悪魔との邂逅
(すごい魔法だ。馬車で数日を要するクロルダからここまでの距離を飛び越えて、鳩の目を借りて俺の周囲を見通したのか?)
ラドヴァのギルドに集う魔術師たちでさえ、そんな技は示唆したことがなかった。とはいえ秘匿が習いとなっている者たちのこと、どこまでの底があるかはむろん分からないのだが。
「ギリアム様、今のは?」
斜面の下方にいた騎兵の一人が、畏怖に打たれた表情でギリアムを仰ぎ見た。
「……うん。頭の中で声が聞こえた、この丘に登って斜面に伏せろと――俺たちはどうやら敵の本隊と鉢合わせするところを免れたらしい」
「何と……神のご加護でしょうか!? 天使を遣わされた、とか?」
騎兵は信心深い男らしい。そういえば、出発前にも何やら聖印を手にして祈りをささげていた。だがその言葉を聞いてギリアムの脳裏に浮かんだのは、翼を備えた輝くものではなく、黒髪を背に垂らし暗青の瞳をした少女だった。
「天使か……そうだな、そうかも知れん。俺たちには神と天使のご加護があるようだ」
おお、と騎兵たちがどよめいた。
――ギリアム様、万歳!
小さな声で唱和する部下たちに、ギリアムは苦笑いで応えた。
「今回は助けてもらえたが、奢ってはならんぞ。天の佑けは、自ら努めぬ者からはすぐ取り上げられるものだ」
――ははっ!
熱狂を静めた騎兵たちが、静かに整然と馬を立たせる。
「いったん砦まで引こう。待機の十人と交代して休んでおけ。馬にも秣と水をふんだんにな」
「はい。しかしギリアム様は?」
「ああ。もちろん《《俺も戻る》》」
微妙にずれた答えに、騎兵の顔にかすかな戸惑いの色が浮かぶ。だがギリアムはそのまま馬にひと鞭くれて走り出した。
* * * * *
「ボジル。これはどうにもまずい。戦士の数が減りすぎている」
ガリンが傍らに馬を寄せてきて囁いた。ボジルにも、現状がよくないものであることは理解できた。
(これはどうしたことか。罠に戻ればその間に、野営地が襲われている。敵の騎馬隊には誰も追いつけず、荷馬車にかかっても矢は通らず、こちらの戦士はあの棒付きの投石紐と短い矢でつぶされる……)
野営地と罠の間をすでに二回往復した。手勢を増やして草原に散らせば、敵の騎馬隊は捕捉できるかもしれない。だがそのためには、方々に散らばっているメカンバの一族に大招集をかける必要がある。そして、荷馬車の「城壁」への対策はまだ見いだせていない。
この日ボジルたちの挙げた戦果は例の大盾を構えた投石手、わずかに三名ばかりを槍で貫いたにとどまっていた。それすらも、すぐに周りの兵や荷馬車から新たに降りた兵が加わって穴を埋めている。
どうも腑に落ちない。奴らが空に浮かべるあの妙な「旗」に何か秘密があるのだろうか? ボジルにはさっぱり理解できなかったが、そろそろ決断するしかない――
「ボジル。少なくとも俺たちはザリアの領主とその息子を討った……戦果としては充分だ。天秤が損に傾く前に、切り上げようじゃないか」
「……そうだな」
言いにくそうに進言するガリンに、ボジルは何とか鷹揚さを示してうなずくことができた。
「仕方がない、死体は奴らに返してやろう。お前たちは先に、野営地へ戻れ。俺は最後に奴らの、今の『頭』を一目見てくる」
「一人で敵の前に? 莫迦な、危険すぎる」
ガリンが顔色を変えて引き止める。だが、ボジルにも彼なりの意地と覚悟があった。
「心配するな。顔を見るだけだ……この戦い、前の領主とはあまりにやり口が違い過ぎる。どんな奴か、確かめずにはおれん」
「……分かった。無茶はするなよ」
「とはいえ、やはり見るだけでは物足りんなぁ。弓を貸してくれ、ガリン。試しに射かけてみる。それで死ぬようなら万々歳だ」
「無茶はするなというのに」
ガリンはため息とともに、それでも鞍につけた自分の強弓を外して、ボジルに手渡した。二人の戦士はそこで別れて、それぞれの方向へ馬を走らせた。
「よくやってくれたな、デレク。ご苦労だった」
「ギリアム様もご無事で……残念ながら、こちらも死傷者なしというわけにはいきませんでしたが」
馬と馬車からそれぞれ降りて、主従はほぼ二日ぶりに顔を合わせた。互いの肩を抱き、親愛の念を込めて掌を打ち合わせる。
彼らは隘路の手前で合流を果たし、ようやく本来の目的である遺体の回収にかかろうとしていた。
「戦であれば、死者が出るのは止むを得ん。だがせめて、遺族への手当ては厚く行おう――敵は確かに退いたのだな?」
「はい。最後に見てからこれで半日、彼らの蹄音さえ聞いておりません」
「まだ油断はできないが……冷涼な地とはいえ、冬にはまだ遠い。そろそろ収容せねば馬車に積むのも一苦労となるだろう。しっかり見張りを立てて、作業にかかるぞ」
見ずには済まないができれば見たくない、肉親と同胞の姿を予期しながら、荷馬車隊は騎兵に守られて殊更にゆっくりと進んだ。
そうして隘路の入り口に差し掛かった時。ずっと上空を舞っていた「鳩」が鋭い鳴き声を上げて彼らの上を飛び過ぎた。
その動きを何人かが、目で追って。
――気をつけろ! 土手の上にいるぞ!
誰からともなく、警告の声が上がった。
北西へ向かって伸びた隘路の概ね南側。太陽を背にして立つ、騎馬の人影がギリアムたちを見下ろしている。
「防備を固めろ、騎兵は側面へ!」
いまにも土手の上に、弓を構えて現れる無数のキルディス騎兵――誰もが想像したそんな光景は、しかしいつまで待っても現れることはなかった。
不意にその人影が弓をつがえて構え、不吉な弦音と共に一矢を解き放つ。狙うは、馬上のギリアム。鋭い鉄鏃に貫かれるかと見えたその瞬間。
彼の左腕が差し上げられ、そこに鏡のように磨かれた白銀の円盾が現れていた。
――カキン
聞き慣れない金属音と共に、キルディスの戦矢は弾かれてギリアムの足元に落ちた。
――キルディス族めが!
周囲の兵士たちの間に、怒気が渦巻く。
――よくもダドリー様を、ハーマン様を。あまつさえギリアム様まで手に掛けようと……!
その気を受けて、馬上の人影は顔をしかめ、馬首を返して一散に駆けだした。騎兵たちがそれを追おうと動き出す――
「待て、追うな! 追ってはならん――敵の本隊の前に身をさらすことになるぞ!」
ギリアムの警告は、辛うじて逸る兵たちを引き止めた。
「奴らはまたいずれ来る。その時は存分に打ち懲らしてやれ。今は死者を連れ帰るのが仕事だ」
いつしか、土手の上には先ほどの騎馬武者が戻ってきていた。
――面白いやつだな。名を名のれ、次に会う時まで覚えて置いてやろう。
男の声は低くかったが、広大な平原をもはるかに越えて届こうかという、張りと響きがあった。ギリアムも負けじと声を励まして応える。
「ザリア辺境伯ダドリー・ラッセルトンが三男、ギリアムだ。そちらも名のるがいい!」
――我が名はボジル。メカンバの長、“凶風の”ボジルだ。
応えたと同時に再び馬が走りだす。名のりあった二者は瞬く間に、お互いから遠くへと引き離されていった。




