飛ばすことだけが好きだった ―世界一の操縦が、世界を壊した。―
作ってしまいました。
第一話 飛ばすことだけが好きだった
最初に覚えたのは、人の名前でも、会社の名前でもなかった。
風だった。
見えないものに癖があることを知ったのは、小学生の頃、父親が買ってきた二千円ほどの小さな玩具を、公園で何度も木へ引っ掛けては回収し、また飛ばしていた夏の終わりだった。真っ直ぐ飛ぶ日もあれば、何もしていないのに右へ流される日もある。同じ場所なのに毎日違う。その違いを見つけることが、ゲームよりも面白かった。
大人になる頃には、風は敵ではなくなっていた。
風は情報だった。
地面の草が寝る方向。
橋脚の陰で一瞬だけ静かになる空気。
川面の細かな波紋。
それらを目で拾い、頭ではなく指先で理解する。
誰に教わったわけでもない。
そう飛ばしたいと思うより先に、機体がそこへ向かっていた。
平日は都内の中堅企業で経理をしている。
数字は嫌いではないが、好きでもない。
同じ書類を何枚も見ていると、自分も紙になったような気分になる。
昼休みは一人で弁当を食べる。
飲み会は断る。
昇進にも興味がない。
会社の誰かが辞めても、歓迎会をしても、送別会をしても、翌日には同じ机へ座り、同じ数字を眺めるだけだった。
それでも不満はなかった。
休日があるからだ。
土曜日の朝だけは、目覚ましより早く目が覚める。
車へケースを積み込み、高速道路を走り、河川敷へ向かう。
送信機を握る。
ゴーグルをかぶる。
世界が変わる。
そこから先は、地面ではなく空を歩く感覚だった。
自分の身体は土手へ座っているのに、意識だけが時速百キロ近い速度で草原を駆け抜ける。
電柱の隙間。
橋桁の下。
錆びた鉄骨。
木々の枝。
普通なら避ける場所ほど、飛びたくなる。
狭いほどいい。
難しいほどいい。
恐怖はない。
あるのは、成功した時の静けさだけだった。
仲間は何人かいた。
大会へ出る人間もいる。
スポンサー契約を結んでいる者もいる。
皆、口を揃えて言った。
大会へ出ろ。
動画をもっと上げろ。
スポンサーを探せ。
だが、興味が持てなかった。
飛ぶことは好きだった。
勝つことは、どうでもよかった。
だから動画も、記録として残すだけだった。
編集もしない。
音楽も入れない。
タイトルも日付だけ。
再生数など見たこともなかった。
その日も同じだった。
山間の廃工場。
壁は崩れ、窓ガラスはなく、鉄骨だけが空へ突き出している。
誰もいない。
風だけが吹いている。
機体が浮く。
静かだった。
モーター音だけが耳へ響く。
建物の割れた窓から入り、暗い廊下を抜け、崩れた階段の隙間を縫い、吹き抜けへ出る。
一度も減速しない。
一度も壁へ触れない。
最後に屋上から空へ飛び出した瞬間、視界いっぱいへ青空が広がった。
それだけだった。
いつも通り飛ばし、帰宅し、風呂へ入り、眠った。
翌朝、会社で昼休みにスマートフォンを開いた時、通知が止まらなかった。
最初は故障だと思った。
見知らぬ外国語。
読めないコメント。
数字だけが増え続ける。
動画は一晩で数百万回再生されていた。
誰かが海外の巨大な動画コミュニティへ転載し、「世界で最も滑らかな飛行」と紹介したらしかった。
理由は分からなかった。
ただ飛んだだけだ。
何がそんなに面白いのだろう。
会社では誰も気付いていない。
昨日と同じように書類へ判を押し、コピー機が紙詰まりを起こし、上司が機嫌悪そうに電話を切る。
世界が変わった実感はなかった。
変わったのは通知だけだった。
数日後には海外メーカーから試作機を使わないかという連絡が届き、映像制作会社から撮影依頼が届き、知らない雑誌から取材依頼が届いた。
全部断った。
趣味だから続けられた。
仕事になった瞬間、飛ぶことまで数字へ変わってしまう気がした。
その夜だった。
一通だけ、妙に短いメールが届いた。
送り主は聞いたこともない海外企業。
件名はたった一行。
「あなたにしか飛ばせません。」
本文も短かった。
高額報酬。
短期間。
危険なし。
技術協力。
それだけ。
削除しようとして、指が止まる。
どうしてだろう、と自分でも思った。
これまでの依頼とは何かが違った。
金額ではない。
内容でもない。
「あなたにしか飛ばせない」という、その一文だけが、胸の奥へ小さく刺さって抜けなかった。
誰かに必要とされたいと思ったことなど、一度もないはずだった。
会社でも。
友人でも。
家族でも。
期待されないことに慣れ過ぎて、それが楽だとさえ思っていた。
なのに、その一文だけは違った。
送信機を握っている時だけ、自分には価値がある。
そんな考えを、いつから心のどこかで育てていたのだろう。
窓の外では、夜風が電線を揺らしていた。
その音が、プロペラの回転音によく似て聞こえた。
返信ボタンへ触れた指は、思ったより迷わず動いていた。
第二話 知らない空
飛行機の窓から見える雲は、地上から見上げるそれとはまるで別の生き物だった。白く柔らかそうに見える輪郭は近付けば岩肌のように荒れ、陽の当たる面だけが眩しいほど光り、その裏側には深い影が幾重にも重なっている。空は広いと思っていたが、その広さは飛んで初めて知るものではなく、高い場所から眺めた時に初めて、人間がどれほど狭い世界で生きているかを思い知らされるためのものなのだと、機内の窓へ額を預けながらぼんやり考えていた。
海外へ行くのは初めてだった。
英語もほとんど話せない。
それでも契約は驚くほど簡単だった。送られてきた電子契約書へ署名し、航空券が届き、宿泊先が決まり、空港には迎えが来る。
何もかもが滞りなく進み過ぎていた。
普通なら警戒していたのかもしれない。
だが、「あなたにしか飛ばせません。」
あの一文だけが、妙に心へ残っていた。
仕事で必要とされた経験は何度もある。数字を合わせることも、決算資料をまとめることも、代わりはいくらでもいる仕事だった。誰かが休めば誰かが座る。自分が辞めても、一週間もすれば新しい担当者が同じ席へ座る。
それでいいと思っていた。
人間なんて、その程度の歯車だと。
だからこそ、「代わりがいない」という言葉には、少しだけ心が揺れた。
その程度の理由だった。
飛行機を降りた瞬間、熱気がまとわりついた。
湿度ではない。
乾いた熱だった。
肺へ吸い込んだ空気が鼻の奥を刺し、舗装された滑走路から立ち上る陽炎が遠くの景色を歪ませている。
迎えの男は片言の英語で名を確認すると、黒い四輪駆動車へ荷物を積み込み、そのまま街を抜けた。
高層ビルは少ない。
古いコンクリートの建物と、鉄板を張り合わせた小屋が混在し、道路脇では子どもが裸足で走り回っている。
市場らしい場所では果物が山積みにされ、そのすぐ横には錆びた装甲車が放置されていた。
不思議な景色だった。
生活と軍事が、何の違和感もなく同じ場所に置かれている。
日本ならニュースでしか見ない光景が、ここでは誰の日常でもあるらしかった。
車は市街地を抜け、さらに二時間近く走り続けた。
やがて舗装道路は途切れ、赤茶けた土埃だけが後ろへ舞い上がる。
窓を少し開けると、乾いた土の匂いと草の青臭さが混じった風が流れ込んできた。
嫌な匂いではなかった。
むしろ、河川敷へ通っていた頃の風を思い出した。
違うのは、静けさだった。
鳥が少ない。
虫の声も聞こえない。
風だけが吹いている。
目的地は、小さな施設だった。
倉庫を改装したような建物が並び、アンテナが何本も立っている。
中へ入ると、机の上には新品の送信機が置かれていた。
その隣には、見たことのない機体。
市販品ではない。
フレームは軽量化され、モーターも特注品らしい。カーボンの織り目は美しく、配線は一本も露出していない。
思わず近寄る。
指先が勝手に素材を確かめていた。
軽い。
信じられないほど軽い。
ここまで軽くすれば旋回性能は飛躍的に上がる。
しかし耐久性は落ちる。
普通なら採用しない設計だった。
普通なら。
誰かが自分を見ていた。
白衣姿の技術者らしい男が、何も言わず頷いている。
評価されているようで落ち着かなかった。
機体を見れば、その設計思想が少し分かる。
これは映像を綺麗に撮るためではない。
速く飛ぶためでもない。
狭い場所を、寸分違わず抜けるための機体だった。
その時点で少しだけ違和感があった。
映画なら、もっと安定性を重視する。
災害調査でも長時間飛べる機体を使う。
この機体は違う。
何か一点だけを極端に追求している。
その「何か」が分からなかった。
簡単な説明を受けた。
旧市街地の地図。
飛行ルート。
撮影対象。
建物。
道路。
橋。
それだけ。
質問しようかと思った。
何のために。
誰が使うのか。
何を撮るのか。
しかし、その問いは喉まで来て消えた。
趣味で飛ばしてきた十数年、自分は飛ぶ理由を考えたことがあっただろうか。
面白いから飛ぶ。
飛びたいから飛ぶ。
それだけだった。
送信機を握る。
掌へ馴染む重さ。
親指がスティックへ触れる。
その瞬間、周囲の音が少し遠くなる。
これは昔から変わらない。
会社でも家でも雑音ばかりなのに、操縦を始めると頭の中だけ静かになる。
機体が浮く。
ゆっくりと高度を上げる。
映像がゴーグルいっぱいに広がる。
乾いた町。
崩れた壁。
瓦礫。
細い路地。
日本なら立ち入り禁止になるような場所を、機体はまるで風そのものになったように滑っていく。
右。
左。
下降。
上昇。
壁との距離は数十センチ。
それでも恐怖はない。
むしろ、狭ければ狭いほど心が静かになる。
人間という生き物は不思議だ、とその時ふと思った。
追い詰められるほど苦しくなる人もいれば、自分のように余計なことを考えなくなる人間もいる。
どちらが正常なのだろう。
分からなかった。
分からないまま飛び続ける。
画面の奥で、小さな影が動いた気がした。
犬だろうか。
子どもだろうか。
一瞬だけ視界へ入ったそれは、次の角を曲がる頃にはもう見えなくなっていた。
気にも留めなかった。
飛行が終わり、ゴーグルを外した時には、額へ汗が滲んでいた。
誰かが拍手をしている。
何人もの視線が集まっている。
しかし、そのどれも耳へ届かなかった。
胸の奥には、小さな棘のような違和感だけが残っていた。
あの影は、本当に犬だったのだろうか。
第三話 画面の点
人間という生き物は、不思議なほど簡単に「慣れる」。
初めて送信機を握った日の緊張も、初めて高速で機体を旋回させた日の興奮も、繰り返せば日常になる。昨日まで怖かった橋脚は今日にはただの目印へ変わり、昨日まで心臓が跳ねた狭い隙間も、何度か通れば一本の道になる。
だから、違和感というものは、慣れる前にしか見つけられないのかもしれなかった。
二日目の朝、施設は昨日と同じ静けさに包まれていた。
誰も無駄話をしない。
誰も笑わない。
コーヒーを飲む音すら聞こえない。
それでも誰も張り詰めているようには見えず、それが余計に奇妙だった。
普通なら、仕事には雑音がある。
誰かが欠伸をし、誰かが愚痴を零し、誰かが冗談を言う。
それが人間だと思っていた。
ここには仕事だけがあった。
仕事をするためだけに集められた人間は、驚くほど静かだった。
机の上には昨日と同じ送信機が置かれ、その隣には充電を終えた機体が静かに横たわっている。
金属でも機械でもない。
眠っている鳥のようだった。
軽く持ち上げる。
重さを確かめる。
指先へ伝わるわずかな振動から、昨日よりもプロペラのバランスが調整されていることに気付く。
誰かが夜のうちに整備したらしい。
自分より、この機体を理解している人間がいる。
少しだけ安心した。
少しだけ、嫌な気持ちにもなった。
才能というものは、一人で完成するものではない。
どれほど操縦が上手くても、整備する人間がいなければ飛ばない。
電波を維持する人間がいなければ飛ばない。
電源を確保する人間がいなければ飛ばない。
自分だけが特別なのではない。
その考えは、心を軽くする一方で、自分の責任まで薄めてしまうような危うさも持っていた。
飛行は昨日より長かった。
古い建物が密集した地域を、低い高度で進む。
瓦礫の間。
崩れかけた屋根。
乾ききった路地。
建物の形は似ているのに、人の生活だけが少しずつ違う。
洗濯物が揺れている家がある。
壁へ小さな花が飾られている家がある。
煙突から細い煙が立ち上る家もある。
誰かが暮らしている。
その当たり前を、画面越しに見ていた。
操縦に集中すると、人間は景色になる。
それは昔からそうだった。
河川敷でも、釣り人は避けるべき障害物だった。
公園では子どもが飛び出してくるかもしれない存在だった。
人を嫌っていたわけではない。
ただ、安全に飛ばすためには、そう見るしかなかった。
機体を優先すると、人は背景になる。
それだけのことだった。
その日も、画面の右下を小さな影が横切った。
黒い服。
細い身体。
年齢も性別も分からない。
一瞬だった。
指は止まらない。
スティックは予定された軌道をなぞり続ける。
画面の中央には、古びた建物だけが映っていた。
飛行が終わる。
送信機を机へ置いた瞬間、肩から力が抜ける。
毎回そうだった。
飛んでいる間だけ、自分は自分ではなくなる。
余計なことを考えない。
将来も。
仕事も。
人間関係も。
何一つ頭へ浮かばない。
それが好きだった。
好きだったはずなのに。
施設を出る途中、大きなモニターが廊下の壁へ掛けられているのが目に入った。
ニュースらしい映像が流れている。
言葉は分からない。
現地の言語だった。
映像だけが理解できた。
土煙。
崩れた建物。
泣き叫ぶ人々。
担架。
白い布。
どこにでもある戦争の映像。
いや。
どこにでもあるはずなのに、胸がざわついた。
カメラが一瞬だけ空撮へ切り替わる。
高い位置から見下ろした街並み。
その角度に見覚えがあった。
いや、角度ではない。
曲がり方だった。
建物を避ける軌道。
広場へ抜ける速度。
まるで、自分が昨日見ていた映像を誰かがそのままなぞっているようだった。
偶然だ。
そう思った。
世界には似た街がいくらでもある。
似た建物もある。
似た路地もある。
だから偶然だ。
偶然でなければ困る。
そうでなければ、自分は何を撮っていたことになる。
ホテルへ戻っても眠れなかった。
窓の外では、夜風が乾いた砂を運んでいる。
静かな夜だった。
あまりにも静かで、自分の鼓動だけが部屋の中へ響いているようだった。
スマートフォンを開く。
ニュースサイトをいくつも見る。
翻訳をかける。
断片的な単語だけが並ぶ。
「衝突」
「被害」
「死者」
画面を閉じる。
また開く。
閉じる。
開く。
その繰り返しだった。
知りたいわけではない。
知らなければ安心できるほど、子どもでもない。
知ってしまえば戻れない気もしていた。
ベッドへ横になり、天井を見つめる。
瞼を閉じると、今日見た路地が浮かぶ。
壁際を歩いていた黒い影。
犬だったのか。
子どもだったのか。
それとも、ただの影だったのか。
思い出そうとするほど輪郭は曖昧になり、最後には黒い点だけが暗闇へ残った。
その点だけが、眠ろうとするたび、ゆっくりとこちらを見返している気がした。
第四話 画面の向こうで、人がこちらを見ていた
人間は、自分に都合の悪いものを見つけると、それを「偶然」と呼ぶ。
偶然、似た街だった。
偶然、似た建物だった。
偶然、似た路地だった。
偶然、ニュース映像の空撮が、自分の飛ばした軌道と同じに見えただけだった。
偶然。
その二文字は便利だった。
事実を否定しなくてもいい。ただ少し脇へ置いて、見なかったことにできる。人間は現実を忘れるのではない。現実へ「まだ結論は出ていない」という紙を貼り付けて、目を逸らすだけなのだ。
帰国便まで、あと二日。
仕事は順調だと言われた。
何が順調なのかは分からない。
自分はただ飛ばしているだけだった。
朝になれば施設へ向かい、機体を受け取り、ゴーグルを被り、指定された経路を飛び、戻れば機体を返却する。それだけの繰り返しで、誰も「ありがとう」とも「助かった」とも言わない。ただ静かに次の地図が机へ置かれ、次のバッテリーが充電されている。
仕事というより、工場の流れ作業に近かった。
違うのは、自分の作っているものが何なのか、最後まで知らされないことだけだった。
昼食を終えたあと、機体の整備を待つ時間ができた。
倉庫の隅に積まれたケースの横で、ぼんやりスマートフォンを眺める。
ニュースを見るつもりではなかった。
見れば眠れなくなる。
そう分かっていた。
それでも指は勝手に検索欄へ動いていた。
昨日見た地名。
翻訳ソフトを通して表示された、その読みにくい文字列。
検索結果は無数に出てきた。
崩れた建物。
煙。
瓦礫。
泣き叫ぶ人。
救急車。
どこの国でも変わらない戦争の写真。
画面を閉じようとして、止まる。
映像の下に、小さく添付された一枚の写真。
空撮だった。
俯瞰。
斜め四十五度。
建物の角。
広場。
路地。
心臓が一度だけ大きく鳴る。
指が震えたわけではない。
呼吸が止まったわけでもない。
ただ、胸の奥で何かが静かに沈んでいった。
この角度を知っている。
見たことがある。
いや。
飛んだ。
その建物の横を、自分は飛んだ。
画面いっぱいに映っていた。
思い出そうとする。
建物の割れ目。
右へ曲がる角。
鉄骨。
電柱。
頭の中で飛行経路を逆再生する。
趣味で何千回も飛ばしてきたせいか、一度飛んだ景色は地図のように頭へ残る。
忘れようとしても忘れられない。
それが今だけは呪いだった。
施設へ戻ると、昨日飛行した機体のデータを確認している技術者がいた。
何気なく近寄る。
画面には録画映像が流れている。
自分の飛行だった。
滑らかだった。
無駄がない。
今までで一番いい操縦だったかもしれない。
それなのに、画面を見続けることができなかった。
映像が、あまりにも綺麗だった。
崩れた壁を抜ける。
暗い廊下を旋回する。
光が差し込む。
速度は落ちない。
自分なら、この先で右へ切る。
そう思った通り、機体は右へ切った。
まるで他人の映像を見ているようだった。
いや、他人だったら良かった。
その数秒後だった。
映像の左下。
ほんの一瞬だけ、小さな影が走る。
昨日は犬だと思った。
今日も最初はそう思った。
技術者が一時停止を押す。
偶然だった。
偶然、指が触れたのだろう。
画面が止まる。
静止画になる。
影も止まる。
犬ではなかった。
人だった。
小さかった。
身体が細い。
肩幅も狭い。
子ども。
そう気付いた瞬間、喉が乾いた。
画質は荒い。
顔は見えない。
それでも、身体だけははっきり分かった。
子どもだった。
技術者は気にも留めず再生を始める。
映像は続く。
路地を抜ける。
建物へ近付く。
そして終わる。
爆発は映っていない。
煙もない。
何も起きない。
ただ飛んで終わる。
それだけだった。
なのに、ニュースではその建物はもう存在しなかった。
頭の中で、二つの映像が勝手に重なる。
飛行映像。
瓦礫。
飛行映像。
白い布。
飛行映像。
泣いている女。
別々のはずなのに、一つになっていく。
違う。
違う。
俺は飛ばしただけだ。
撮影しただけだ。
決めたのは俺じゃない。
命令したのも俺じゃない。
引き金を引いたわけでもない。
俺は、何もしていない。
心の中で何度も繰り返す。
何度繰り返しても、その言葉は自分を納得させてくれなかった。
むしろ繰り返すたびに、「何もしていない」という言葉だけが薄くなっていく。
夕方、ホテルの部屋へ戻る。
送信機は持ち帰っていない。
それなのに親指が痛い。
スティックを押し続けた感触が残っている。
無意識に親指を擦る。
皮膚は何も変わっていない。
なのに感触だけが消えない。
風呂へ入る。
熱い湯が肩を流れる。
目を閉じる。
暗闇の中で、あの小さな影だけが浮かぶ。
こちらを見ていたのか。
逃げていたのか。
泣いていたのか。
何も分からない。
分からないままでいたかった。
もしあの子どもが助かったのなら、自分は何も知らずに帰国できる。
もし助からなかったのなら。
そこまで考えて、思考が止まる。
助かったかどうかではない。
自分は今、初めて「助からなかったかもしれない」と想像した。
それまでは点だった。
画面の隅を横切る影。
障害物。
風景。
操縦の邪魔にならない程度の情報。
それが今になって、一人の人間として頭の中へ入り込んできた。
その瞬間から、ニュース映像はもう瓦礫ではなくなった。
瓦礫の下にいる誰かを想像できるようになってしまった。
想像できる人間は、もう元には戻れない。
眠ろうとしても眠れなかった。
目を閉じるたび、ゴーグル越しの映像が暗闇いっぱいに映し出され、その片隅で、小さな人影だけが何度もこちらを振り返っていた。
第五話 正しい責任
人は、自分が壊れ始めた瞬間を覚えてはいない。
覚えているのは、その少し前まで自分が普通だったという曖昧な記憶だけで、どこから何が狂い始めたのかを正確に言葉へ置き換えられる人間はほとんどいないのだと思う。
もし誰かに、「いつから眠れなくなったのですか」と聞かれたとしても、きっと答えられない。
初めて夜中に目が覚めた日なのか。
初めて夢を見た日なのか。
初めて人影が子どもに見えた日なのか。
それとも、自分の操縦が誰かの死へ繋がっていたかもしれないと疑った瞬間なのか。
どれも正しいようで、どれも違う気がした。
眠れない夜は、静かだった。
静か過ぎる夜ほど、人間は自分の鼓動を聞いてしまう。
ホテルの薄い天井を見つめながら、鼓動の間隔を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
途中で数が分からなくなる。
また最初から数え直す。
それだけで夜が終わる。
朝になって鏡を見ると、自分の顔が少し痩せて見えた。
目の下へ薄い影が落ちている。
たった数日なのに、人間の顔というものは驚くほど簡単に疲労を覚えるらしい。
施設へ向かう車の中でも、誰も話さなかった。
窓の外には乾いた大地が続いている。
昨日と同じ景色。
同じ道。
同じ空。
それなのに、自分だけが昨日と違う。
世界は変わらない。
変わるのは、人間だけなのだと初めて思った。
施設へ着くと、机の上には新しい地図が置かれていた。
赤い線。
飛行経路。
離陸地点。
着陸地点。
それだけだった。
以前なら何も考えず送信機を手に取っていた。
今日は違う。
紙の上へ視線を落としたまま、指だけが動かなかった。
飛べない。
そんな大袈裟な話ではない。
飛べてしまう。
そのことが恐ろしかった。
昨日までなら迷わず握っていた送信機を、今日も握れる自分がいる。
それが怖い。
もし本当に人が死んでいたなら、自分は送信機を見るだけで吐き気を催していなければおかしい。
なのに身体は覚えている。
握り方も。
親指の置き方も。
肩の力の抜き方も。
身体だけは仕事を始めようとしている。
まるで昨日まで何もなかったかのように。
その時だった。
机の端へ、一枚の紙が置かれた。
翻訳された短い文章だった。
予定変更。
本日の飛行を開始してください。
命令。
それだけだった。
理由もない。
説明もない。
拒否権が存在するとも書かれていない。
その紙を見つめていると、ふと会社のことを思い出した。
経理部にも似たような書類があった。
「処理してください。」
「確認してください。」
「修正してください。」
誰が決めたのか分からない仕事を、誰かが回し、それをまた誰かへ渡す。
責任は薄く薄く引き延ばされ、最後には誰のものでもなくなる。
だから会社では、大きな失敗が起きても「組織として判断した」という言葉が使われる。
誰も責任者にならない。
誰も加害者にならない。
では、人が死ぬ時も同じなのだろうか。
命令した人。
計画した人。
資金を出した人。
機体を設計した人。
通信を維持した人。
自分。
全員が少しずつ関わっている。
その結果、一人が死ぬ。
その責任は誰のものなのだろう。
頭の中で秤が揺れる。
自分ではない。
いや、自分もだ。
いや、命令した人間だ。
いや、戦争を始めた人間だ。
いや。
いや。
いや。
考えるほど責任は細かく砕け、砂のようになって指の間から零れ落ちていく。
もし責任が全員へ少しずつ分散されるのなら、一人当たりの罪は限りなく小さい。
そう考えた瞬間、自分は息を止めた。
違う。
それは責任を考えているのではない。
責任から逃げる方法を考えているだけだ。
その事実に気付いた瞬間、胃が締め付けられる。
人間は、自分が善人だと思っている。
少なくとも、自分はそうだった。
誰かを傷付けたいと思ったことはない。
困っている人を見れば助ける。
財布が落ちていれば届ける。
赤信号は渡らない。
その程度の善良さなら持っていた。
だから安心していた。
自分は悪人にはならないと。
しかし、それは平和な国で、平和な毎日を生きてきたから言えただけではないのか。
極限へ放り込まれた途端、人間は善人であることを諦める。
いや。
善人であり続けたいからこそ、自分を正当化する。
「命令だった。」
「知らなかった。」
「自分が断っても誰かがやった。」
どれも事実かもしれない。
どれも嘘ではない。
だから余計に厄介だった。
嘘なら捨てられる。
本当だから、逃げ場になる。
送信機へ手を伸ばす。
止めようと思えば止められた。
逃げようと思えば逃げられたかもしれない。
それでも握った。
その理由を、自分は「脅されたから」だと思いたかった。
「断れば帰国できないかもしれない。」
「拘束されるかもしれない。」
「家族へ迷惑が掛かるかもしれない。」
理由はいくらでも作れた。
けれど、そのどれよりも先に身体が送信機を握っていたことだけは、どうしても否定できなかった。
飛びたい。
そんな言葉にはしたくなかった。
飛べばまた誰かが死ぬかもしれない。
そう思っているのに、指先だけは静かに定位置へ収まっていく。
送信機の電源が入る。
電子音が鳴る。
ゴーグルの画面が暗闇からゆっくり光を取り戻す。
その瞬間だった。
頭の中を埋め尽くしていた罪悪感も、恐怖も、言い訳も、誰かの泣き顔も、一斉に遠ざかっていく。
世界から音が消える。
残るのは風だけだった。
その静けさを、心のどこかで「救われた」と感じてしまった自分を、彼はまだ誰にも告白できなかった。
第六話 静かになる頭
人間の身体は、恐ろしいほど正直だ。
心がどれほど拒絶しても、身体は昨日まで繰り返してきたことを裏切らない。
送信機を握れば、親指は迷わず定位置へ収まり、肩から余計な力が抜け、視線は自然とゴーグルの中心へ吸い寄せられる。昨日まで罪悪感で眠れなかったはずなのに、その一連の動作だけは何一つ狂わない。その事実を認めるたび、自分という人間は思っていたよりも機械に近いのではないかという嫌な考えが頭をよぎり、それを否定する言葉を探す間もなく、画面の向こうの世界がゆっくりと明るさを取り戻していく。
離陸。
ただその二文字だけで、身体は切り替わる。
プロペラが空気を噛み、地面が少しずつ遠ざかる。高度が上がるにつれ、建物は形へ変わり、車は色へ変わり、人間は点へ変わる。
点。
その言葉が胸の奥へ引っ掛かる。
昨日までは何とも思わなかった。
画面の中の人間は、操縦の邪魔にならないよう避ける対象でしかなかった。木も電柱も犬も人も、機体にとっては同じ障害物だった。
そう考えなければ飛べなかった。
そう考えることによって、自分は安全を守ってきた。
それが間違っていたとは思わない。
思わないのに、その「点」という認識が、今では刃物のように胸へ刺さる。
もし、あの日見た子どもも、自分にとってただの点だったのなら。
その瞬間、自分は何を失ったのだろう。
飛行経路は複雑だった。
崩壊した建物を低空で抜け、細い路地を何度も折れ、屋上すれすれを滑る。普通なら減速する場所で速度を保ち、普通なら高度を上げる場所で逆に下降する。
難しい。
だからこそ、頭が静かになっていく。
昨日まで耳の奥で鳴り続けていたニュース映像も、瓦礫の下を想像する苦しさも、ホテルで眠れなかった夜も、操縦が始まった瞬間から少しずつ遠ざかっていく。
考えたくないわけではない。
忘れたいわけでもない。
ただ、飛んでいる間だけは、考える場所そのものが身体の中から消えてしまう。
右。
下降。
旋回。
加速。
修正。
風。
壁。
光。
その順番だけが頭を満たしていく。
自分という人間が小さくなり、操縦だけが身体を借りて動いているような、不思議な感覚だった。
そして、その静けさを、自分は知っている。
会社で数字を合わせている時には訪れない。
本を読んでいる時にも来ない。
眠る前にも来ない。
ドローンだけだった。
送信機を握っている時だけ、自分は余計な感情から切り離される。
昔はそれを「集中力」と呼んでいた。
今は違う名前が浮かぶ。
麻酔。
痛みを消しているだけではないか。
痛みの原因は何一つ解決していないのに、飛んでいる間だけは忘れられる。
だから飛び終わった瞬間、現実は以前より重く身体へ落ちてくる。
その事実に気付き始めていた。
機体は古い給水塔の脇をかすめ、錆びた鉄骨の隙間へ滑り込む。
狭い。
あと数センチでも角度を間違えれば接触する。
それでも怖くない。
むしろ、狭くなればなるほど頭の中は澄んでいく。
人間とは奇妙な生き物だ。
危険な場所ほど、余計なことを考える余裕がなくなる。
だから戦場では兵士が笑うのかもしれない。
だから災害現場では冷静でいられる人がいるのかもしれない。
極限状態は、人を強くするのではない。
考える力を奪う。
その代わり、生き延びるために必要な能力だけを研ぎ澄ませる。
もしそうなら、自分はいま、生き延びるためだけの生き物になっているのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間だった。
機体が強い横風へ煽られる。
反射だった。
身体が先に動く。
右スティックをわずかに倒し、左を半拍遅らせ、姿勢を立て直す。
考えていない。
身体が勝手にやった。
映像は一度も乱れない。
完璧だった。
自分でも惚れ惚れするほど、美しい修正だった。
その瞬間。
胸の奥で、小さな喜びが弾けた。
ほんの一瞬だった。
「ああ、うまく飛べた。」
ただそれだけの感情。
だが、その一瞬が何より恐ろしかった。
自分は笑いかけた。
人が死んだかもしれない仕事の最中に。
それは声にもならず、表情にもならなかった。
けれど確かに、心のどこかが満足していた。
操縦が完璧だったことを。
技術が通用したことを。
その事実を喜んだ。
飛行終了。
ゴーグルを外す。
世界の音が戻る。
誰かが機体を受け取り、誰かがデータを保存し、誰かが次の準備を始める。
そのすべてが遠い。
近いのは、自分の鼓動だけだった。
椅子へ腰を下ろし、掌を見る。
震えていない。
罪悪感で震えると思っていた。
違った。
静かだった。
あまりにも静かだった。
だからこそ、怖かった。
人を傷つけたかもしれないという恐怖よりも、その状況へ少しずつ慣れ始めている自分の方が、何倍も恐ろしかった。
狂気とは、突然生まれるものではないのかもしれない。
ほんのわずかな快感を、自分自身が見逃し、許し、理由をつけて受け入れ続けた先で、ようやく「狂っていた」と振り返るしかないものなのだと、その時の彼はまだ言葉にできなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
送信機を握っている間だけ、自分は救われていた。
そして、その救いが、誰かの絶望の上に成り立っているかもしれないという事実から、もう目を逸らすことはできなかった。
第七話 殺したかったわけではない
人間は、生きるためなら何でもする。
そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。
昔は、その手の言葉が嫌いだった。戦争を経験した人間でもない誰かが、人生を知ったような顔で口にする常套句にしか思えなかったし、本当に追い詰められた人間を見たこともない者ほど、「人間なんてそんなものだ」と簡単に言い切るような気がしていた。
だから、自分は違うと思っていた。
追い詰められても、きっと譲れないものがある。
人を踏み台にはしない。
人を見捨てない。
自分だけ助かろうとは思わない。
そう信じていた。
信じていたというより、疑ったことがなかった。
それは、自分が試されたことのない人間だったからだ。
試験を受けたことのない生徒が、自分は百点を取れると思い込むように。
試されない善人は、どこまでも善人でいられる。
その朝、施設の空気はいつもと違っていた。
静けさは変わらない。
しかし、その静けさには、何かを隠している人間だけが持つ重さがあった。
視線が合わない。
歩く速度が少しだけ速い。
机の上には送信機ではなく、一枚の封筒が置かれていた。
自分の名前。
日本語で印字されている。
嫌な予感というものは、具体的な形を持たない。
それでも、人間は封筒を手にした瞬間、その重さだけで中身が良くないことを知る。
中には写真が数枚。
実家だった。
古い木造住宅。
庭。
母が育てていた植木鉢。
近所の交差点。
父が毎朝歩く散歩道。
どれも最近撮られたものだった。
最後の一枚には、駅前で買い物袋を提げた妹の姿が写っていた。
後ろ姿だけだった。
それでも妹だと分かる。
肩まで伸びた髪。
歩幅。
癖のある右肩の傾き。
誰かが、日本で撮っている。
自分ではなく。
家族を。
封筒の底には紙が一枚だけ残っていた。
翻訳された短い文章。
「仕事を続けてください。」
それだけだった。
脅迫というには短すぎる。
命令というには静かすぎる。
しかし、人間を従わせるには十分だった。
その一文には怒りも憎しみもない。
ただ事実だけが置かれている。
だから恐ろしい。
感情で脅す人間より、仕事として脅す人間の方がずっと怖い。
彼らにとって、自分も家族も数字なのだ。
必要なら残し、不要なら消す。
その基準だけで動いている。
その日初めて、逃げることを考えた。
施設を出る。
空港へ向かう。
大使館へ駆け込む。
警察へ話す。
方法はいくらでも思い付く。
だが、そのすべてには一つだけ欠けているものがあった。
時間。
自分が走り出した瞬間、写真の向こう側にいる家族へ何が起きるのか。
想像できてしまう。
想像できる人間は、賭けられない。
善人だからではない。
臆病だからだ。
いや、それすら違う。
家族を守りたい。
その当たり前の願いが、人間を最も簡単に支配する。
もし自分一人なら逃げたかもしれない。
しかし、人間は一人では生きていない。
誰かを守りたいと思った瞬間から、その誰かは弱点になる。
だから家族は温かく、同時に恐ろしい。
送信機が運ばれてくる。
黒い樹脂の匂い。
使い込まれたスティック。
何度も触れた感触。
昨日まで救いだったものが、今日は手錠に見えた。
それでも手は伸びる。
伸ばさなければ終わる。
終わらせる勇気がない。
その事実を認めた瞬間、自分は少しだけ軽くなった。
人間は不思議だ。
覚悟を決めた時ではない。
諦めた時に呼吸が楽になる。
操縦が始まる。
画面の中では、世界がいつも通り小さい。
建物も。
道路も。
人も。
すべてが俯瞰の中へ収まっている。
神というものが存在するなら、世界をこんなふうに見ているのだろうか、とふと思う。
細かな人生など見えない。
点が動き、止まり、消えていくだけ。
その瞬間、自分ははっとした。
神ではない。
自分が今見ているのは、人間を神の高さから見下ろす視点だった。
だから点になる。
だから命の重さが薄れる。
高く飛ぶほど、人は人間ではなくなる。
そのことに気付いてしまった。
だが、気付いたからといって操縦は止まらない。
指は動き続ける。
機体は進む。
目的地へ向かう。
途中、画面の右下で一台の古い車が立ち往生していた。
老人が二人、押している。
その姿を見た瞬間、昔なら少し笑っていたかもしれない。
「頑張れ」と心の中で呟いたかもしれない。
今日は何も思わなかった。
邪魔にならない位置だ。
その一瞬の判断だけで通り過ぎる。
そのことが、自分には何より恐ろしかった。
冷たくなったのではない。
必要な情報だけを選ぶようになったのだ。
効率。
最適化。
合理性。
会社では褒められる能力だった。
ここでは、人間を切り捨てる能力へ変わる。
能力に善悪はない。
使う場所が変わるだけで、意味が反転する。
飛行が終わる。
ゴーグルを外す。
額に汗が流れている。
誰かが結果を確認している。
自分は何も聞かない。
聞けば答えを知ってしまう。
知らなければ、自分はまだ「飛ばしただけ」でいられる。
その逃げ道を、自分は必死に守っていた。
ホテルへ戻り、封筒の写真をもう一度並べる。
母。
父。
妹。
どの顔も笑っている。
その笑顔を守ったのだから、自分の選択は正しかったのではないか。
そう考えた。
考えた瞬間、胸の奥から別の声が静かに浮かぶ。
その家族を守るために、今日は誰の家族を壊した。
答えはなかった。
いや、答えはあった。
認めたくないだけだった。
彼は初めて理解する。
善人と悪人を分ける境界線など、この世界には存在しない。
あるのは、守りたいもののために、どこまで目を閉じられるか、その長さだけなのだと。
第八話 才能の正体
人間は、自分の才能を、美しいものだと思いたがる。
努力して手に入れたものならなおさらだ。
誰にも負けない技術。
積み重ねた時間。
失敗の数。
それらは人生を肯定するための勲章になり、自分という人間を支える柱になる。だから、その柱が誰かを傷つけていたと知った時、人は才能そのものを疑うのではなく、才能の使われ方だけが悪かったのだと考えようとする。
彼も、そうだった。
悪いのは戦争だ。
悪いのは依頼した人間だ。
悪いのは命令した人間だ。
悪いのは、この国だ。
そう考えている限り、自分はまだ「運悪く巻き込まれた被害者」でいられた。
その立場は苦しかったが、まだ人間でいられる場所だった。
しかし、ある瞬間から、その場所が少しずつ崩れ始める。
それは誰かに責められたからではない。
誰かに真実を突きつけられたからでもない。
自分自身が、自分の身体を疑い始めたからだった。
その日の飛行は短かった。
施設の中に漂う空気は相変わらず静かで、誰も必要以上に口を開かない。
彼も何も聞かなかった。
聞けば答えが返ってくる。
答えが返れば、それを抱えて生きなければならない。
知らないという状態だけが、かろうじて自分を守ってくれていた。
送信機を握る。
画面が明るくなる。
離陸。
その瞬間、自分でも驚くほど滑らかに身体が動いた。
昨日よりも。
一昨日よりも。
明らかに精度が上がっている。
風を読む速さ。
姿勢を立て直す速さ。
障害物との距離感。
すべてが以前より自然だった。
それは喜ぶべきことのはずだった。
趣味だった頃なら、帰宅して映像を何度も見返し、自分でも笑ってしまうほど満足していただろう。
だが今は違う。
上達している。
その事実だけが、恐ろしく重かった。
どうして上達する。
どうして慣れる。
どうして身体は学習する。
昨日まで眠れなかった人間が、今日にはさらに正確に飛ばしている。
罪悪感は、技術を鈍らせなかった。
後悔は、判断を遅らせなかった。
むしろ逆だった。
余計な感情が削ぎ落とされ、操縦だけが純粋になっていく。
それは、努力ではなかった。
適応だった。
人間という生き物が、生き延びるために備えている、あまりにも残酷な能力だった。
彼は学生時代、生物の授業で読んだ文章を思い出す。
環境へ適応した種だけが生き残る。
その時は植物や昆虫の話だと思っていた。
違う。
人間も同じなのだ。
どんな地獄へ放り込まれても、そこに留まれば、少しずつ身体が慣れてしまう。
戦場にも。
飢えにも。
暴力にも。
そして、自分が関わってしまった罪にも。
そのことが何より恐ろしかった。
彼は、自分の才能は「操縦が上手いこと」だと思っていた。
違った。
本当の才能は、もっと醜かった。
必要な情報だけを選び、不要な情報を切り捨てる能力。
恐怖を後回しにし、指先だけを正確に動かし続ける能力。
迷いを、一時的にでも消してしまえる能力。
それが、自分の才能だった。
だから子どもの頃から上手かった。
だから大会へ出れば驚かれた。
だから動画が世界中で見られた。
風を読む力ではない。
反射神経でもない。
心を切り離す能力だった。
その事実に気付いた瞬間、胃の奥が冷たくなる。
趣味だった頃は、それで誰も傷つかなかった。
だから「集中力」と呼ばれた。
今は違う。
同じ能力が、人間を数字へ、点へ、風景へ変えてしまう。
能力は変わっていない。
意味だけが変わった。
それなのに、自分はまだ送信機を握っている。
その理由を考える。
家族を守るため。
生き延びるため。
どれも嘘ではない。
だが、それだけでもない。
認めたくない言葉が、心の奥からゆっくり浮かび上がる。
飛ぶことが好きだ。
その事実だけは、どんな理屈を並べても消えなかった。
好きだから苦しい。
嫌いになれれば楽だった。
送信機を捨てて、日本へ帰り、二度とドローンを触らなければ済む話だった。
しかし、飛行が終わった直後、自分は無意識に映像を見返していた。
どこが良かった。
どこをもっと滑らかに飛べた。
その癖だけは消えていない。
仕事の結果ではなく、飛行そのものを見ている。
その自分を見つけた瞬間、彼は初めて、本当に恐ろしくなった。
戦争が人を変えるのではない。
戦争は、人の中に最初からあったものを照らすだけなのかもしれない。
善意も。
臆病さも。
愛情も。
そして、才能も。
才能は、光ではなかった。
暗闇でもなかった。
ただの刃物だった。
料理人が持てば食卓を支え、医者が持てば命を救い、犯罪者が持てば人を傷つける。
刃物に罪はないという言葉を、彼は以前まで正しいと思っていた。
今は違う。
刃物には罪がなくても、その刃を握る人間は、自分が何を切ろうとしているのかを知ろうとしなければならない。
知らなかったでは済まされない。
その言葉は、もう誰かに向けたものではなく、自分自身へ突きつける判決になっていた。
第九話 自分で選ぶ
人間は、自分で選んだことだけを、一生背負って生きていく。
そう思っていた。
だから、これまでは必死に「選んでいない」と言い聞かせてきた。
命令だった。
脅された。
知らなかった。
家族を守るためだった。
どれも事実だった。
だが、それらは「選ばなかった理由」ではあっても、「選んでいない証拠」にはならない。
どれほど追い詰められても、最後に送信機を握ったのは、自分だった。
その事実だけは、誰にも奪えなかった。
施設へ向かう車の窓から見える景色は、最初の日と何も変わらない。
乾いた大地。
崩れた建物。
遠くに霞む山並み。
洗濯物を干す女。
走り回る子ども。
羊を追う老人。
戦争はニュースの中だけにあるのではなく、こうして誰かの日常のすぐ隣に座り込み、それでも人は洗濯をし、子どもは笑い、腹が減れば食事をし、夜になれば眠る。
人間は強いのではない。
生きることをやめられないだけなのだ。
その日、机の上へ置かれた地図は、これまでで最も単純だった。
離陸地点。
一直線の飛行経路。
終了地点。
迷路のような旧市街でもなければ、複雑な障害物もない。
簡単すぎる。
その簡単さが、嫌な予感を膨らませた。
送信機を握る。
画面が映る。
機体が浮かぶ。
高度を上げる。
画面の中央に、広い道路が見えてきた。
道路の脇には大型車両が何台も停まり、その周囲には人が集まっている。
遠すぎて顔は分からない。
制服らしき服。
担架。
白い布。
救急車なのか、避難車両なのか、それとも軍なのか。
判別できない。
いや、判別したくなかった。
飛行を続ける。
その時、画面の端に、小さな家族が映った。
父親らしい男が子どもの手を引き、母親らしい女がその後ろを歩いている。
それだけの光景だった。
何の変哲もない。
世界中どこにでもある家族だった。
その瞬間、胸の奥で、実家の写真が重なった。
父。
母。
妹。
あの封筒。
もし画面の向こうが自分の家族だったら。
そんな想像をした瞬間、指先が初めて止まった。
ほんの一秒にも満たない停止だった。
しかし、その一秒は、自分にとって今までで一番長かった。
通信機の向こうで誰かが何かを叫んでいる。
言葉は分からない。
それでも意味だけは理解できる。
飛べ。
止まるな。
進め。
命令だった。
今までなら従っていた。
理由はいくらでも作れた。
だが、その理由はもう使えなかった。
自分は知っている。
画面の向こうには、人間がいる。
その事実を知ってしまった。
知った人間には、もう「点」という言い訳は使えない。
彼はゆっくり息を吐いた。
初めてだった。
送信機を握ったまま、飛ぶことより先に考えたのは。
助かる方法ではなかった。
正しい方法でもなかった。
このあと、自分が自分を嫌いにならずに生きていける方法だった。
答えは一つしかなかった。
機体を高度いっぱいまで上げる。
予定された経路を外れる。
空は広い。
誰の命令も届かない高さまで、一気に上昇する。
通信機から激しい雑音が流れる。
指示が飛ぶ。
怒鳴り声。
警告音。
画面の端には通信品質の低下を示す表示が点滅している。
それでも機体は上がる。
上がり続ける。
街が小さくなる。
道路が線になる。
人が完全に見えなくなる。
彼は初めて、自分の意思で操縦桿を動かしていた。
仕事のためでもない。
命令でもない。
脅迫でもない。
ただ、自分で決めた。
高度が限界へ近づく。
通信は不安定になり、映像が途切れ始める。
画面が砂嵐になる。
黒。
白。
黒。
白。
最後に一瞬だけ青空が映った。
それが、この国で見た一番綺麗な空だった。
通信は完全に途絶えた。
機体は帰ってこない。
誰かが走ってくる足音が聞こえる。
施設の中が慌ただしくなる。
彼は送信機を机へ静かに置いた。
逃げようとは思わなかった。
もう十分逃げた。
責任からも。
現実からも。
自分自身からも。
だから今回は逃げない。
この先どうなるのかは分からない。
拘束されるかもしれない。
殺されるかもしれない。
家族を守れなかったかもしれない。
それでも、ようやく一つだけ確かなことがあった。
これだけは、自分で選んだ。
その選択が正しかったかどうかは、きっと一生分からない。
だが、人間は正しさだけでは生きられない。
少なくとも、自分が自分の目を見て生きていける選択だけは、誰にも代わってもらえないのだ。
最終話 空は、今日も静かだった
人は、自分が助かった瞬間に泣くのではない。
もう助からないと諦めた瞬間でもない。
すべてが終わり、身体だけが生き残ってしまった朝、何をしていいのか分からなくなった時、人は初めて涙の意味を知る。
施設を離れてからの記憶は曖昧だった。
尋問。
保護。
事情聴取。
国の名前も、組織の名前も、新聞には書かれなかった。
世界は何事もなかったように翌日を迎えた。
新しい戦争が始まり、新しい事故が起こり、新しい誰かが死んでいく。
自分が関わった出来事は、その膨大な情報の中へ埋もれ、小さな波紋のように消えていった。
それでよかった。
英雄になる資格などない。
被害者を名乗る資格もない。
ただ、生き残った。
それだけだった。
日本へ戻った最初の休日、彼は河川敷へ向かった。
半年ぶりだった。
草は伸び、土手には犬を散歩させる老人が歩いている。
少年が父親とキャッチボールをしている。
橋の下では高校生らしい二人が笑いながら写真を撮っている。
何一つ変わらない。
世界は、自分がいなくても回っていた。
車の荷台からケースを降ろす。
埃を被った送信機。
何度も握ったゴムのグリップ。
親指が自然に定位置へ収まる。
その動きは、半年前と一ミリも変わらなかった。
人間は忘れる。
そう思っていた。
身体は忘れない。
電源を入れる。
電子音。
機体が起動する。
プロペラが回る。
高くも低くもない、あの聞き慣れた音が風へ溶けていく。
離陸。
機体は静かに浮き上がる。
十メートル。
二十メートル。
三十メートル。
川。
橋。
公園。
住宅街。
町が少しずつ小さくなる。
久しぶりなのに、操縦は何も鈍っていなかった。
いや。
以前より正確だった。
風の癖が見える。
電線との距離が分かる。
木の揺れ方だけで上昇気流まで読める。
半年飛ばなかったとは思えない。
違う。
半年飛ばなかったからではない。
半年、毎日飛ばしていた。
頭の中で。
夢の中で。
眠れない夜のたびに。
指は一日も休んでいなかった。
彼は笑った。
乾いた笑いだった。
結局、自分はドローンが好きなのだ。
あれほど憎み、あれほど捨てようと思ったのに。
才能とは残酷だった。
嫌いになれない。
その時だった。
画面の端を、小さな影が横切った。
河川敷を歩く、親子だった。
父親。
母親。
まだ小さな子ども。
ベビーカー。
犬。
ありふれた日曜日。
彼は無意識に高度を上げた。
人から距離を取るためだった。
その瞬間だった。
頭の中で、何かが勝手に計算を始める。
風速。
高度。
速度。
旋回半径。
障害物。
避難経路。
もし橋が崩れたら。
もし車が突っ込んだら。
もしここで。
もし。
もし。
もし。
考えようとしたわけではない。
勝手だった。
頭が勝手に答えを探し始める。
どこへ飛べば最短で着くか。
どの角度なら見失わないか。
どこから入れば。
どこを抜ければ。
止まらない。
思考が止まらない。
彼は初めて理解する。
戦争は終わった。
依頼も終わった。
脅迫も終わった。
それなのに、自分の脳だけが終わっていなかった。
あの日々は、傷ではなかった。
学習だった。
人間の脳は、生き延びるために最適化される。
その最適化は、平和になったからといって元へ戻ってはくれない。
彼は世界を見ているのではなかった。
世界を「飛行経路」として見ていた。
人を人としてではなく、「避けるべきもの」「見失ってはいけないもの」「追うべきもの」として認識していた。
それは戦場だけの能力ではない。
日常へ持ち帰ってしまった能力だった。
恐ろしくなり、送信機から手を放そうとした。
放せなかった。
指が吸い付いていた。
違う。
放したくなかった。
その事実に気付いた瞬間、身体の奥底が冷え切った。
飛んでいる時だけ、世界は静かになる。
飛んでいる時だけ、自分は苦しまなくて済む。
飛んでいる時だけ、自分は生きている。
それは最初から変わっていなかった。
変わったのは、その静けさの意味だった。
昔は幸福だった。
今は依存だった。
空は何も変えていない。
変わったのは、自分の脳だった。
機体がゆっくりと旋回する。
河川敷の親子が小さく見える。
子どもがこちらへ手を振っている。
もちろん、見えているはずはない。
それでも彼には、こちらを見上げて笑っているように見えた。
親指が、ほんのわずかに前へ倒れる。
その瞬間。
彼は凍りつく。
自分は今、何をしようとした。
答えは出ない。
いや、出してはいけない。
送信機を握る力だけが強くなる。
画面の中では、青空だけがどこまでも穏やかに広がっていた。
そして彼は、誰にも聞こえないほど小さな声で、自分自身へ問いかける。
「俺は、本当に最初の一人を殺した時から壊れたのか。それとも、壊れていたから、あの日あの仕事を引き受けたのか。」
返事はない。
空は今日も静かだった。
全部で十話です。




