもちろんここから出る自分の姿を想像したに過ぎないが、彼女は驚き、椅子からつい倒れてしまう。
駆けつけてきたメイドは急いでそんな彼女を救い出し、再びテラスの椅子に座らせた。
「大丈夫ですか、お嬢様…先ほどは…悲鳴が聞こえましたが何か…?」
「…なんでもないわ佳代、野良猫に驚いただけ。紅茶をこぼしてしまったから新しいのお願いね」
「…畏まりました」
メイド、佳代はもう一度少女を見つめてその場を後にする。
少女は安堵の息を吐き、まだハプニングに高鳴る胸を押さえつけてつい、笑みがこぼれるのを我慢できずにワンピースを掴んではにかむ。
「母さん…私、すごいものを見ちゃった…」
誰がいるでもない空間にそう呟いて…。