第8話 ノートの余白
八月の終わり、蝉の鳴き声が日に日に弱まっていく。夏は確かに終わりに向かっていて、それがなぜだか少し寂しく感じられた。
この季節特有の、心が置き去りにされていくような感覚が、紬の中に広がっていた。まるで、一度だけ開いた窓から入ってきた風が、次の瞬間にはもう通りすぎてしまったような。
そんなある日、紬は図書館に向かっていた。
倫理のノートに書き足したいことがあったのだ。授業で使うノートというより、彼女にとってそれは、日々の思考を残しておくための小さな箱のようなものだった。
そのノートには、授業中に聞いた話の感想、ふと思いついた疑問、友達との会話の断片、そしてInstagramに載せる前の写真の説明文など、いろんなことが雑多に書き込まれている。
「私は今、なぜこれを書いてるんだろう?」
そんな問いすら、余白に書かれている。
図書館の静かな席に座ると、紬はページをめくり、数日前に茉莉と話した内容を思い出しながら、シャープペンを動かし始めた。
『他人といると自分の輪郭がぼやける。でも、それは時に安心にもなる。』
『曖昧なまま保っていたい気持ちと、はっきりさせたい気持ちが交互にやってくる。』
書きながら、ふと、彼女は「曖昧」について考えた。
曖昧さは、怖い。
どこにも立っていないような、不確かさ。
けれどその中でだけ、何かが自由に形を変えられる。
ノートを閉じようとしたとき、横から声をかけられた。
「紬?」
振り返ると、そこにはクラスメイトの麻央がいた。
あまり話したことのない子だったが、いつも静かで、誰かの言葉をじっと聞いている印象のある子だった。
「うん、こんにちは」
「あ、驚かせた? ごめん。なんか……すごく集中してたね」
「うん。ノート書いてたんだ」
麻央は少し迷ったような表情をしてから、言った。
「……倫理のノート、って感じした。なんか、こう、考えてる時間っていうか」
紬は驚いて、少しだけ笑った。
「そういうの、伝わる?」
「伝わるよ。ていうか、紬って、Instagramとかでも、ああ、なんか“考えてる人”なんだなって思ってた」
その言葉は不思議と嫌味ではなく、むしろ透明で、紬の中のなにかをほどいた。
「麻央は、ああいうの、見る?」
「たまに。自分ではあんまり投稿とかしないけど。でも、見るとちょっと安心する。あ、こんなふうに感じていいんだなって」
そう言って、麻央は少し恥ずかしそうに視線をそらした。
「……ありがとう。そう言ってもらえるの、うれしい」
二人の間に沈黙が落ちた。けれどそれは、気まずさではなかった。
その後、麻央は「じゃあね」と軽く手を振って席を離れた。
紬はノートの最後のページを開き、新しい行に文字を書いた。
『誰かの目にうつる私が、少しでも誰かを安心させることがあるなら、それも私の一部かもしれない。』
***
その日の夜。
紬は自室で机に向かいながら、ふとスマートフォンを手に取った。
最近撮った何枚かの写真を見返す。
文房具の整った引き出し、雨上がりの公園の水たまり、古本屋の窓辺に並ぶ詩集。どれも「なんとなく撮ったもの」だが、今見ると、確かに「今の自分」を映しているように思えた。
写真と一緒に載せる言葉を考える。
いまの気分は、「輪郭」という言葉だった。
人との距離で揺れる、自分の形。
でもそれが、まったく悪いことじゃないと知れたこの数日。
言葉は、完全にはまとまらなかった。
けれど、それでもいい。
言葉にならない思いを、少しずつ手放すように投稿を下書き保存し、スマホを伏せた。
そしてまた、ノートの余白にこう書いた。
『自分とは、手放しながらも、つかもうとしているものかもしれない。』
深夜、外では風が揺れていた。
季節が変わっていく気配が、窓の向こうからやってきて、彼女の心の奥にもそっと入り込んでいた。