最終話 「幸せなまどろみ」
「今日は雨、ひどいね」
カーテンの向こうは灰色の空。
静かに、でも止む気配のない雨音が部屋の中に響いていた。
「外出るの嫌になるくらい降ってるなあ……」
駿がそうつぶやきながら、クローゼットから防水スプレーを取り出す。
「この前の雨でリュックが濡れてたじゃん? 靴もコートも、今日のうちに全部スプレーしておこうと思って」
玄関のたたきに並べられた靴たち。壁にはコートとバッグ。
駿は換気もせず、静かに缶を振っては吹きつけていく。
「結構撒くね」
「うん、雨すごいし。念入りにね。……あ、そうだ」
ふと駿が遥の方を向く。
「ごめん、俺ちょっと出かけなきゃなんだけど、こっちの靴とコートも仕上げてもらっていい? 紙袋の中、資料が入ってるから念入りにスプレーしておいてくれると助かる」
「わかった。うん、大丈夫だよ」
「ありがと。じゃ、任せたね」
そう言って駿は笑顔を残して、玄関のドアを閉めた。
残されたのは、濡れた床と、まだスプレーの匂いが漂う空気。
──しばらくして。
遥は玄関にしゃがみ、スプレー缶を手に取った。
(ちょっと、におい強いな……)
そう思いながらも、靴に、コートに、リュックに、ていねいに霧をかけていく。
途中でふと目をこすりたくなる。
なんだか視界がぼんやりする。喉の奥も、少しだけ重たい。
(眠い……?)
そんなはずはないのに。
朝はたっぷり眠ったはずだったのに、急にまぶたが重くなる。
吸い込んだ空気が、ゆっくり、でも確かに遥の身体の中を蝕んでいく。
作業を終えて立ち上がろうとした足取りは、ふらりとよろけた。
(……あれ? なんか……変)
心臓がドクドクと速く打つ。けれど、身体はだんだん遠くなっていく。
(駿くん……)
最後に思い浮かんだのは、優しい笑顔だった。
──そして、遥はそっと、ゆっくりと、その場に身を沈めた。
冷たい玄関の床。
雨の音が、遠くで続いていた。
なぜか、眠ってしまったような、
そんな不思議な感覚だけを残して。
“幸せなまどろみ”の中へと、
遥は、誰にも気づかれずに沈んでいった。




