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第1話 はじまりの違和感

目を開けた瞬間、何かがおかしいと感じた。


カーテンの隙間から差し込む光、窓の外の電線、机に積まれた教科書。いつもと変わらない朝。なのに、視界の奥がかすんでいるような、夢の続きの中にいるような、そんな感覚。喉の奥が引っかかるのに、咳をしても何も出てこない。


「……ん」


ベッドの中で身体を起こすと、目の前にある鏡に、ぼんやりと映った自分と目が合った。

黒目がちの瞳、やや下がった眉、肩まで伸びた髪。いつも通りのはずなのに、どこか知らない人のようだった。


「……なにこれ」


思わず口にした言葉が、自分の声とは思えなかった。


いや、声は確かに聞き覚えがある。でも、それを「私のものだ」と感じることができない。

喉から出た音が、空中でふわりと浮かび、他人の声みたいに耳に入ってくる。


やだな……なんか変。


その瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねた。脳の奥でアラームが鳴っている気がした。


——何かがずれている。


でも、何がどう違うのか説明できない。


 


リビングに行くと、母が朝食を並べていた。


「おはよう、紬。寝坊よ。早く着替えて」


「……うん」


目玉焼きの焼き色。湯気の立つ味噌汁。トーストの焦げ具合。

どれも見慣れた風景のはずなのに、ガラス越しに見ているような感覚が消えない。


母の声も、遠い場所から響いてくるように聞こえる。


ぎこちなくパンを口に運ぶ。味はある。でも、それが“おいしい”という感情につながらない。

塩気。甘み。バターの香り。感じ取れるのに、心が反応していない。


——私、どうしたんだろう。


学校に行っても、違和感は消えなかった。


廊下を歩いていると、自分の足音がやけに大きく響いた。友人の笑い声が、どこか異国の言葉のように聞こえた。教室の扉に手をかけると、その冷たさが必要以上にリアルで、逆に「これは本当に自分が触っているものなのか?」と疑ってしまう。


「つむ〜!聞いてよ、朝からまた山岸がさぁ……」


茉莉まりが笑いながら話しかけてきたが、紬は思わず身を引いた。


「……ごめん、なんかちょっと、頭ぼーっとしてる」


「え、大丈夫?熱あるとか?」


「ううん、そういうんじゃないんだけど……たぶん、寝不足かな」


曖昧にごまかして席に座る。茉莉の表情に、かすかな戸惑いが混じっていた。


……自分の中で何かが崩れているのに、誰にも説明できない。


正直、怖かった。


 


放課後、机の中を整理していたとき、1枚の紙が手に触れた。

淡い水色の台紙に、細い紙で形づくられた草花。小さな鳥が飛んでいる。


——これ、私が作ったやつだ。


数ヶ月前、美術の自由課題で作った切り絵だった。


台紙にそっと指を滑らせる。紙のザラついた感触。切り口のシャープさ。光に透かすと、レースのように影が揺れる。


その瞬間、少しだけ世界の輪郭が戻ってきたような気がした。


感覚が——“あった”。


触れたものと、自分とのあいだに確かな関係がある。自分の手で作った、という記憶がそこに存在する。


「……これだけ、ちゃんとしてる」


思わず口から漏れたその言葉に、少しだけ涙がにじんだ。


教室の空気は変わらない。周囲のざわめきも、いつものまま。

けれど、その中で自分だけが、切り絵の中に確かな“何か”を見出していた。


——この感覚を、もっと集めたい。


 


その晩、机の引き出しをあさって、切り絵の道具を取り出した。

カッターナイフ、カッティングマット、何枚かの色紙。


深呼吸して、手を動かす。紙に刃を入れる瞬間、心のざわつきがスッと静まった。

緊張感。集中。指先の動きにだけ意識を預ける。


頭ではなく、感覚で“ここにいる”と感じる。

カリ……カリ…… 紙を削る音が静かに部屋を満たしていく。


小さな花びら、羽ばたく蝶、ゆれる草。形が浮かびあがるたびに、胸の奥がかすかに動いた。


——まだ、全部消えてしまったわけじゃない。


そんな気がした。


切り絵を作っているあいだだけは、不思議と世界が明瞭だった。


輪郭の曖昧だったものが少しずつ“自分のもの”になっていくような、そんな感覚。

小さな紙片ひとつに、自分の集中と意志が集まっていく。


——これは私が作っている。

——私はここにいる。


夜になって部屋が暗くなっても、蛍光灯の下で作業を続けた。手元だけが白く照らされて、周囲の世界は静まり返っている。部屋の時計の音、遠くで鳴る車のエンジン音、隣の家のテレビの音すら、全部フィルター越しに聞こえていたのに、紙を切る音だけがはっきりしていた。


カリ、カリ。

シャッ。

くるりと刃を回して、小さな葉のカーブを描く。


気づけば1時間以上が経っていた。完成したのは、細かい模様の蝶が草原に降りる瞬間を切り取った作品。背景に光を当ててみると、蝶の羽が淡く透けて、まるで今にも飛び立ちそうだった。


それを見つめていると、胸の奥に温かいものが広がった。


安心、というよりも「まだ消えてない」という実感。


そうだ、私はこれを昔から作っていた。小学校のころ、図工の授業でハマって、家でもずっとやってた。夏休みの自由研究もこれで提出した。評価なんかどうでもよくて、ただ夢中で作っていた。それだけは、確かだった。


ふいに思い出す。


——私、小さい頃から、何かを「作る」ことでしか、気持ちを言えなかった気がする。


絵も、折り紙も、ノートの余白の落書きでさえも、「これは私です」って無言で言っているようなものだった。言葉よりも、そっちの方が正直だった。


そのことを、久しぶりに思い出した。


翌朝、昨日より少しだけすっきりと目覚めた。

鏡に映る顔は、やっぱり何かが抜け落ちているような気がするけれど、それでも昨日よりは少しマシだった。


制服に袖を通しながら、ふと、あることを思いついた。


——“私が見たもの”を残しておきたい。


最近は、スマホのカメラもほとんど使っていなかった。でも、あの切り絵のように、何かを「形」にすることで、自分がここにいた証拠を残せるような気がした。


そう思って、家を出る前にポケットにスマホを滑り込ませた。


 


通学路の途中、ふと立ち止まってスマホを構える。

道端に咲いた小さな花。信号の反射で光る水たまり。雲の切れ間から差し込む朝の光。

これまでなら見過ごしていたはずのものが、カメラ越しに見るとどれも“特別な意味”を持っているように思えた。


撮ってすぐに、Instagramに投稿する。

「今日の朝」とだけ書いて、花の写真をアップロード。


誰かが「いいね」を押すたびに、「見たこと」は確かだったんだと少しだけ安心できた。

他人に見られることで、自分の感覚が裏付けられる——そんな感覚だった。


 


学校では、昨日よりも少しだけ笑えるようになった。

茉莉に話しかけられたとき、表情を作るのが昨日ほど難しくなかった。


「……あ、なんか今日元気そう」


「うん、ちょっと寝たらマシになった」


「そっか。てか、ストーリー見たよ。あれ自分で撮ったの?センスあるじゃん」


「え……見た?」


「見るよそりゃ。なんか、映画のワンシーンっぽかった」


茉莉がそう言って笑ったとき、胸の奥でほんの少しだけ“うれしい”と思った。


——この感情も、まだちゃんとあったんだ。


 


帰り道、ふと、また花の写真を撮った。

そのあと、小さな公園に寄って、ベンチの上に落ちていた赤い実も撮った。


「見たものを、残しておく」


それが、今の自分にできる唯一の方法だった。

見たこと、触ったこと、感じたこと。それらが自分の手の中にあるうちは、きっと全部が消えることはない。


 


夜、もう一度切り絵に取りかかる。

少しだけ複雑な構図に挑戦してみた。紙が重なる音、刃の滑り方、細かい部分で何度もミスしそうになったけど、その緊張すらも嬉しかった。


思えば、手を動かしている間は「私って誰なんだろう」とか、「今、本当にここにいるのかな」なんて考えずに済んでいる。むしろ、無心でいることが、今の自分を救っている。


 


切り絵が完成して、スマホで撮影して、Instagramにアップする。


写真に添える言葉は、こうだった。


「今日、切ったもの。

まだ、私はここにいる。」


 


投稿してすぐに、茉莉からメッセージが来た。


「めっちゃ綺麗じゃんこれ。なんか、紬っぽい」


“紬っぽい”——その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。


自分が“誰かっぽい”ということは、どこかにちゃんと“私”があるということかもしれない。


そんな風に、初めて少しだけ思えた夜だった。


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