六話
大隈は一人、真っ暗な自室で壷を眺めていた。所々ヒビが伝い、とても高価な美術品とは思えないその壷を愛おしむように撫で、部屋を見渡す。棚に飾られた骨董品はきちんと何の変化もなくその場に鎮座していたが、やはり、その心は晴れぬままであった。
ふと、ドアが開く音に反応して、大隈は振り返った。
ようやくジゼルが罠の数々を潜り抜けてやってきたかと思えば、振り返るとそこにいたのは、懐かしい妻の姿だった。
「…洋子…」
ただ黙って立っている妻、洋子は、ゆっくりと口を開いた。音はない。開かれた口はそのままやんわりと弧を描いて美しい笑みへと変え、大隈は急いで洋子に近づくと、その存在が確かなように強く、抱きしめた。
「会いたかった…とても…、一年前から俺はお前に…」
「…大隈さん」
ハッとして一度腕を離し、顔を確かめる。その顔は見忘れることがない妻のものであるにも関わらず、声は先ほどの少年、ジゼル。混乱した大隈は洋子?ともう一度顔を覗き込んだが、その瞬間ふっと洋子の姿はジゼルのものと変わり、大隈は大げさに驚いて尻餅をつく。
ジゼルは大隈が触っていた壷を手に取り、深く頭を下げた。
「すみません、騙すような真似をして。僕は一つ、勘違いをしていました」
「勘違い…?」
「僕は今夜、この世に未練があり、現世に留まっているあなたの奥さんを成仏させるため、こうしてやってきました。ですが、あなたが僕を水で押し出した時、気づいたんです」
すっ、とジゼルが大隈に手を伸ばす。大隈は少し後退したが、ジゼルの手のひらは大隈の体を裂くように軽くすり抜け、ジゼルは確信を得た。
「あなたが、現世に留まっている霊であると」
大隈は大きく目を見開き、言葉を失った。
自分が死んでいたことは、とうに気づいていた。だがこうして改めて言われ、気づかれれば、なんとも言えない虚無感が胸を締め付けるようで、大隈は膝をついて立ち上がりながら乾いた笑みを浮かべた。
『はは…別に隠してたわけじゃねぇよ。警察に言うなんて脅したが、俺の声はもうこの屋敷から一歩出れば皆無、死んでるってことをまざまざと感じるよなぁ…』
「どうしてこの屋敷に留まっているのですか?奥さんが亡くなっているとなれば、あなたにもう現世に留まっている意味など、ないでしょう?」
『だからだよ、俺ぁ、アイツに会わせる顔がねぇんだ…アイツが死ぬ前、俺はアイツと些細な事で喧嘩してな…』
大隈はジゼルが持っていった壷を一瞥し、目を伏せる。
丁度一年前、自分が死ぬほんの数日の事を大隈は追憶し始める。
その日はとても暑い、夏の日だった…―。
「洋子!洋子!」
古い洋館に、男、達也のだみ声が響いた。
明らかに怒気を含んだその大きな声に反応し、テラスに居た洋子は何事かと顔を出す。
大隈家には子供がおらず、長年夫婦で過ごしてきたが、こうやって達也が怒っているのは稀ではない。また何か癇癪を起こしたのだろうと洋子が出て行くと、そこには壷の破片を抱えた達也の姿があった。
「洋子!これぁ、一体どういう事だ、え?」
「どうなさったんです?」
「どうもこうもねぇだろ、これを見ろ、これは先日買ったばかりの壷だ!こんな粉々にしちまって謝罪の一つもねぇたぁ、どういうことだ!」
「えっ?壷…?」
風呂敷に包まれていた大量の破片を見つめ、おどおどとする洋子に、達也はついに怒りの頂点に達し、洋子の髪を引っつかむともう一度尋ねた。
「これはお前がやったんだろう!違うか!」
「ち、違います!私は今日、アナタのお部屋に入ってないわ!」
「嘘をつくな!だったら誰がこれを壊すってんだ!この屋敷には俺とお前しか居ないんだぞ!」
「……そう…ですね…」
ぽろっ、と洋子が涙を流し、達也はつい驚いて手を離した。泣かせるつもりまではなかったのだが、まだ怒りもおさまらず、泣いた洋子をそのままに、達也はその場を後にした。
ただ洋子が素直に謝ってくれればそれでよかったというのに、ああして反抗されたようで何やら無性に腹が立ったのだ。
自室のドアを乱暴に閉め、残った美術品が無事であるかどうかを確かめようとした所、ドアの近くに一匹の汚い猫がうろついている。
「猫…?」
達也は見慣れぬ野良猫に首を傾げ、よくよく辺りを見渡す。すると窓が数センチ開いており、そこから身をよじって入ってきていたのだ。達也はすぐに、洋子に怒鳴ったことを後悔した。
窓の側には机があり、そこに壷を置いていたのだ。
急いで部屋を猫を抱えて出ると、先ほどのリビングに洋子の姿がない。
名前を呼び、探し回っても何処にもいない。
ふと彼女の部屋に差し掛かると、洋服ダンスがまるで空き巣にでも遭ったかのように散乱している。達也は呆然として猫をつい放してしまい、洋子の部屋を眺める。
小さな飾りテーブルには、綺麗に復元された壷が一つ乗っている。達也は壷を一瞥して、洋子のタンスを片付けながら、彼女が着物や高価なアクセサリーを質に入れに行った事を悟る。
自分はどうしてこうも愚かなのだろうかと、一時の感情に身を任せて妻を叱ったことを恥じ、洋子が帰ってくるのをひたすら待った。
しかし、洋子は帰宅することはなかった。
質屋から帰る途中、引ったくりに遭い、そのまま数十メートルバイクで引っ張られて亡くなってしまった。
達也は生まれて久方の涙を流し、自分の行動全てを悔いた。あの時しっかり壷以外を見ていれば、叱らなければ、早く猫の存在に気づけていたならば…。色々な思考が絡み合い、歪な形をした壷には涙が落ち、溜まってゆく。
達也は何度も妻の墓前に謝罪を述べながら頭を下げ、その場から動くことも出来ず、数日ろくに何も口にせず、気づけば自分も同じように死を迎えていたのだ。
それから一年間。
達也は屋敷がどれだけ煙たがられようが、綺麗にしていようと努力し続けた。
洋子が再び帰り、ただいまと告げにやってくるその日まで、そう、ジゼルが現れる今日まで続けてきたのだ。