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第5話 倫理ノート


その日、倫理の授業で扱われたのは「人間とは何か」という問いだった。


紬は教室の隅で、窓の外に流れる雲を眺めながら、その言葉の曖昧さに少しだけ戸惑っていた。先生は黒板に「理性」「感情」「責任」「自由意志」など、いくつかのキーワードを書き並べていたが、どれもどこか他人事のようで、現実の「自分」にはぴったりと重ならなかった。


「人間は理性的である、という考え方がありますが、皆さんはそれに納得できますか?」


先生の問いかけに、数人が意見を出した。


「理性だけじゃなくて、感情で動くことの方が多いと思います」


「むしろ理性なんて、大人が後からつけた言い訳かもしれません」


「感情って、ほんとに“自分”のものなんですかね?」


その声に、紬はハッとした。


感情は、自分のものなのか。


ここのところ、よくわからないのだ。泣きたいのに涙が出ないこともあるし、怒るべき場面で冷静なままのときもある。逆に、笑えるような場面じゃないのに、ふと笑ってしまうこともあった。


それらすべてが「自分」の感情だと断言できるだろうか。自分という器の外から、何かが入ってきて、自分の中を通過して、まるで自分の反応のように見えているだけなんじゃないか。そんな気がした。


先生が言った。


「“自分とは何か”を考えることは、とても時間がかかります。考えても、はっきりした形にはなりません。ただ、問い続けること自体が、人間を人間たらしめているのかもしれませんね」


放課後、紬は図書室に向かった。


いつものように茉莉が先に来ていて、「今日は哲学モード?」と笑いながら机を指さした。


「このへん、倫理の棚。『実存』ってキーワードが多いよ。……読んでると、ちょっと怖くなるけど」


「うん、でも……少しだけ興味ある」


紬は静かに答え、背表紙をなぞるように何冊か手に取った。その中の一冊、『死に至る病』という分厚い本のページを開くと、最初にこう書いてあった。


“絶望とは、自分自身であろうとすることを欲しないこと、あるいは、自分自身であろうとすることを欲することである。”


意味はよくわからなかったが、その文の形に、何か鋭く刺さるものがあった。ページを閉じ、ノートを取り出すと、紬はそこに書き写した。


「自分であろうとすること」


今、自分は「自分であろうとしている」のだろうか。


帰り道、ふと、小学生のときに書いた「将来の夢」を思い出した。「動物のお医者さんになりたい」と書いていた。


でもその理由は、「動物が好きだから」ではなく、「お母さんが喜ぶから」だった。


あの頃からずっと、何かを決めるたびに「他人の期待」を考えていた気がする。自分の望みではなく、「誰かが喜んでくれるかどうか」で進路を決めてきた。


今、自分が通っている高校も、本当に自分が望んだ場所だったのか、わからない。


帰宅後、ノートを開いた。


倫理の授業で使っているものとは別に、個人的な「哲学ノート」をつけ始めることにした。表紙に「つむぎノート」とだけ書き、ページの真ん中にこう記す。


「私は何を“私”だと感じているのか」


ノートには、今日感じたこと、疑問に思ったこと、答えの出ないことをただ書いていく。言葉にならないことも、形にならない気持ちも、書くことで何かが浮かび上がってくる気がした。


たとえば——


「同じ景色を見ていても、昨日と今日で印象が違うのは、私の中の何が変わっているからなんだろう?」


「“好き”って、どこまでが本当の感情? みんなと同じように振る舞うことが“好き”に見えてるだけじゃない?」


「記憶が消えても、“自分”って残るのかな?」


そんな問いが、ページに並んでいく。


問いを書きながら思う。これを続けていくことで、自分というものの輪郭が、少しずつ見えてくるのかもしれない。


夜、眠る前にスマホを見た。


昼に投稿したパンの写真に、知らない誰かからコメントがついていた。


「このリボン、かわいいですね。ちょっとしたことだけど、嬉しい気持ち、わかります」


名前も顔も知らない誰か。でも、言葉が静かに心に触れてきた。


小さな共感。それが、自分が「ここにいる」手応えになる。


画面を閉じて、ベッドに潜り込む。今日もまた、「私」を確認する一日だった。


明日もきっと、はっきりはしないだろう。


でも、「わからない」と書き残しておくこと自体が、きっと自分の中の何かを育てている。それだけは信じられそうだった。


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