ティアードロップ
(私が文芸部時代に書いた作品の微修正版です。拙い文章ではありますが、楽しんでくださると嬉しいです)
《1》
私は上下ジャージに、登山でもするのかというくらい膨れたリュックサックを担いだ姿で、雨降りの帰り道を歩いていた。本来私が着ているはずの制服は、私の右手に吊るされた、重たいレジ袋の中にある。それはもう手遅れなくらい水に浸かっていて、とてもじゃないが着たいとは思えなかった。しかし、水浸しなのは制服だけではない。
「……ほんと、最ッ悪」
私は髪をいじる。ムワッとした熱気と、ひんやりとした感触が、余計に不快を煽ってきた。というのも私は、今更傘を差しているのがおかしなくらい濡れていた。この不快感を私に振りまいた罪を、空を覆い尽くす黒い雲に擦りつけるつもりはない。犯人の目星はついている——これをやったのは、悪質なクラスメイトだ。
——私は、いじめられている。
そう改めて思った瞬間、私を外に突き飛ばしながら罵詈雑言を浴びせる、あの忌々しい姿がフラッシュバックした。改めて言葉にするのも憚られる、幼稚で、馬鹿らしくて、それでも人を傷つけるのに十分な鋭さを持ったそれらが、私の体を内側から抉ってくるような感覚があった。
「っ……!」
思わず首を横に振ると、髪から飛沫が飛んで、雨の中に溶け込んでいった。ジャージの中で溜まった湿気は襟を通って顔の前に溜まる。その酸素を感じられない空気で息をして、私は家までの道を、相変わらず進み続ける——予定だった。
「……?」
道端に、何かが落ちていた。近づいて見てみると、側溝の網の上に、ちょうど水の行手を塞ぐようにして、ぬいぐるみが落ちていた。昔私が見ていたような、女児向けアニメに出てきそうなキャラクターのぬいぐるみだ。すでに長い距離を流れてきたのか、その毛は水を含んで重くなっている。
その時の私は不思議なことに、そのぬいぐるみを拾い上げた。今思えば、大切にされていたはずなのに、ふっと目を離した隙にあんなゴミ同然の姿になっていたあのぬいぐるみに、私が少なからずシンパシーを感じていたからなのだろう。
そうして拾い上げたそれは、思っていたよりも重かった。電池を使う仕掛けでも入っていたのだろうか、と思って、手の上で転がすようにして、その表面をくまなく観察してみる。そうしているうちに、気づいた。
(——息、してる……!?)
《2》
幸いその日、家に家族は誰一人としていなかった。もし口うるさい母親や厳格な父親にこのぬいぐるみを見せたら、一秒と経たないうちに、生ゴミと一緒のビニール袋に突っ込まれていたことであろう。
私はぬいぐるみ……のようなこの生き物を二枚重ねにしたタオルの上に置くと、重い制服をハンガーにかけてジャージを脱ぎ捨て、華のない部屋着に着替えた。
あいにく私は、どうやったらこの生き物の命を救えるかなんて落ち着いて考えられなかった。保健所を頼るなんて発想はなかったし、そもそも保健所が取り合ってくれるのかも分からなかった。だから、入念に雨水を拭き取った後は、荒い呼吸を落ち着かせることしか考えられなかった。自分のことしか頭になかったのだ。
でもその生き物は、私なんかよりずっとたくましかった。私は私にできることをまだ何もできていないのに、それがピク、と耳の先を動かしたのだ。
「——っ!」
私はその生き物が息をして、目を開けて、体を自分の力で支えて起き上がる様子を、固唾を飲んで見守っていた。そしてその生き物は、まだはっきりしない意識の中、私を見つけて——
「ひぃあああっ!? もっ、もうやめてっ……! 自由にしてッッ!」
——確かに人間の言葉を発しながら後ろに飛び退いて、そのまま床に落ちた。
「あっ!? ……だっ……大丈夫……?」
床にひっくり返って、足をぴくぴく動かすその生き物に、私は声をかけた。「うーん……」と目を回すその生き物を、またさっきのように両手で拾い上げる。その生き物がもう一度、私の顔を見た。
「なっ……なんだ……違う子か……」
その生き物はさっきまでの弱々しい呼吸が嘘のように、息を荒げていた。ちょうど、さっきまでの私のように。
《3》
しばらくして、その生き物は勝手に風呂場に上がり込み、勝手に全身を洗い、ドライヤーまで使って丁寧に毛並みを整え、見違えるような姿で私の前に再び現れた。
改めてその生き物を見てみた感想は、やっぱり女児向けアニメに出てきそうな姿をしているな、というものだった。白の毛並みに、所々「飴色」と表現するのが正しいであろう、鈍い金色の硬い器官が見え隠れしている。
「じゃあ改めて……コホン。ありがとう、名前も知らない誰かさん」
生き物は人間の少年のような声で私に言う。ぽてん、と二本足で座るように上体を起こし、ピコピコと耳を動かすその姿は、どことなく兎に似ていた。だが複数に分かれた帯状の尾を見るに、やはり彼は、私が普通に生きていて知りうる種族ではないのだろう。
「ボクはコハク。君の名前は?」
「え? ……ユウカ。飴色優香」
「ユウカちゃんって言うんだね。よろしく」
コハクと名乗った紳士的な彼は、丁寧に頭を下げた。なんだか、こんな丁寧な態度で私と話してくれる人(?)には、随分と久しぶりに会ったような気がする。
それから彼は、自分の身の上を話した。
彼は生まれつき「世界を守る使命」を与えられた存在だという。無垢な心を持った少女に力を貸し与え、人間が悪に溺れないよう矯正する。それがコハクが生まれた理由であり、それが彼の存在価値である……と。
「でもボク、気づいちゃったんだ。人間にとっての『善』と『悪』っていうのは、そんな単純な物じゃないって」
彼は以前、清廉潔白、品行方正な、とある少女の下について、力を貸していたという。だが、そんな完璧な人間は存在するはずがなかった。彼女は、コハクの力を利用してライバルとなる人間を排除し、常にクラスカーストのトップに君臨し続けるようにしていたのだ。コハクのほうからは、彼の力が使われていることを知ることはできない。だから彼は、彼女が「少女」の肩書きを失う時まで、そのことに気づけなかったのだ。
「……それでこの前そのことが分かって、それをその女の人に問い詰めたら、口封じに乱暴された……ってこと?」
コハクは私の言葉に頷いた。
(——酷い話……許せない)
私は思わず膝の上に置いていた拳を、ギリギリと握りしめた。ありったけの力をこめたが、私の握力では血の一滴も出なかった。
「……怒ってるの?」
彼は私の顔色をうかがった。私はその声に、彼の瞳を見た。騙されて、「いいこと」をしていたつもりが、自分が憎むべき「悪」に加担していた、かわいそうな正義の味方。私はその中に、醜い表情を浮かべた自分の顔を見つけた。
「あっ……ごめんなさい……私……」
私は席を立った。おかしい。こんな何もできない私が、誰かに同情するなんて。何もできないくせに。何も、何も成し遂げられないくせに。
「……キミは『優しい』んだね」
コハクが、私に言った。
——「優しい」。
その言葉が何を意味するかを、私はまだ知らない。
《4》
私はハンガーにかけてエアコンの風に当てただけの、生乾きの臭いがする制服を来て登校する。背負ったリュックは、重心がちょこちょこ動くのでとても歩きづらい。
「……なんでいきなり、『学校についていきたい』なんて言ったの?」
「だって初めて会った時から、キミが苦しそうな顔をしていたから……何か嫌なことでもあるのかなぁ……と思ってさ。『善性』を名乗るからには、どんな小さな悪でも見逃したくないんだ」
くぐもった声が、その重たい鞄の中から聞こえた。そう、この中には、コハクがいる。
私たち二人は、しばらくの間一緒に暮らした。父親や母親にバレないように、彼を軒下に匿いながら。幸いあの日以来雨は降らなかったので、問題なく彼と暮らすことができた。なぜ私の部屋に匿わなかったのかというと、私の父や母は頻繁に私の部屋に、それもノックもせずに入ってくるので、こうでもしないと簡単にバレてしまうからだ。コハクに申し訳なかったが、彼はそれでも構わないらしかった。
「ほら、あれが私の学校」
私は迫る巨大な建造物を指差した。まるで猛獣をいくつも抱える動物園のような、あるいは轟々と金属を打ち鳴らす工場のような喧騒が、着々と私の目の前まで近づいてくる。あの中に飲まれる感覚は、いくら味わっても慣れなかった。
私が教室に着くと、誰もいなかった。どうやら早く着き過ぎてしまったようだ。この隙に、私はコハクをリュックから出して、教科書類を一気に机に詰めた。
「……ほら、学校についたよ。これからどうするの?」
「えっとね……あ、それより先に。ここまで案内してくれてありがとう」
コハクはぺこり、と頭を下げた。カワイイもの好きの誰かが見れば、きっと一撃でハートを撃ち抜かれていたのだろう、なんてことを考えてみる。
「ボクは『キミの中』から、キミの学校生活を見たいなって思ってる」
「……いやだ」
「えっ!?」
私は彼の言うところの「キミの中」と言う言葉に、なんだか思考や趣向と切り離された場所で気持ち悪さを感じた。これが俗に言う「生理的に無理」というやつだろうか。
「あれ、変な言い方しちゃったかな……えっとね、『キミの中』っていうのは、こういうこと」
コハクは私の胸の高さまで飛び上がると、私の心臓のあたりを、その前足でそっと触った。
「え?ちょっと——」
——ギュン!
私が拒絶を見せる前に、彼の体は、私の「中」に——私の体感的には、体内とかではなく「心の中」に——入っていってしまった。物理的な彼の存在がどこへいったのかとか、そういうことを考える前に、彼の声が頭の中でくぐもって響いた。
(——これで、大丈夫だと思うんだ)
どういう力かはわからないが、とにかく私の理解を超えた物であることに間違いはなさそうだ。
「……それでも、なんか嫌だな」
(——どうして?)
「これって、私の考えは全部コハクに筒抜けってことでしょ? それって……なんだか見透かされてるみたい」
(——それはちょっと違うかな。ボクはあくまで、キミの心の中に『部屋』っていうか、『居場所』を借りているだけだ。そこにある考えとかはボクにはわからないよ。少なくとも、共有できているのはキミが感じたことだけ。見えたものとか聞こえたことだけだよ)
「なら……いいかな」
(——キミは、優しいね)
コハクは、少し笑ったような調子で言った。私はなんだか、その優しいという言葉は、初めて会った時のものとは違う響きを持っているような気がした。
「あ、ユウカじゃん」
そうやって考える暇を、男子の声が遮った。どことなく興奮を帯びていて、例えるならば、目の前にウサギが現れた時の狩人のような、不吉な声色。
「珍しいじゃん、お前が早くくるなんて……さっ!」
「きゃっ……」
男子は私と肩を組むようにして、私に体をぶつけた。そのまま回された手が私の肩をがっちり掴んで離さない。抵抗はしない。きっとしたらもっと酷くなる。
「おはよ〜……ってアンタ、先走らないでくれる?」
ふてぶてしい態度の女子が、その後入ってきた。彼女もまた、私をみるやいなや顔色を変えて、私によってきた。彼女の後からも、ゾロゾロと女子が入ってくる。
「ユウカは私と友達なの。だから離して。ねぇ〜ユウカ? ユウカは私の方がいいよねぇ〜?」
「えっと……私は……」
「……チッ、早く答えろよ」
——パシッ。
頬が鳴った。彼女が私を殴ったのだ。
「「きゃー! マジこわーいwww」」
「お前やるじゃん! じゃあさ、お前もっとやれよ、俺がこのまま押さえてるからさ」
男子も一緒になって、私を囲む円が、処刑台が出来上がる。私はその中心で、処刑人たる女子に顎を掴まれる。
「私たち友達だもんね〜、だから何されても許せちゃうよね〜、だからぁー……こういうのもッ!」
——どすっ。
鋭い膝蹴りが、私の腹を狙って繰り出された。もちろん拘束されている私が逃げられるはずもなく、その衝撃をまともに受ける。
「がはっ——!」
「おら、お前も笑えよ」
いつの間にか肩から首に持ち替えていた男子が、その手に力を込めた。喉が押し込まれて、嗚咽が漏れる。思わず。その首を絞める手に触れて、振り解こうとしてしまった。
「お? お前今抵抗したな? じゃあ〜……罰ゲーム〜!」
ギリギリと、握力だけで簡単に、私の呼吸が奪われていく。自分の弱さがひたすらに憎い。
これが私の日常。強い人におもちゃにされて、散々振り回されるのが、「日常」。本当はさっさと逃げ出してしまいたい。でもそれが叶ったところで、また別の脅威が……親の束縛が待っている。あれと比べれば、居場所を完全に失ってしまうのと比べれば、アザが残るくらいは……と自分に言い聞かせて、私は今まで耐えてきた。
それにしても、今日のはいつもよりも何倍も酷い。ビンタ一発と罵詈雑言で済んだはずのものが、この男子がたまたま早く来たせいで、強い苦痛を生んでいる。
(——今日も早く終わらないかな……)
外の激しさに反して、私の心はひどく冷たかった。もう慣れてしまって、痛み程度では思考を遮られなくなったのだ。たまにくる嗚咽に耐えながら、私はぼんやりと、コハクの顔を思い描いた。彼は今、私の瞳越しにこれを見て、どう思っているのだろう——と。
その時だった。
(——悪い人は、ちゃんと罰を受けないとダメだよね)
コハクの声が、頭の中で響く。それから少し経って、私の手、男子が首を掴む手に添えられていた私の手に、何か力が溜まっていくような気がした。本当に感覚だけ、そこに何の意思もない。血管か神経か、そんなものを通って、液体が指先まで迫ってくるような——
——パキッ。
その末に鳴ったのは、まるでガラスのつぶてを踏みつけたような、ほんの小さな音。だが、それを境に、男子が力を込めていた手の感触がなくなった。
急に楽になって咳き込みながら、私はその場に座り込んだ。そして、男子の顔を見上げた。
「は……!?」
男子は、信じられないものを見ている、そんな顔で、自分の手を見ていた。よく見れば、彼の手に、何かがついている。透き通ったそれは、鈍い金色をしていて、そして甘そうな……飴だった。
それに気付いたのと同じタイミングで、彼の手に、飴がついているのではないことがわかった。
「俺の……手が……っ!?」
——「置き換え」られていた。
彼の手を蝕むように、私が触っていた形通りに、その領域の手の皮が、肉が、骨が、形を全く同じくして「飴」に変わっていた。琥珀色で、半透明の飴に、だ。
「あ……アアアアアアアア!?」
男子は飴と化した領域が徐々に広がっているのに気づき、恐怖のあまり悲鳴をあげた。
これが、コハクのしてきた「勧善懲悪」の形だと、私は後で知らされた。
これが、私が初めて「使命」を果たした日のことだ。
《5》
私は薄気味悪い自室で、使わないノートに、力を込めて触れる。ノートは「パキパキッ」と音を立てて、飴に侵食されていく。
あれから、複数回「使命」を果たした。果たさざるを得ない状況に遭遇した、といった方が適切か。
あの男子の手は、飴に蝕まれ、おおよそ使い物にならなくなった。コハクは「当然の報いだよ」と言うが、少しやりすぎなのではと思ってしまう。それから、あの様子を見ていなかった不幸ないじめっ子も、二人ほど体の一部を飴に置換されることとなった。確か片方は足で、片方は脇腹だったと思う。
飴に変わった箇所は元には戻らず、下手に取り除こうとすればそこだけが「外れて」、激痛が走り、出血が止まらなくなる。当然と言えば当然なのだが、コハクの容姿からもっとファンシーなものを想像していた過去の自分を嘲笑いたくなるほど、その様子は生々しく、笑えない。本当は「ザマーミロ」と冷たく言い放ってしまいたかったが、それすらも体が拒むほど、えげつないやり方だった。
コハクの談によればこの飴は、私がその人を「万人の悪である」と思えば思うほど、早くその人を蝕んで、最終的には飴細工の人形に変えてしまうという。こうした非生物や、善悪の判断もつかないような知性を持たない動物はその限りではないようだが。
こうして私が家に籠るのは、下手に外を出歩くといじめっ子に見つかって酷い仕打ちを受けるから、そして両親に「勉強している」と思わせることが目的だった。でも今は、この人を蝕む「甘美」を備えた手が、誰を犠牲にするか分からないから、引きこもっている。
人は知らず知らずのうちに他人を恨み、憎み、そして同時に自分を正当化して、その他人を「万人の悪」と定義する。私たちの矛先が誰に向くのかなんて、想像しても絞り切れないだろう。
コハクは私の机の上で、飴に変化したノートの端を、パリパリと齧っていた。
「……どうしたの?」
見られていることに気づいた彼は、私と目を合わせた。その飴玉を嵌め込んだような、鈍い金の瞳からの視線は、ちょっと怖いけれど愛らしい。
私はコハクと離れたいとは思わなかった。なんてったって、彼は私を「優しい」と言ってくれた初めてのヒトなのだ。周りに敵しかいない中で、唯一の味方。どれだけやり方が残酷であろうと、私は彼を頼る。
彼に力を貸して、私がいじめっ子の相手をし続ければ、いつか私が苦しまなくて済む世界が、現実のものになるかもしれない。
「ううん、なんでもない——」
彼に誤魔化しの芝居を打とうとした、その時。
——ガチャ。
「ねえユウカ、ちゃんとやってるの?」
母が私の部屋の扉を開けた。
「っ……!?」「ユウカちゃん何っ——」
危機を感じた私は、咄嗟にTシャツの中にコハクを庇った。口も塞いで、彼の身動きの一切を封じた。
「うっ……いたたたた……」
「ユウカ、まさかお腹痛いなんて言わないでしょうね、体調管理も学生の義務なのよ? ……全く」
母は私の部屋を、少し強く床を踏み締めながら去っていった。その姿が見えなくなった瞬間に私はドアをバタン、と閉める。そしてさっきまで息を止めていたコハクに頭を下げた。
「……ごめん、突然乱暴な真似して」
「ううん、気にしないで。あれは仕方がないことだよ」
コハクは笑った。愛らしい笑顔。私がもっと見ていたい笑顔だった。
「……自分の子どもにあの態度か……『良くない』ね」
《6》
私は学校に着いた。今日はコハクを家に——正確に言えば家の下の、絶対に両親の目につかない場所に——コハクを置いてきた。この学校に、すでに罰を与えるべき悪は存在していない、と言うのがコハクの意見らしい。
確かに、ここ数日は変な絡まれ方をすることは一度もなかった。と言うよりも、私をいじめていた主犯格の連中の姿が見られなかった。きっとあの酷い様を見て、私と同じ空間にいるのが恐怖になったのだろう——自分が今まで虐げてきた人間に、復讐されるのが怖くて怖くて仕方なくて。
ここで愉悦を抱くような私でなくて、本当に良かった。とにかく、これから私はようやくスタートラインに立てる。虐められていたマイナスのラインから、ようやくゼロに立ち直すことができるのだ。
そう意気込んで教室に入った途端。
「——ユウカちゃん!」
誰かが、私の名前を呼び止めた。声の方を見てみれば、地味な女子が数人、寄せ集まって私の方を見ていた。私からすれば「あんな子いたっけ……?」という程度の関わりの子達なのだろうが、彼女たちが私に向ける視線は、どうしたものか、キラキラと輝いていた。
「ごめんね、突然話しかけて……噂で聞いたんだけどさ……今学校に来てない子たちって、ユウカちゃんが何かしたから来てないの?」
「え?」
私は耳を疑った。彼女たちは、その口調こそ丁寧で柔らかいものの、放った言葉にはビッシリと短い棘が敷き詰められている。コミュニケーション能力の低さがこの無遠慮を生み出しているのだろうか……まあそれを言えば、私も彼女たちと同類ということになるのだが……。
「……まあ、そういうことでいいんじゃないの」
などと、私は濁した返答をした。すると、彼女たちは何やらモジモジとし始める。何か言いたげというか、伝えたげというか。しばらく待っていると、彼女たちの一人が、前に出た。
「その……えっと……ありがとう」
「……?」
私は耳を疑った。この話の流れでなぜ、感謝の言葉が出てくるのだろうか。私はある意味において「反逆者」で、彼女たちは私のしたことに、何かしらの呪やら怨やらを抱かれているのだとばかり思っていたのだが……寿やらや恩やらが、彼女たちから私に向けられているということか?
「実は……私たちもあの子たちに虐められてたの。でも誰にも言い出せなくて……でも、この前ユウカちゃんが一矢報いてくれて……私たちも勇気を出せたんだ」
話を聞けば、彼女たちは私がコハクの力を使った後、自分と同じ境遇を持つ人を——いじめっ子のレッテルを貼られた人たちを——集めて一丸となって、この学校からいじめを無くすために旗をあげることを誓ったらしい。
「……だから、ユウカちゃんにも私たちに力を貸してほしいの。ユウカちゃん、確か一番酷いいじめられ方してたよね……だから、お願い」
——ユウカちゃんが協力してくれれば、私たちは勝てると思うから。
そんな言葉は、私の心をすぅと通り過ぎていって、次の瞬間、ずしりと私の中に留まり始めた。
「……ちょっとだけ、考える時間をくれる?」
《7》
「……ただいま」
事実の報告でしかないその言葉と共に、私は家に足を踏み入れた。肺を内側から圧迫してやまない空気は、いつにも増して苦しく感じる。リュックを乱雑に下ろし、手を洗おうとした。
——ドタドタドタ!
この家には似合わない騒音が迫ってきた。音の主の正体は、程なくして分かった。
「ハァ……ハァ…………ユウカ」
「……何、お母さん」
私は柄にもなく、自分の母親を睨んだ。それは確かに自身の母親だったが、その体にまとうエゴイズムのオーラが、彼女を「怪物」以外の何者でもなくしてしまっている。
「あなた……あのぬいぐるみは何?」
私はその言葉を聞いた途端、突然真冬の真夜中に外へ放り出されたような、全身を余すことなく包み込む寒さを感じた。
次の瞬間、私の足は独りでに動き出した。全力で駆け出して、母を突き飛ばして、リビングに飛び込んだ。
「コハク……コハクッ!?」
コハクの姿はどこにもない。ましてや、とっくに帰宅しているはずの父の姿も。私は家中を駆けずり回って、彼の姿を探した。
「どこにいるの……コハク……ッ!」
「ユウカ!」
母が怒鳴った。それでも私は探すのをやめない。自分の部屋から両親の部屋、浴槽に至るまで探した。
「あのぬいぐるみは父さんがわざわざ遠くまで捨てに行ったの。あとで『ありがとう』って伝えなさいよね」
「……は?」
私はその言葉をきっかけに、人間味を失い始めた。
「コハクの存在価値も分からないくせして……何その上からの態度。人の血が通ってないの?」
「何言ってるのユウカ、あなたは今から勉強して、いい大学に行って、幸せになるんでしょ?」
「なんであなたたちはそんな窮屈な幸せしか見えてないの? ……ていうか、どうしてわざわざ未来になるまで幸せを待たないといけないの? 今幸せになっちゃいけないの?!」
私はそこからもう、私ですらなかった。私という肉体を使って、誰かが話している。私という器を使って、何者かが母に怒鳴っている。そんな感覚だ。
「私にだってね、幸せになりたい欲求くらいもちろんあるよ。でも、そのための努力ができなかったんだよ……あんたらクズのせいで……あんたらみたいな……自分たちの尺度でしか、自分たちの価値の中でしか行動できない、頭の硬い連中のせいでッッ——!」
私は思わず壁を殴りつけた。「パキッ」という音が鳴った。母が顔を青くした。それは反抗する娘に対する驚きではなく、もっと本能的な、異常な状態を見たことによる「恐怖」がそこに感じられた。
そのタイミングで、ドアが開いた。
「——ユウカ……?!」
父だった。私はその姿を見るや否や、その胸ぐらに掴み掛かった。
「お前……コハクをどこへやった?! 私の友達をどこにやった?!」
「なっ……何をしているんだ! あの縫いぐるみが『友達』? 馬鹿げたことを言うんじゃない、正気に戻れ!」
「馬鹿げてるのはお前らの方だ! いつもいつも私になんて気に留めないで! 私の成績とか格好とか、そういう『付属品』ばっかり見やがって……!」
襟を掴む手に血管が浮き出た。ギリギリと、バキリと、痛ましい音が響く。
「あなた!」
「悪はお前らだ……! 今すぐ私の前から失せろッ!」
襟を掴む私の手に、何か熱いものが流れ込んでいく感覚がした。手だけではない。体の奥底、中心部。そこからドロドロとした液体が、全身に張り巡らされた管を通って、体の先端へと向かっていく。そしてそれが耐えきれなくなって、私の体から弾け飛んで——
——パキッ。
《8》
それは、あまりにも軽い音だったと言えよう。
私が今いるのは、二体の飴細工の像の間だ。一体は首を押さえるような形で、もう一体は口元を隠して絶句するようなポーズで、そこに動かず佇んでいる。
私が立っているのは、飴の床の上だ。私の立つ場所を中心にして、水面に石を投げ入れた時の波紋みたいに、飴の領域が広がっている。
(——あーあ……やっちゃった)
人間追い詰められると、もう何もできなくなってしまうのだなと、強く、強く感じた。
指の一本ですら私のものではない。私の中にあった、「悪」を、否、「敵」を深く憎む心が、そして、相手がどれだけの「悪」であろうと、私がしたことがとんでもないことだということへの自覚が、私の体の自由を奪っていた。
かろうじて一歩を踏み出そうとすると、靴下が飴に引っ付いて、足を取られた。私は無様に転ぶ。
(——お父さんとお母さんのこと、やっちゃった)
私は背後の飴細工を見上げた。その指、脚、瞳、髪の毛の一本に至るまで、全てが飴でできている。
私が変えたのだ。たった二人だけの肉親を、辛辣な態度の両親を。ただ甘ったるいだけの、飴の塊に。
「……」
言葉は出ない。もう地獄に行っていて、閻魔様に舌を引き抜かれたわけではないようなのだが、何せ身体中の感覚が薄れているので、体感的にはすでに死んでいるようだった。
(——私、もう終わりなのかな……)
そうやって思考できるようになって、ようやく自分が何をしようとしていたのか思い出した。
「そうだ……コハク……コハクを助けなきゃ……」
私を認めてくれる友人を救うべく、私は震える足を無理に動かして、家を飛び出した。
外はいつの間にか雨降りで、アスファルトの上の水の流れに、明滅する街頭のぬるりとした光が反射していた。
《9》
私はなんの当てもなく飛び出したわけだが、彼がいる場所になんの目安もないわけではなかった。
私の家から歩いてもそう時間のかからない距離に、大きな集合住宅がある。そのゴミ捨て場なら、不自然さなく物を捨てられるだろう。
そこに到着して、私が目にしたのは、最初に会った日と変わらない姿に成り果てた、友人の姿だった。
「コハク!」
私は燃えるゴミの入った袋の上に、彼が横たわっているのを見つけるや否や、彼を拾い上げた。
「コハク! ねぇしっかりして、コハク!」
彼を抱き抱える手を乱暴に揺すって、私は彼に呼びかけ続ける。そうしていると、彼の耳が揺れた。
「……ユウカ……ちゃん?」
「コハク! ……死んじゃったかと思ったじゃん」
「いや……ユウカちゃんの言うことは正しいよ……ボクは……もう長くない」
「え? ……嘘だよね?」
「……ううん……本当だよ……ユウカちゃんは、本当に『優しい』よ……」
コハクは、力無くその前足を私に見せてきた。私はそれを見て絶句した……彼の前足は、それはそれは綺麗な琥珀色に染まりつつあったのだ。
「ユウカちゃんに貸してた力……さっき使ったよね……その時……ユウカちゃんの『優しさ』が強すぎて……ボクの方まで逆流してきちゃったんだ……」
「何それ……それじゃまるで……まるで私が、コハクにとどめを刺したみたいじゃん……」
「そうとも言えるかもね……でも……ボク嬉しいんだ……ユウカちゃんみたいに……『他人のために怒れる』ような子、ボクは見たことなかったから……」
「私は……そんな立派じゃない……最初に手をつけたいじめっ子だって、私を苦しめるようなことをしてたから……」
「でもそのおかげで……あの女の子たちは……いじめから解放されたんだよ……ユウカちゃんがされて苦しいことは……ユウカちゃん以外も苦しいんだ……ユウカちゃんは……誰にも寄り添える……『普通』の子なんだ……優しくて……普通の子……ボクが…………ボクたちが探していたのは……ユウカちゃんみたいな子なんだ……」
コハクが言葉を一言ずつ紡いでいく度、彼の体は飴に蝕まれていく。すでに彼の体は、三分の一が飴色に染まりつつあった。
「もうボクも長くない……さいごに……お願いがあるんだ……ボクの全部が飴になったら……ユウカちゃんに食べてもらいたいんだ……そうすればボクの……ボクの力は全部……ユウカちゃんに……だから……」
「……無理だよ……私がコハクを……そんなの……そんなの無理に決まってるじゃんッッ……!」
「でも……ユウカちゃんには……これからも……悪い人を懲らしめ続けて欲しいんだ……ユウカちゃんは……優しいから……」
彼の体は、もう首から上以外、彼の体ではなくなっていた。もう一分も持たないだろう。
「……ユウカちゃん……短い間だったけど……ありがとう……ボクは……ちゃんと責務を果たせたかな……?」
「そんなこと言うのはやめてッ……本当にお別れみたいじゃん……まだ『私たち』で助けないといけない人はたくさんいるの……それに……」
——パキッ。
「まだ……私が救われてなかったのに……」
私は、手の中で絶えた、大きな飴細工を見る。泥まみれで、ぐしょぐしょで、儚い表情を浮かべた、その飴細工を見た。
「……こんなのおかしい……おかしいに決まってる……どうして……どうして私だけッッッ——!」
私はその怒りに任せて、飴細工に齧り付いた。
《10》
あれからどれだけ日が経っただろうか。
「おはよう」
私はいつものように、誰に向けてでもなく挨拶をして教室に入った。
「あ、ユウカちゃんおはよー!」
私が席に着くやいなや、その周りに、かつていじめの被害に遭っていた子達が寄ってくる。
この教室から、いじめらしいいじめは綺麗さっぱり無くなった。私たち被害者が一丸となって立ち上がり、いじめっ子たちを炙り出すことに成功したからだ。
「調子はどう?」
「それなんだけどさぁ、聞いてよ〜……さっき隣のクラスのアイツに絡まれて……まじ最悪だった……」
「その『アイツ』って増岡くんのこと?」
「そうそう増岡くん! 名前思い出せなかったの!」
「私もこの前絡まれたの……なんか本当にモラルのない男子って感じで……」
「朝から災難だったねぇ」
彼女たちと私は、そんなたわいもない話をする。
そして何事もなく授業が始まり、何事もなく今日の学校が終わる。
私はそのまま家に帰らずに、隣のクラスに顔を覗かせた。
「増岡くん、いる?」
「あー、増岡ならさっき部活行ったけど」
「増岡くんって何部だっけ?」
「バスケ部だよ」
「わかった。追いかけてみるね、ありがとう!」
私はすぐに廊下を走って、バスケ部の活動場所である体育館へと向かった。あの子たちの言うところの増岡の姿は、体育館へとつながる廊下にあった。私は彼の背中に駆け寄ると、彼の首筋に触れた。
——パキッ。
「……ッッ!?」
増岡は首の異変に気づくと即座に振り向こうとしたがそれは叶わない。そのまま私は流れるようにして彼の足首に触れた。
「——あっ!?」
彼は私から逃げる術を失う。そのまま私は「増岡くん大丈夫? どこか痛むの?」などとボソボソ呟きながら、体育館の裏、誰にも見えないところに彼を連れ込んだ。
「——お前いきなりなんなんだよ!?」
「あなたのせいで迷惑してる子の代わりに、あなたに言い訳を聞きにきたの。今朝、三組の女子になんて行ったか覚えてる?」
私は慣れた手つきで、彼の肩に触れた。
「——『お前今日もブスだな』って」
「……」
「まっ、待てって! あれは軽い冗談のつもりで、別にあいつに対して悪意があったとかそう言うことじゃなくて——!」
「そう。そうやって言い訳したところで、あなたのしたことは許されるの? そうあの子に言って許されると思ってるの?」
「許す許されるとかなんなんだよ?! 俺はただ女子を揶揄うのが好きなだけなんだってば!」
「……もう、その性分は治らないみたいだね」
——パキッ。
私の前には、一体の飴細工があった。私は背負ったバッグから金槌を取り出して、その飴細工を殴りつけた。何度も、執拗に、粉々になるまで。
「お前ッ、みたいなッ、性根のッ、腐ったッ、ヤツがッ、いるせいでッ! 私はッ……私たちはッ!」
私は原型が無くなったのを確認すると、金槌をリュックにしまって、体育館裏から立ち去る。
その足で家に帰ろうと門に向かって歩いていると、昇降口にいる女の子たちと目が合った。彼女たちは私を見つけると、私の元まで走ってくる。
「ユウカちゃん! これから私たちカラオケ行くんだけど、一緒に行かない?」
「いいじゃんそれ! 私も付き合わせて!」
彼女たちに混ざって、私は笑う。私たちは笑う。私たちが笑える日常、これほどまでに素敵な日々は存在しないだろう。
どうせ家に帰っても、不気味な溶けかけの飴細工しか待ってない。食事はそれを多少齧れば済むし、お金は両親が働きすぎなくらい働いていたおかげで、まだまだ余裕がある。ここで私が誰かと笑えるなら、そのために誰かと戦えるなら、それがいい。
「そういえばさっき、ユウカちゃん増岡くんのこと呼びに行ってたよね、あれなんだったの?」
「あ、見られちゃってた? 朝増岡のこと気にしてるって言ってたから、ちょっと注意しとこうと思って」
「でたー、おせっかい焼きのユウカちゃん!」
「そんな言い方しないでよー」
「でもありがとう、そうしてくれたなら、ちょっと気分楽になったかも。ユウカは本当に『優しい』よね!」
この日常だけは、この関係だけは、何がどうなろうと守らなければいけない。私が彼女たちの正義にならないといけないのだ。
(——コハク、見てる?)
私は胸に手を当てて、私の中に融けてしまった友人を思った。
(——私、『優しい』私のままでいられてるかな?)