二話
一方の海斗といえば、亜紀斗を突き放して部屋から出た後、海斗はある男の部屋へ訪れていた。数回ノックをすればどうぞ、と声が掛かり、海斗はドアを控えていたメイドに開かせ、数歩歩き出す。
パソコンに向かい合っていた男は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「どうしましたか、海斗くん、僕の部屋を訪ねてくるなんて珍しいですね」
「亜紀斗が帰ってきた…暫く滞在するつもりなら俺はその間家を出たい」
「ああ、亜紀斗くんが帰ってきたのは知っていますよ、でもいけません、わがままを言うのは」
物腰が柔らかな態度の男はこの家系の人間らしく、やはり端整な顔立ちをしていた。
微笑むと目尻にしわが寄ったが、外見年齢にして三十台半ばといった所だろうか、海斗は男の顔を見ない様にうつむいていた。男の顔は亜紀斗の顔にとてもよく似ていたからだ。
男はパソコンを落として椅子から立ち上がる。海斗は少し顔を上げて男を見遣った。
大きなガラス窓から、吾妻邸の綺麗な庭園が望める。
男は後ろに手を組んで、小さくため息をついた。
「それとも…まだ春斗に負い目がありますか?」
「…負い目なんか…ねぇけど…」
「亜紀斗くんと関わると、君はいつもそんな顔をする。ねえ、海斗くん僕たちは家族なんだそんな顔をしないでおくれ、破門したからといって、彼を完全に家から追い出そうと思ったわけでもないんだよ」
「…どうかな」
海斗はそれだけ伝えたかったのか、これ以上話すつもりはないように踵を返した。
男は別段、止めることもせず、海斗に声を掛けた。
「海斗くん、一つ約束だ。」
「なんだよ」
「お父さんと居るときぐらいは、もっと素直になりなさい」
海斗は一瞬足を止め、男の言葉を聞いていたが、返事をすることもなく、男の書斎から立ち去った。
男―吾妻七生は苦い顔をして再び椅子へと深く腰掛ける。
この吾妻家に妙な亀裂を生み出した原因は、ジゼルという存在だけではなく、自分のせいでもあるのだ。七生は机に飾ってある妻の写真を取り、そっと指先で撫でた。
もう会うことは叶わない、死んだ美しい妻の写真を…。
紅茶の空のカップをトレイに乗せ、広い邸宅内を歩いていた春斗は、向こう側から歩いてくる海斗の姿に足を止めた。
その両手には大きな荷物が抱えられており、一目見て旅行か何かに行くのはすぐ分かった。
「兄さん…?何処か行くの?」
「友達の家、俺しばらく家出るから、仕事の時は呼べ」
「えっ、お泊まり…?でも急になんで…」
「ああ、ついでに。あの野郎が屋敷からいなくなったらすぐ呼べ、いいな」
「あ、ちょっと兄さん!」
両手がトレイで塞がっている春斗は海斗を引き止めることも出来ず、ぽつん、と広い廊下で立ち尽くす。
ジゼルになりにきたと宣言した亜紀斗の事を相談しようと思っていたが、あの様子でそんなことを言えばまた口論になりかねない。
春斗は面倒ごとにまた巻き込まれたと嘆息し、キッチンを目指して再び歩き始めるのだった。