次兄との別れ
「よくぞ戻られました、ギリアム様」
家令のマクライン、つまりデレクの父である老臣が、ギリアムを迎えて一礼した。
ギリアムの父ダドリーに仕えて共に馬上にあり、長年の間国境警備に務めてきた将であり、父の統治に無くてはならぬ謀臣でもある。
民間人の寄せ集めに過ぎない一介の開拓団から、三代にわたる研鑽と陶冶を経てついに世に出てきた英傑の一人。
ギリアムにとってはこの人物こそ彼が何よりも手本とするところであり、同時に――今この状況で、キルディスの患を取り除くためにはどうあっても、味方につけなければならない相手だ。
さもなくば、排除するしかないが――そればかりは避けたい。つまり、ギリアムは彼を説得、或いは心服させて味方につける必要があった。
(俺にできるか……?)
自信はないが、ギリアムには進むしか道がない。
「もっと早く帰れれば良かったが……少なくとも今、俺がここにいられたのは不幸中の何とやらだ。爺には苦労を掛けたな」
「いえ。聞けば城門の混乱を鎮められたとか……お見事にございました」
「世辞はいい。居合わせた以上、やるべきことをやったまでだ……この城ではキルディス相手に籠城はできん」
「はい、領民に税と賦役を増やしてでも、防備を固めておくべきでしたが」
二人の口からほぼ同時に、ひそやかなため息が漏れた。それをやれば、今度はザリアの経済が回らなくなるのだ。
「お前が指揮を取っていると、キリーから伝え聞いた……なぜだ? デクスター兄はどうした?」
ギリアムにとって、それが最大の疑問と懸念、そしてマクラインに対する疑心の源だった。
次兄デクスターはやや夢想家で、文武で言えば文に傾いた男だが無能ではない。父と長兄が斃れたとあれば、マクラインと諮って陣頭に立ち、次善の策を講じ領民を組織する――そのくらいは何とかこなせる男のはずだ。
「それが……お館様とハーマン様の訃報に接して、急な病を発されました……」
「何だと!!」
全く想定していなかった事態に、愕然とさせられた。
兄は無能ではない、そう信じていたし事実そうなのだが――心身の撓まぬ勁さに関しては見誤っていたのかも知れない。
「どのくらい悪いのだ? 会えるか?」
「短時間であれば、お話くらいは何とか……しかし吐血と胸痛が激しく、お命はもはや長くありますまい。医師の見立てでは、心の臓を養う血の管が途切れ、胃の腑にも穴が開いておるとか……」
「何ということだ……!」
ニステルで読み齧った医書には確かにそんな症例もあった。身に余る重責を背負い込んだ人間にはままあること、普段の不摂生でもあればその病状は著しく悪化すると。
安静が必要です、と制止する医師たちを振りきって、ギリアムは次兄デクスターの病室に踏み込んだ。兄の顔色は青いというより、もはやどす黒かった。
「兄上……ギリアムです、ただいま戻りました!」
「ああ、君か……良かった、戻ってくれたか」
「なぜ、なぜこんなことに……後生です、この難局に、俺一人を置いて行かないでください」
「まだ死ぬ気はないんだが……まあ駄目かも知れないな。いや参った……親父と兄貴の凶報を聞かされたとたん、この辺りがぎゅうっと苦しくなってね……君もまだどのあたりまで戻ったものか分からないし、当面一人だと思うと」
俺のせいだ、とギリアムは内心で歯噛みした。ラドヴァでの直近の三か月は、学問の方はあらかた単位も取り終わり、もっぱら迷宮での鍛錬と武具の収集に終始していたのだが――もっと早く切り上げて帰るべきだったのだ!
「もう大丈夫、俺がいます。キルディスのやつらは俺が追い払いますし、父上とハーマン兄上の仇も……どうか治療に専念し体を治して」
「ギリアム。君に最後の頼みがある」
デクスターはゲホッと一つ咳き込むと、ギリアムを見上げてふっくらした指を彼の方へ探るように伸ばした。
「そんな、遺言のようなことを……やめてください」
「……私が編纂した農学の手稿、『ザリア平原の土壌と灌漑について』と『辺境の野生種とその馴化』を、完成させてくれ。ラドヴァで学んだ君なら、私よりうまくやれるだろう。優れた学友もいたことだろうし、頼れる者があれば迷うことなく……あの研究が成れば、ザリアは、豊か……に」
それが別れとなった。声が途切れたのは、喉からせり上がった血のためだ。デクスターは直後に洗面器一杯の血を吐き昏睡に陥った。
デクスターはその未明に息を引き取った――最後に一言「ギリアム、酒はほどほどに。私のようには……」と言い残して。
ギリアムに嘆き悲しむ暇などなかった。その日は自分に鞭打って、塞外への派遣部隊の編成に心を砕いた。
キルディス族は敵の遺体に触れることを忌み嫌う。モンスターのように貪り食うこともしないが、その場で葬るような殊勝さも持ち合わせてはいない――回収に行かねば、父と兄、そして討ち死にした兵士たちの遺体は、そのまま野辺の土か或いは獣の糧となるだけなのだ。