プロローグ
「いたぞ、逃がすな!」
黒く、細長い影が一筋伸びている。それはとても人が立てるような場所ではなく、その人物の運動能力の高さが伺えた。
何しろ彼がバランスよく立っているのは美術館の屋上の更に頂上に聳える、旗の上。ようやくつま先が旗のてっぺんに乗っているという状態だ。
旗の下にはぐるりと警官、警備員が取り囲み、美術品を抱えている少年は正に絶体絶命といった所だろう。
だが表情には微塵もそんな気配を持たず、静かに獲物を見定めるように取り囲んだ複数の大人たちを見下ろし、少年は息を少し吸い込んで小型マイク越しに高々と告げた。
「どうも警察、並びに警備員の皆様方、今宵も役に立たない狂犬病の犬のような顔をぶらさげてご苦労様です」
少年がそう告げると周りが反論しているのかざわめく。だかそんな声など全く届かないかのように涼しい顔で少年は続けた。
「わたくしジゼルは今回お仕事を完了しましたのでこれで失礼致します」
とん、とつま先に力を入れて、少年は背中から自ら警備員達の群れに飛び込ように落下してゆく。
呆気に取られていた彼らを尻目に、どんどん降下した少年はゆっくりと体制を整え、ふざけるように敬礼してパッ、と煙のように姿を消してしまった。
旗の周りには無数の警官、警備員の海。ここから逃げられるはずもないと捜すように指示を飛ばすそれぞれの指揮官。だが人数が逆に混乱を招き、その日もまた、ジゼルは深い暗闇に姿を消したまま現れることはなかった。
怪盗ジゼルの慌しいお仕事
「おい、聞いたかよ、昨日のジゼルの事!」
朝。
健全な高校生が起きて真っ直ぐ登校している時間。既に学校に着いて今日の授業内容を確認していた吾妻春斗は、同級生の桂木慧に突然声を掛けられて苦い笑みを浮かべた。
彼の両手にはどこから入手したのかジゼルの愛らしい姿のフィギュア。そしてブロマイドが握られている。
その両方に嫌な視線を送って、春斗は小さく頷いた。
「うん…新聞部が号外配ってたね、貰ったよ」
「おっ、見せてくれよ!俺当番で早かったから貰ってねぇんだ!」
慧は根っからのジゼルファンで、彼が怪盗として名を馳せる前からの古株だ。恐らく両手のグッズも、そのファン同士の交流で手に入れたものだろうが、慧は一つだけ勘違いをしていた。それもファンあるまじき所なのだが…
「それにしてもジゼルちゃん…可愛いよなぁ!俺もこんな彼女欲しいなー」
「…そう…かな」
ジゼルの性別は格好が格好だけに、判別しにくいが大体のファンは男であることを知っている。にも関わらず女性だと勘違いしている友人に、男であると指摘して幻滅させることも出来ず、こうして何年も女性だと信じ込んで崇めているのだ。
その正体こそ、眼前の大きな眼鏡をかけて長い髪を一つまとめにしたやぼったい少年であるとも知らずに…。
「次…何処に現れるのかなー俺、一度でいいから生のジゼル見てみたいんだ!」
「えっ、やめておいたほうがいいんじゃない?!」
「何でだよ、ファンサークルでも出没場所を特定するのが難しいらしくて、俺には情報回ってこないしさー…あー家に何か盗みに来てくれないかなー何もねぇけど」
「き、きっとがっかりするよ…やめておきなって…」
「なにぃ?春斗まさかお前…」
急に声のトーンを下げ、詰め寄ってきた慧に一瞬ドキッと心臓を振るわせた春斗だったが、この鈍感な慧が春斗の正体に気づくはずもなく。
「ジゼルのファン…なんだろ?」
「へっ…?」
「なあ教えろよー!次、何処に現れるのか!」
「し、知らないってば!ファンでもないし!」
疑るような視線で見つめられ、どう話を切り替えるべきかと困っていると、春斗の携帯電話が突然音を鳴らし始め、これ幸いと春斗は急いでポケットの携帯を取り出してディスプレイを見る。
そこには大きく、吾妻海斗と表示されていた。
「に…兄さんからだ…もしもし」
『今すぐ走って息を切らして三年棟まで来い、以上!』
ブツン!と用件を数秒でまくし立てられ、通話を一方的に遮断された春斗は、少し呆然と携帯を眺めていたが、やがて深いため息と共に椅子を引いて席を立つ。
慧は早すぎる通話に驚きつつも、退室しようとする春斗を呼び止めた。
「おいっ、何処行くんだよ?!HR始まるぞー」
「ごめん、兄さんからの呼び出しなんだ、適当に言い訳しておいて」
「あ、おいっ、春斗!」
慧の呼び止めにも振り返らず、教室を走って出て行った春斗の背中を見つめ、慧は呆れたように一言呟いた。
「ま…あいつの兄ちゃん変だしな…」