第6話 記憶の部屋
週末、紬は祖母の家へと向かった。
母の頼みで、空き部屋になった祖母の部屋を掃除することになったのだ。祖母は昨年、施設に入った。軽い認知症が始まり、ひとりでの生活が難しくなってきたからだ。
久しぶりに足を踏み入れる祖母の部屋には、わずかに懐かしいにおいが残っていた。古びた木の家具と、お線香と、布団に染みついた柔軟剤の匂いが混ざっている。
紬は静かに部屋の窓を開け、埃の積もったタンスの引き出しに手を伸ばした。中には、折りたたまれたハンカチやセーターの間に、小さな箱や封筒がいくつも隠れていた。
その中に、分厚いアルバムが一冊あった。
表紙の布地は少し色あせていて、角は擦り切れていたけれど、どこか大切にされてきたことが伝わってくる。
ページをめくると、まだ若かった頃の祖母と、その隣に立つ男の人——紬の祖父だとすぐにわかった。紬が生まれる前に他界した人。モノクロの写真には笑顔があり、旅先の風景、学生時代の仲間との写真、親戚の子どもたちと写る場面もあった。
そしてページの最後に、小さな封筒が貼りつけられていた。
「——?」
何気なく開けてみると、中には便箋が一枚入っていた。
少し震えた文字で、こう書かれていた。
> 「あの人のことを忘れてしまった朝、私は生まれ変わったような気がしました。でも、そのあとで、自分がどこにいるのかわからなくなったのです」
便箋の裏にも続きがあった。
> 「私の記憶のなかに、何が本物で、何が夢だったのか、もうわからない。でも、机の上のカップや、押入れの毛布、アルバムの写真は、それを少しだけ思い出させてくれる」
> 「私はそれらを何度も手に取りながら、自分をつなぎとめていたのだと思います」
紬はしばらく言葉を失った。
それは祖母が、記憶を失う恐怖の中で書いた言葉だったのだろう。
自分が「誰だったのか」を忘れてしまうこと。
それは単に名前や関係を思い出せないという以上に、存在の根っこが揺らぐということなのかもしれない。
紬は、自分の部屋をふと思い出した。机の横に置いてある毎週買っているカフェの紙袋、毎朝使うマグカップ、投稿したインスタグラムの写真たち。無意識に自分の周りに置いているそれらが、どれも自分をつなぎとめるための「錨」になっているのかもしれない。
もし何かを忘れたとき、それらが記憶の糸口になるのなら——
自分のまわりのものを、大切にしなければならない。
祖母の棚を丁寧に拭きながら、紬は思った。
記憶というのは、脳の中だけにあるものじゃない。指先が触れた感触や、目に入る色や、耳に届く音もまた、それを構成する部品なのだ。
ふと、紬のスマホが震えた。
メッセージは茉莉からだった。
> 「今日、空いてたら例の店行かない? またあのシナモンロール食べたい」
紬は、指を止めた。
こうして誰かと“同じ時間”を過ごした記憶も、きっと未来の自分をつなぐひとつの鍵になる。
「うん、行こう」
そう返事をして、最後の棚に手を伸ばした。