第7話 距離の輪郭
茉莉と待ち合わせたのは、駅から少し歩いた場所にある小さなカフェだった。前に一緒に来て、シナモンロールが美味しかったと話した店。
二人は向かい合って座ると、メニューも見ずに「いつもの」と注文した。
「この前、投稿してたパン。あれ、ちょっと感動したよ」
茉莉が言った。
「え、感動っていうほどのものじゃないでしょ」
「いや、ああいうの、私好き。見た瞬間、あー、紬っぽいなって思った」
紬は笑いながらも、胸の奥が少しだけ熱くなった。
自分の中で日常の一部だった行動や感覚が、他人にとって何かしらの印象を与えている。そのことに少し驚きながらも、どこか救われる思いがした。
シナモンロールと紅茶が運ばれてくると、二人は自然と黙って、それぞれの飲み物に手を伸ばした。
ふと、茉莉が窓の外を見つめながら言った。
「ねえ、私、たまに思うんだよね」
「何を?」
「……こうして紬と一緒に過ごしてて、私なんかと一緒にいて、紬は退屈じゃないのかなって」
紬は驚いて茉莉を見た。だが、茉莉の表情に重たい陰はなく、ただ穏やかな曇りのようだった。
「卑下してるわけじゃないよ。ただ、ふと湧いてくる感じ」
「自分が特別に面白い人間じゃないっていうか……。紬はちゃんと考えてるし、自分のことに正直で、そういうのが見えると、逆に自分ってすごく“ふつう”だなって思うの」
「ふつう?」
「うん。うまく言えないけど、紬といると、自分の輪郭がちょっとあやふやになることがある」
「それ、わかる気がする」
紬は、少し時間をおいてから言った。
「私もそうだよ」
「え?」
「誰かと話してると、時々、“私”って何だったっけ? って思うことある。たぶん、それって悪いことじゃなくて、お互いの境界線が少しだけ触れて、曖昧になるからかもしれない。で、それがまた戻ってきたとき、ちょっと新しい自分が見えてくる気がする」
茉莉は目を見開いて、それから静かに笑った。
「……それ、いいね。うん、ちょっとわかる気がする」
会話はそれで終わりではなかった。
そのあとも他愛のない話をした。
インスタグラムに載せる写真のこと、最近読んだ記事の話、学校でのちょっとした出来事。
茉莉は、ときおり自分の指を見つめるようにして話していた。
「この前、朝、鏡見てたらさ、自分の顔がちょっと他人みたいに見えたんだ」
「わかる。私もある」
「なんでかなって思ったけど、多分その日、誰ともちゃんと話してなかったからかも」
「言葉を交わさないと、自分の“輪郭”がぼやける感じあるよね」
「うん。私、紬といると、ちょっと安心するんだよ。自分がちゃんとここにいる気がする」
その言葉は、まっすぐで、そして少しだけ脆くて、けれど温かかった。
紬もまた、同じことを思っていた。
——自分の中の不確かさや、他人との距離感の揺らぎ。
それらはときに不安を生むけれど、茉莉のように言葉を交わす相手がいることで、少しだけ安心できる。
帰り道、公園のベンチに立ち寄った。
風が少し冷たくなってきて、夏の終わりが近いことを知らせていた。
夕方の光が伸び、二人の影を長くしていく。
「ねえ、茉莉。私ね、時々自分のことが全然わからなくなるんだよ」
「うん」
「でも、それって悪いことじゃないのかもって、最近ちょっとだけ思えるようになってきた」
「わかる。私も、自分の“ふつうさ”が、誰かとの関係の中で少しずつ変わっていくの、悪くないなって思ってる」
互いの言葉が、まるでノートの余白にそっと書かれたメモのように残った。
関わることは、輪郭を曖昧にすること。
でも、その曖昧さの中で、なにかが少しずつ育っていく。
二人は立ち上がり、駅へと歩き始めた。
その歩調は自然にそろっていて、風の音と足音が混ざり合っていた。
言葉にならない安心感が、そこにあった。