第9話 雨と香り
その日は、午後から突然の雨だった。
教室の窓に、ぽつ、ぽつ、と水滴が音を立てて当たりはじめる。
いつもより早めに暗くなった空と、湿った空気。誰かが「秋雨前線ってやつかな」とつぶやいた。
放課後、紬は傘をさして歩きながら、ふいに足を止めた。
アスファルトの隙間から立ちのぼる、土と雨が混じった匂い。子どものころ、祖母の家に遊びに行った日のことが、唐突に蘇った。
祖母の家は古く、雨が降ると木の床や障子がわずかに湿り気を帯びて、空気の匂いが変わるのだ。
「雨のにおいって、懐かしいね」と言った祖母の声が、はっきりと耳の奥に響いた気がした。
***
紬はそのまま寄り道をして、公園のベンチに座った。制服の袖を少し濡らしながらも、傘を閉じて、雨上がりの空気をしばらく吸い込んだ。
落ち葉が濡れて、足元に小さな色の海ができている。
そこに、あの頃と同じ匂いがあった。
記憶は、五感のどこかに潜んでいる。見たこと、聞いたこと、触れたもの。けれど中でも匂いは、もっとも唐突に記憶を引き出す。
祖母の香水の匂い。
古い瓶に入った、すこし甘くて、すこし苦い香り。
思い出した瞬間、胸がちくりと痛んだ。
「会いたいな」と、声に出さずに思った。
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祖母は、紬が小学四年の冬に亡くなった。
明るく、笑い方が大きくて、でも話す言葉はどこかゆっくりだった。
家に行くたび、台所で出汁の香りがして、足音を立てて迎えに来てくれた。
「ほら、靴、ちゃんとそろえてから上がりなさいな」
それが口癖だった。
そしてもう一つ、よく話していた言葉がある。
「匂いってのは、心に残るのよ。香りはね、記憶の鍵みたいなもんだから」
紬は当時、その意味がよくわからなかった。
でも今、その言葉がまっすぐ心に刺さる。
祖母の香水、夕方の雨、土の匂い、炊きたてのご飯、冬のストーブの匂い。
どれもが、彼女の心の中で一瞬のフラッシュのように光を放つ。
それらは、彼女がどこから来たのかを、静かに教えてくれる。
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その夜、帰宅して、紬は引き出しの奥から古い箱を取り出した。
木の蓋に、小さな傷がついた箱。
中には、祖母の香水瓶がひとつと、小さな布のハンカチ、そして手紙が一通。
香水瓶はすでに中身が乾いていたが、ガラス越しにわずかに香りが残っていた。
鼻を近づけると、一気に記憶が押し寄せる。
祖母が髪に指を通しながら、「おしゃれは香りからよ」と言った午後。
一緒に焼き菓子を焼いた日。
「あなたの笑い声、好きだわ」と言ってくれた日。
紬は手紙を開けて、何度も読んだその言葉を、もう一度目でなぞった。
“紬ちゃんへ。あなたの感じる力は、きっと誰かをあたためるわ。”
彼女の中で、時間が巻き戻るような感覚とともに、目の奥がじんわりと熱くなった。
でも涙はこぼれなかった。
代わりに、小さな決意のようなものが静かに心に芽生えた。
「ちゃんと、感じていたいな」
そんなふうに思った。
***
翌日、紬はInstagramに、一枚の写真を投稿した。
濡れた落ち葉と、足元に映る空。キャプションは短く、“香りが連れてくるもの”とだけ。
すぐに茉莉から「わかる。あの感じ、すごくわかる」とメッセージが届いた。
茉莉もまた、誰かの記憶と香りをつないで生きているのかもしれない。
日々の中で、人は忘れていく。
でも、雨の匂いや誰かの香りが、ふいに記憶の奥を照らしてくれる。
その瞬間の連なりが、紬の輪郭を、少しずつ確かにしていた。