第2話 切り絵の時間
月曜日の放課後、紬は真っ直ぐ家に帰らず、駅前の文具店に立ち寄った。
古い店舗だが、画材コーナーの棚は整っていて、切り絵に使える紙も道具も揃っている。切り絵用の細いカッター、デザインナイフ、発色の良い和紙、カッティングマット……どれも既に家にあるけれど、見ているだけで心が落ち着いた。
——“使う”よりも、“触れる”ことが大事なのかもしれない。
結局、手持ちの紙にない深い群青色の和紙と、硬めのクラフトペーパーだけを買って、駅へ向かった。電車を待つ間、Instagramにアップした切り絵に「きれい」とコメントがついているのを見つけた。知らない人だった。プロフィールを見ても共通点はない。けれどそれが、なぜか救いになった。
——私が“見たもの”や“作ったもの”が、誰かに届いてる。
それだけで、今日という日がちゃんと存在していた気がする。
家に帰ると、制服を脱ぎもせず、自室の本棚をあさった。
中学時代に使っていたスケッチブックが出てきた。
中には、色あせた紙に貼られた、幼い頃の切り絵たち。
どれも線が粗くて、構図も単純で、今の目で見れば拙いものばかり。
けれど、そこには確かに“今じゃない自分”が詰まっていた。
——あのときの私は、何を考えてたんだろう。
ページをめくるたびに、小さな記憶がよみがえる。
冬の夜に手がかじかんで、紙を破ったこと。
図書館で借りた図鑑の鳥を真似して、くちばしを失敗したこと。
友達に見せて「すごいね」と言われて、でもどこか恥ずかしかったこと。
指先に残る紙の感触が、それらを引き出してくる。
今の自分が、あの頃の“積み重ね”の上に立っていることが、ようやく少し信じられるような気がした。
夕飯を終えたあと、机に新しい紙を広げる。
今日買ってきた群青の和紙は、光を当てると深い海の底のような色になった。
その色を背景にして、夜の街を切り出してみようと思った。
街灯、電柱、猫、坂道の自転車……輪郭を思い浮かべて、鉛筆で薄く下書きをする。
次に、切る。
カッターの先で紙を押し出すようにして、静かに形を抜いていく。
呼吸は自然に整い、心の中のざわめきも薄れていく。
“考える”よりも、“感じる”ことが先にある。
刃を走らせる動きの中にだけ、自分が確かに存在していた。
夜の街が紙の上に形を成していくにつれて、自分の心の中にあった“もや”のようなものが、少しずつ晴れていくような気がした。
——私は今、ここにいる。
——今この瞬間、確かに“誰か”として、何かを作っている。
完成した切り絵を、スマホで撮ってInstagramにアップする。
添えたのは、こんな短い言葉だった。
「夜の形を切りました。今日は静かで、少しだけ安心した。」
ほどなくして茉莉からメッセージが届いた。
「これ、めっちゃいい。静かっていうの、伝わってきたよ。」
“伝わる”という言葉が、胸にじんわり沁みた。
その夜、布団に入ってから、久しぶりに夢を見た。
夢の中では、昔の自分が切り絵の展示会に出ていた。
中学生くらいの紬が、無表情で作品の横に立っていて、誰かの声にただ「うん」とうなずいていた。
その夢の中で、今の自分が小さな声で言った。
——そのとき、楽しかった?
すると夢の中の“私”が、ゆっくりと目を伏せて、でも小さく笑った。
——うん、たぶん。
朝起きたとき、まぶたに夢の残像がうっすら残っていた。
感情や、輪郭や、自分の名前。すぐに取り戻せるとは思っていない。
けれど、「たぶん楽しかった」というあの小さな笑顔を、私は信じてもいい気がした。
手の中に紙があれば、刃を持てば、私はここにいることができる。
そのことを、もう一度確認できた夜だった。