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俺は肘掛け椅子に腰掛けながら、今まで過ぎ去った時間の旅路を振り返った。
豪邸にふさわしい縦長の大きなガラス窓から朝の弱弱しくも優しい陽の光が自室に入り込み、新たな一日の幕開けを知らせてくれる。
毎日を過ごすこの場所は、この世界は、まぎれもなく俺の人生の一部なのだ。
そう、ここは異世界。
跋扈するモンスター。人を惑わす魔法。浮世を湧かす冒険者とその英雄譚。この世をほしいままにする特権階級。そんな、恐ろしく、魔性だが、それでも純真な憧憬を抑えられない異世界に俺はたどり着いたのだ。
この世界に転生して、十五年が経つ。
生前は同じく十五の時に不運にも交通事故に巻き込まれ命を落とした。
だが不幸中の幸いというべきか、俺は新たに生を、歩むべき人生をこの世界に与えられた。
それもただの平民などではなく、公爵家の令息として転生したのである。
公爵家として生まれたと知ったときは心を躍らせたものだ。
なんたって貴族だ!
生まれながらにして地位も財産も持ち合わせている。
まあ正確には爵位、財産、領地といったものは、現在は父であるレント=マクローヴィスに全て帰属しているわけだが、何も心配することはあるまい。
父レントの子息は俺だけだ。
この世界は中世的というか、前時代的な価値観が闊歩している。
となればじきに俺のもとに全ての栄光が、天下り的に下りてくるわけだ。
生まれながらにして勝ち組!約束された栄光!月桂冠をゆりかごの中で授けられたようなものだ!
そう、そのはずなんだ。
なのになんだろう……。
この得も言われぬ胸のざわめきは……。
朝の底冷えする空気のせいか、俺は思わず身震いをした。
いや、わかっている。
この不安の元凶は。
廊下から、俺の部屋に近づく足音がする。
整然としたリズムであるが、どこか乱暴な足音が壁越しに伝わってくる。
この聞きなれた足音だけで、何が、誰が近づいているのかすぐに分かる。
それは俺の心に蜂蜜のようなドロッとした不安のしずくを垂らす、度し難くも圧倒的な存在。
栄光を嚙みしめ、安逸をむさぼり、悦楽にひたる。そんな夢のようなスローライフを手に入れようと歩んでいるこの俺に足かせをはめてくる恐ろしい人物。
一体何の用なんだ。
面倒くさい……。
視界が暗くなってゆく。
ノックの音が二回軽やかに俺の部屋に響く。
「入るわよ」
彼女はノックをした直後、というよりかはノックをするのと同時に俺の部屋に、我が物顔で侵入してくる。
俺の返事など待ってはくれない。
有無を言わさずに入るのなら、もうノックする意味ないだろ……。
「エリック、何をしているの?」
エリックという俺の名が呼ばれる。
十五年間聞き続けた声だ。
どこか高圧的ではあるが、上等な楽器によって奏でられる音のような、静謐な声。
「ちょっと、カーテンにくるまって隠れてないで早く出てきなさい」
「いや別に隠れていたとかそういうわけではないのですよ。ただカーテンにくるまっていると暖かくて気が休まるのです」
もちろん彼女と対面することが面倒だと思ったので、反射的にカーテンに隠れたわけだが、すぐに見つかったため何の意味もなさなかった。
「ふうん」
でたらめなことを言ってごまかしたが、彼女は曖昧な返事を返すだけだった。
「おはようございます、姉上。朝早くからどうされたのですか?」
俺は姉に向かって、慇懃に頭を下げ、あいさつをした。
そうこの実の姉であるリンシア=マクローヴィスこそが、俺が最も恐れ、不安の種となっている人物なのである。
一応姉を擁護するなら、リンシアだけが全ての憂いの源となっているわけではない。
他にも俺を悩ませるものはあるのだが、まあそれでもだいたいの悩みは目の前にいるこのリンシアお姉さまである。
今日は朝早くから俺の部屋に何をしに来たのだろう。
リンシアの表情は快活そのもので、早朝のけだるさのようなものはみじんも感じさせなかった。
「別に大したものではないわ。ただ伝えに来ただけよ」
「はあ」
「前に私にお見合いの話があったでしょう。今回はきちんと行くことにするわ」
「本当ですか!?ついに結婚を考えるようになったのですか!?」
これは意外だ。
俺にまとわりついていた眠気を吹き飛ばす、衝撃的な発言だった。
正直リンシアに縁談が持ち上がっていたこと自体すっかり忘れていた。
というのも彼女は持ち前の美貌故、男性からの引く手あまたであり、これまでも度々見合いなどの誘いがあったのだが、その都度何かと理由をつけては断っているからだ。
そしてその理由というのがひどいもので、足の爪が裏返ったので歩けない、とか、雨で濡れたドレスが重すぎて前に進めない、などといった噓八百を並べるのである。
もちろん先方にこんなことを言えるはずがないので、父レントが当たり障りない理由を作って断りを入れている。
最近ではレントが『もう断りのネタが思いつかない』などと嘆く始末で、毎回うんうんと呻吟しては彼がどうにかして書簡か使いを送って丸く収めているのだ。
「私はてっきり結婚などは興味がないものかと思っていましたよ」
「まあ私も、もう十八だもの。少しぐらい考えてもおかしくはないでしょう?」
リンシアは長く伸びた金髪を指でもてあそびながら、さも当然だと言わんばかりの挑戦的な視線を俺に投げかけた。
それにしても本当にリンシアの考えることは読めない。
突飛な言動はいつものことで、やることなすことが山の天気のように移ろう。
今回も今までとは打って変わって、結婚という言葉を口にするなんて。
その顔の裏では何を企んでいるのやら……。
俺は彼女の顔をじっと見つめた。
改めて見ても惚れ惚れするような容姿はしている。
艶のある金髪は燦然とした輝きを放っている。
黄緑色の双眸は宝石のように明るく、見る者を浮ついた夢想の世界へと引きずり込む。
白皙でいて、なおかつ潤んだ唇は無窮の美と可憐さが同居している。
それでいて異性に対しても媚びるような嬌羞の色を全く見せない、貴族然とした高邁な自尊心と、それをあらわにした気品のある凛とした表情が、また美しいのだ。
というのは、社交界の貴族連中の評価だが、ずいぶんと飾りつけされた評価だ。
それに何を言っているのかもよくわからない。
だがリンシアの評判がすこぶるいいのは確かなのだ。
どこに行っても彼女は褒めちぎられ、好評が耳に入ってくる。
最近ではちぎられすぎて、『リンシアが向かった町の隣の町で見事な虹があらわれた!これこそ彼女の美しさの証左だ!』といったリンシアの原型をとどめていない誉め言葉が飛び交う始末なのだ。
そしてあげくの果てには『星々は我先にとリンシアの美しさを見るために、夜空に現れ、季節とともにその顔ぶれも変わるのだ!』という天体リンシア拝顔説なるものが唱えられた。世も末である。
まあ美人なのは実際そうなのだ、憎いくらいに……。
「あなたも招待されていたわ。三日後だから失礼のないようにちゃんと来るのよ」
「ええ、ちゃんと行きますとも」
「まあ後でお父様からも説明されると思うわ。でもちゃんと伝えておいたから、じゃあね。あ、あと朝食の用意が出来たみたいだから」
「ええ、すぐに行きますとも」
リンシアはくるりと身をひるがえし、扉も閉めずに足早に部屋を出ていく。
足音が遠ざかっていくとともに俺をとらえたわずかな緊張と不安も、次第に薄れていく。
転生しているからか、俺はどこか身内であってもその人を客観視している節があった。
美人で可愛い姉がいると知ったときは舞い上がったし、兄弟の禁断の恋なんかが芽生えはしないかと期待したが、それはすぐに全て愚にもつかない妄想であると知った。
リンシアの態度から見ても、彼女にとって俺は新しいおもちゃぐらいにしか見えていないようだった。
彼女との恋のフラグを立てようとするならば、笑顔でへし折られるであろうことが容易に想像出来た。
何なら今後出会う他の女性と俺の前に開けるであろう恋路の邪魔をし、目も当てられない修羅場のデスロードに仕立て上げてしまうかもしれない。それも向こうは遊び半分で。
リンシアが結婚する。
結婚すればこの家も出ていくことになるはずだ。
今まで彼女には何度も辛酸をなめられた。
これ以上俺の栄冠の未来を彼女の手でのさばらせてはいけない。
早く結婚してもらって、この家を出て行ってもらいたいぐらいだ。
別に姉のリンシアがいなくなっても寂しくはないのだから。