第三章 亜紀斗のこと
「たった~たりらりら、たったった~」
鼻歌を歌う男が一人、吾妻邸の豪奢な屋敷を見上げていた。
男は横を通れば誰もが一度振り返るほどの美貌を持ち、最近ではモデルなども勤める若手の売り出し最中の俳優であった。
男はどうやって吾妻邸に忍び込もうか考え、鼻歌を歌いながら屋敷をぐるりと回っていたのだが、やがてとんとん、と背中を叩かれ振り返る。
そこに居たのはとてもこの屋敷の後継者とは思えないやぼったい大きな眼鏡をかけた少年で、少年をみるや否や、男は少年、吾妻春斗に抱きついた。
「春斗!久しぶりだね!」
「…あなたもお変わりないようで…亜紀斗兄さん…」
にこにこと食えない笑みを浮かべた男、亜紀斗は春斗の背中を押し、無理やり屋敷へと入り込む。
「まあね!積もる話もあることだしお茶でも飲みながら!」
「どうして客の兄さんがそんなこと言うの…や、やめて押さないで!」
そのままの意味でも押しに弱い春斗はそのままぐいぐいの背中を押されながら、自宅へと帰るはめになるのだった。
「帰れ」
ソファーにふんぞり返り、小時間、春斗と談笑していた亜紀斗は、帰宅した海斗に開口一番そう言われて顔をしかめる。亜紀斗が吾妻邸に帰宅したのは五年ぶりの事だったが、愛想のないその海斗の態度に、亜紀斗はため息をついた。
「何だい久々に出世して帰ってきた兄を見てそれはないだろう?そういえば雪那もこっちにいるって聞いたけど…会えないかな?」
「会えん、きもい、帰れ」
「ちょっ、ちょっと兄さん」
三拍子そろった罵声に、呆れ顔をした亜紀斗も、海斗の言うことなど全く耳に入らないように紅茶をすすり、足を組む。海斗の分も紅茶を淹れようと春斗が立ち上がった瞬間、海斗は亜紀斗の胸元を乱暴に掴んで引き寄せる。春斗ならばいつも紅茶をこぼす所だが、取りこぼすどころか、掴まれても尚紅茶をすする肝の据わりように、春斗だけがハラハラとさせられる。
海斗は亜紀斗の顔を睨むと、ぎりぎりと紅茶が飲めない程に首を締め付けた。
「てめぇ、分かってんのか?破門されてんだよ、どうして吾妻家にのこのこ戻ってきてんだ?あ?先輩にいじめられてきたんですかぁ?」
「離せよ下品なヤツだなぁ君は相変わらず。品がいいのは見目だけか、まるで女の子みたいだもんね」
「おい、もういっぺん言ってみろよ…殺すぞ」
おろおろと二人の様子に焦って口も手も出せずにいる春斗に、すっと背後から一人の助け舟が入る。
「兄様…」
びゅん!と掴みかかっている海斗と亜紀斗の真ん中に丁度すれすれ、大きな出刃包丁が割り込み、流石の海斗も驚いて手を素早く離した。
「喧嘩によるダメージ計測、利益の順から計測致します、…」
「ああ、もういい、雪那、悪かった」
「やあ雪那ちゃん久しぶり」
掴まれて乱れた服装を整え、突き刺さりそうになった包丁を雪那に返した亜紀斗はぐるりと兄弟たちを見遣る。五年しか居なかったにしては皆がそれぞれ変わっていたが、特にそれには触れなかった。
「さてと、実はお兄ちゃん、お仕事で色んな所を巡っていたんだ、良かったらお土産あるから貰ってよ」
「わあ、いいんですか、兄さん!」
「私にも?」
「もちろんあるよ、そこのおチビちゃんにもね。はいこれ背が伸びるおまじないの人形」
「要るか、きったねぇ人形寄越してくるんじゃねぇよ」
ぶすっ、と不機嫌になった海斗は渡された趣味の悪い人形を突き返してそのまま部屋を出る。
亜紀斗はそんな海斗の態度に肩をすくめたが、気を取り直して鞄から他のお土産を取り出した。
「はい、不運な春斗にはこのお守り、幸運のお守りらしい、お兄ちゃんだと思って大事にしてね」
「ありがとう…不運は余計だけど…」
「雪那にはこれ、似合うだろうと思ってペンダント…」
「感謝します」
亜紀斗は雪那の首にペンダントを掛けてやり、真っ白なうなじに視線を落として押し黙った。五年前と明らかに違う彼女の態度。その原因は知っていたが、こうして性格が変わってしまった雪那に会うと一人、複雑な気持ちになった。きっとそれは海斗も同じなのだろうが、やはり気持ちは晴れない。
「雪那はいつもは屋敷にいないんでしょ?今日はたまたま屋敷に戻ってきてくれてて嬉しいよ、いつまでいるの?」
「五日程、父上様にもまだ居るようにとおおせつかっております」
「…そうか」
雪那はそう一言返すと、べったりと恋人同士のように春斗に張り付き、亜紀斗は苦笑いをする。これだけは性格が一変してしまう前から変わらない。性格が変わっても、彼女は雪那なのだと自覚する。
「そういえば兄さんはどうして帰ってきたんですか?絶対帰ってこないって言って出て行ったくせに」
「ははっ、実は俺、お前に宣戦布告しようと思ってさ」
「宣戦布告…?」
「俺、ジゼルになりに来たのよ」
「へっ…?!」
波紋が広がる。
吾妻家に破門された長男、亜紀斗の一言に、春斗はただただ何も言えず立ち尽くす。
一方宣戦布告をした張本人は不敵に微笑み、カップを突きつけて平然と告げた。
「おかわり」