少女について辺境伯曰く
初めての対面で俯いたままの令嬢を見て、やはり俺を怖がっているのだなと申し訳なく思った。
19歳で両親を亡くし辺境伯を継いだ俺は5年が経った今でも独り身であった。この地が王都から遠く不便で、冬は寒さが厳しく住みにくい地であることも一つの理由である。けれど、一番の原因は俺自身だろう。
2m近い身長とこの地を守るために鍛え上げた肉体は熊のように大きい。目つきが相当に悪く、目が合うだけで大抵の令嬢は涙を滲ませる。笑顔も苦手で話下手、何もしていなくても怒っていると勘違いされて怯えさせてしまう。
辺境伯という地位で申し込まれた縁談は片っ端から立ち消えていった。
もう結婚は諦め、親戚筋から養子をとって跡取りにしようと思っていた所に舞い込んできたのが、クレーン・フロスト伯爵令嬢との縁談である。
これだけ様々な令嬢から拒絶された自分に申し込んでくるなんて裏があるのかと訝しんだ。まさか、こんな俺の元に愛娘を送り込んでくるとは到底思えない。調べてみれば、案の定クレーン嬢には瑕があった。妹を虐めて婚約者に婚約破棄されたらしい。そんな理由であればまともな結婚は難しいだろう。俺が断ればどこぞの好色親父の後妻などにされるかもしれない。
あまりにも憐れだと思った。人の噂は信用ならない。俺自身も王都では好き勝手に話されていることも知っている。クレーン嬢が妹を虐めたという話がどこまで本当か分かった物ではない。だが、真実かどうかよりも、そういう令嬢なのだという周囲の印象が何よりも大事なのが貴族社会というものだ。
それなら、俺は結婚相手としてマシじゃないかと思った。この地は王都から遠く噂に振り回される必要はない。元から養子をとるつもりだったから、白い結婚であればクレーン嬢も安心だろう。
「こんな遠い地まで大変だったろう」
「……いいえ」
鈴を転がすような可憐な声だが、か細くて今にも消えてしまいそうなほど頼りない。俯いたままのクレーン嬢のつむじを見つめる。銀色に輝く髪はシンプルな紺色のドレスによく映えていた。しかし、その華奢な肩が小さく震えている。きっと俺に怯えているのだろう。
「そんなに怯えなくていい、と言われても難しいか。だが、俺は貴女に指一本触れるつもりはない」
「えっ……?」
驚いたように顔を上げたクレーン嬢の瞳の色に目を奪われた。淡い緑色の瞳は光の加減できらきらと色味を変える、こんな美しい色の瞳を見たのは初めてだった。何も言わずにじっと俺が見つめていたせいで、また怯えたようにクレーン嬢は目を伏せた。そこで見惚れている場合じゃないと意識が戻ってくる。
「んん、すまない。この結婚において、貴女は女主人だとか、跡取りを産むだとか、そういうことは気にしなくていい」
「気にしなくていい、とは……」
「この婚姻は辺境伯である俺がいつまでも独り身であることは世間体が悪いからと組まれたものだ。貴女はここに嫁いできただけで義務を果たしている。屋敷を切り盛りする必要も、好かぬ男に身体を明け渡す必要もない。貴女は貴女が好きなように過ごしてくれればいい」
「好きなように、ですか」
困惑したように呟くクレーン嬢は心細そうだ。お付きの侍女の一人もおらず、ほとんど着の身着のままと言った様子でこの地に来たので、実際心細いに違いない。いきなり好きなようにと言われても、はいそうですかなんて言えないだろう。
「今日のところはもう休むといい、疲れているだろう。貴女に侍女を付ける、何か不自由があればひとまず彼女らに申し付けてくれ」
「……はい、旦那様。お心遣い、感謝いたします」
「あ、ああ」
旦那様、と呼ばれて心臓が跳ねる。婚姻を結んだのだから何もおかしなことはないが、その響きに胸が甘く疼いた。
クレーン嬢が侍女の案内で部屋を出ていった後、横に控えていた執事が愉快そうに小さく笑い声を漏らした。
「坊ちゃんは面食いでいらっしゃる」
「坊ちゃんはよせ。……確かに可憐な令嬢だが、一目見ただけで、まさか何か思うわけがないだろう」
「ふふふ、申し訳ございません。しかし、辺境伯として頼りがいも出てまいりましたが、恋に関してはてんで駄目ですねぇ。そんな“まさか”が起こるのが恋というものなのですよ」
父の代から仕えてくれている信頼できる男だが、俺のことを未だに手のかかる坊やと思っているところだけは改めてほしい。深い皺の刻まれた瞳を細めて、昔から変わらぬ温かい目線を俺に向けている。
「戦場では勇敢でいらっしゃるのに、人間関係には酷く臆病なのは変わりませんね。そんなに怯えなくともファルコン様の優しさを分かってくれる人はいますよ。貴方が誰かを愛し、そして愛されることが、先の短い老いぼれの唯一の願いです」
「先の短いなんて、滅多なことを言うな。愛し愛される妻がいなくても、俺がお前をはじめとした領民たちから愛されていることは分かっている。人生に悲観などしていないから心配するな」
やれやれ、そういうことではないのですが、と首を振る執事を無視して書類仕事に戻る。
辺境の僻地に住まう領民たちは図太く、王都の令嬢たちから怯えられる俺の姿にも動じることはない。まあ、似たような体格の騎士がわんさかいるのだからそれもそうだろうが。ともかく、大らかでざっくばらんとした人柄の人物が多い。王都の人々に比べると粗野でクレーン嬢は驚くかもしれないが、心を癒すには良い環境だと思うのだ。
クレーン嬢が何かに怯えることなく、のびのびと過ごすことができればいい。正真正銘の夫婦になれずとも、お互いに心を許し話せる存在になれたならそれで充分だろう。そうして、あの美しい瞳を真っ直ぐに見つめることができたならば、それは俺にとっても幸福な話だと思った。
それから、クレーン嬢とは朝と夜の食事のときのみ顔を合わせる関係になった。俺が騎士団で訓練や指導をし、書類仕事をしている間、彼女は図書室に置かれた本を読んだり、刺繍をしたりしているらしい。護衛を付けるのなら街に降りても良いと言ったのだが、部屋に引きこもり、侍女相手に我儘の一つも言わないらしい。心配になるほど大人しい姿に、やはり妹をいじめたというのは所詮噂に過ぎないのだなと思った。
この地の食事は王都とはかなり違う。寒さが厳しい土地柄、繊細な味付けや美しい色どりよりも、効率的にエネルギーを摂取することが優先される。濃い味付けや油がたっぷりと使われたものを中心に、干し肉などの保存食や狩猟された害獣の肉もよく食べる。この地で生まれ育っている者にとっては故郷の味というものだが、食べなれない者からすれば癖があって好ましくないかもしれない。
彼女は毎回食事を残した。苦しそうにしながら無理に食べ切ろうとする姿を見て、俺も使用人も慌てて止めた。きっと彼女にはこの地の食事が合わないのだろう。皆がそう思って、彼女には王都のような食事を出そうと決めた。食材を取り寄せたり、王都の料理には詳しくない料理人が文献で料理を学んだりしていたために、二週間ほど時間がかかってしまったが、今夜の食事からは彼女に王都風の食事を出すことができる。
俺とクレーン嬢の前に違う料理が出される。俺の前にはいつものように大きな野菜がゴロゴロと入ったスープと獣―たぶんこれは猪だ―のステーキなどが並んでいる。彼女の前には野菜のテリーヌやポタージュ、隣の領から取り寄せた仔牛の肉を煮込んだもの―カルボナードというらしい―が並べられた。それらを前にクレーン嬢は困惑したような顔をしている。
どうしたのだろうか。頑張ってみたが、やはりそれでも王都とは全然違うのか? 本来のマナーで言えば順番に料理を持ってこなければいけなかったところを、いつも通り一気にドンと持ってきたのが悪かっただろうか。それとも嫌いな食べ物だった? この地の食事でも表情を曇らせることはなかったのに。クレーン嬢の反応が見たくて自ら料理を運んできた料理人も不安そうな表情をしている。
「すまない、何か苦手な物があっただろうか」
「いえ、苦手な物はありません。ですが、その……」
「なんだろう。遠慮なく言ってくれ」
言い淀むクレーン嬢の言葉をじっと待つ。そわそわと視線を彷徨わせた後、覚悟を決めたようにぎゅっと胸の前で両手を握りしめた。
「わたくしは、何か旦那様のご機嫌を損ねるようなことをしてしまったのでしょうか……?」
「え!? いや、そんなことはない! クレーン嬢は、何も悪いことはしていない、もっと好き勝手してもいいくらいだ! どうして、そのようなことを思ったんだ?」
「いつもと、旦那様のものとお食事が違いますでしょう? わたくしが何か至らないから、食事を変えられたのかと思いまして」
「違う、いつもの食事は貴女の口に合わないのかと思って、王都のような食事を出したかったんだ」
「え……?」
クレーン嬢は困ったように首を傾げた後、はっと何かに気が付いたように目を見開いた。そして、眉を顰め今にも泣きだしそうな表情になる。
「もしかして、わたくしが食事を残してしまっていたから……?」
「ああ、いつも無理して食べ切ろうとしていただろう? 食事は健康に生きるための資本だ、苦痛が伴うのは良くない。貴女が好むものを出したかった」
料理人に視線を向けると激しく首を縦に振っている。著名な料理人の元で修行を詰んだわけでもない、代々うちに仕える家系の中でたまたま料理に興味を持ったというだけの男だ。きっと彼女の家にいる料理人のように洗練されてはいない。しかし、食べてくれる人に美味しいと思ってもらいたい、そういう真摯な思いで料理を作ってくれる気持ちのいい人柄をしている。俺自身はそんな気持ちが伝わってくる彼の料理は何よりも美味しいと思っている。
俺と料理人、それから数人の侍女が見守る中で彼女は急に立ち上がると俺に向かって勢いよく頭を下げた。ぎょっとして誰も声が出せない中、彼女は震える声で話し始めた。
「すみません、違うのです、ここで出された食事が口に合わなかったことなどありません。むしろ、今まで食べていたどんな料理よりも美味しくて、身体だけじゃなくて心まで温まる気持ちがしました。けれど、出してくださる料理がわたくしには量が多くて、食べきることが難しかったのです。わたくしが頑張って食べ切ればいいのではないかと思って、言い出せなくて、誤解をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
「え!? 僕の料理、美味しかったんですか!?」
「貴方が、料理を作ってくださっていたのですか? いつも、残してしまってすみませんでした」
「わっわっわっ!? 待ってください、僕はしがない料理人ですから、頭を上げてください!?」
彼女の言葉に料理人が真っ先に驚きの声を上げた。その言葉に一度顔を上げると料理人に向かって再度頭を下げる。さすがに料理人が慌てると、依然泣き出しそうな顔のままのクレーン嬢が顔を上げた。
「あの、僕の料理、本当に美味しかったんですか?」
「はい。スパイスがたっぷりのスープも、野菜やお肉をたっぷり包んだ揚げパンも、熊の肉も初めて食べましたがどれも実家で食べたものよりも、王都で食べたものよりも、ずっと美味しかったです。それなのに、毎回残してしまってすみませんでした」
「や……やったー! ファルコン様、聞きましたか!? 僕の料理、美味しかったって! 良かったぁ。あ、違う違う! 奥様は謝られる必要はありません。こちらこそ、食事の量に気が回らずすみません。普段は奥様の10倍は食べるような大男たちにばかり食事を振る舞っているせいで気付けませんでした」
「ああ、本当に良かった。娯楽の少ない辺境では食事で楽しみを得るのは大事なことだからな」
両手を上げて喜びを露わにする料理人に俺まで嬉しくなる。料理人の腕が認められたこともだし、クレーン嬢が食事の味について苦痛を感じていなかったのは本当に良かった。緊張した面持ちで見守っていた侍女たちの表情も和らいでいる。
「わ……わたくしへのお咎めはないのですか……?」
それでも、クレーン嬢だけは不安そうなままだ。使用人は俺が戦場で剣を振るう以外は不得手で人の力を借りなければいけない情けない男だと知っている。故に率直に意見を述べてくれるが、彼女からしたらまだよく知らない大男だ。自分から「食事の量が多くて辛い」などと言い出すことは難しかったろう。
「咎を受けるべきは俺の方だ。食事の量に関しては気が回らなくてすまなかった。この通り、俺は細かいことを察するのが苦手だ。きっと今回のように貴女に不自由を強いていても気が付けないことがあるだろう。だから、どんな些細なことでも教えてほしい。そうしてくれれば、俺は貴女が過ごしやすいように全力を尽くそう」
「…………どうして、貴方は……」
「ん? なんと言った? 聞き取れなかった」
ぽつり、とクレーン嬢が零した言葉は机を挟んで向かいに座る俺までは届かなかった。聞き返すがクレーン嬢は首を横に振った。
「ありがとうございます。今後は、旦那様や皆さまの手を煩わせなくて済むようにいたします」
「そんなに気を張らなくて大丈夫だ。今日のところはその王都風の食事でもいいだろうか? 作り直すか?」
「いいえ、その必要はありません。全部食べ切れるか分かりませんが、こちらを食べさせてください」
料理を口にしたクレーン嬢がぎこちなく口角を上げた。笑顔を作ろうとして失敗してしまったような表情が、どうにも健気で庇護欲をそそられる。
「この料理も、とても美味しいです。それでも、その、わたくしは貴方の作るこの地の料理の方が、好きだわ。明日からも、この地の料理を出してもらってもいいかしら……?」
「もちろんです! 奥様のために腕によりをかけて作ります!」
やっと胸をなでおろしたように安心した表情を見せた。ああ、自分のせいで料理人を傷つけたのではないかと気にしていたのか。
なんて、優しい人だろう。彼女は外見だけでなく、内面も美しいのだ。もっと、彼女のことを知りたいと思った。
食事の量を調整してから一ヵ月が経った。食事中に「全て食べ切らなければ」と気を張らなくて良くなったクレーン嬢は俺と少しずつ会話をしてくれるようになった。俺が騎士たちとの訓練の話をすれば、クレーン嬢にとっては未知のもののようで興味深そうに聞き入っていた。彼女は図書室で読んだ本の話をした。そこに置いてある書籍は先代の辺境伯たちが残したもので、俺のものはほとんどない。俺は剣に傾倒していて、本はあまり読んでこなかったのだ。興味のなかったそれらの本についても、クレーン嬢の口から聞くと非常に魅力的なものに聞こえた。実際、クレーン嬢が言っていた本を執務の合間に手に取ったりした。俺の無学を嘆いていた父は空の上で喜んでいることだろう。
そんなことを考えながら書類仕事をしていたところで扉がノックされた。執事が来たのだと思い了承を伝える返事をする。恐る恐るといった慎重さで扉が開いた。現れたのは執事ではなく今の今まで頭の大半を占めていたクレーン嬢だった。
「どうしたんだ? 何か困ったことでもあっただろうか?」
クレーン嬢が執務室に来たのは初めてだ。侍女たちでは改善できないほどの不便をかけてしまったのかと思い声をかければ、不安そうに怯えた、しかし恐怖の対象を前に逃げないことを決めたような覚悟に満ちた表情のクレーン嬢が首を横に振った。
「いいえ、旦那様や皆さまのおかげで、何不自由なく過ごさせていただいております。ええっと……旦那様の邪魔をしに来たわけではないのです」
「邪魔とは思わないが、どうしたんだ?」
「もし、その、よろしければ、なのですが。……何か、わたくしに手伝えることはありませんか?」
上目遣いに俺の様子を伺い、目線がばっちりと合えばさっと慌てた様子で顔を伏せる。出会ったときと変わらない様子だ。それでも、今日まで過ごすうちに、それが俺を怯えての仕草というよりは人と目を合わせること自体が苦手なのではないかと思うようになった。使用人に聞いてみれば、クレーン嬢は誰が相手であっても視線が合うと慌てて逸らすらしい。その小動物のような仕草が可愛らしいというのが、使用人の間でのホットな話題のようだ。
閑話休題。
クレーン嬢の小動物のような仕草は俺も可愛いと思うが、今大切なのはそこではない。彼女は俺を手伝おうとしている。きっと、今行っている書類を捌くような仕事についてだろう。食事の席で「身体を動かすこと以外は苦手」と言った覚えがある。
「俺が余計なことを言ってしまったか。苦手ではあるが、今までも行っていたことだ。クレーン嬢が気を揉む必要はない」
「はい、そうなのでしょう。わたくしが手を出さずとも、旦那様は必要なお仕事を熟されるのだと思います。ですが、こんなにも旦那様に良くしていただいているのに、何も返せないことが、酷く苦しいのです」
良くしている、なんてとんでもない過大評価だ。こんな僻地の、不愛想な男の妻にされてしまったのだ、少しでも快適に過ごせるようにと努めることは最低限の義務だと思っている。それさえ十分に果たせているとは胸を張って言えないのに、仕事まで手伝ってもらうなど厚顔無恥にもほどがある。しかし、ここで突っぱねてしまえばクレーン嬢は気を病んでしまうだろう。そして、ちょうど誰かの手を借りたい仕事が手元にあった。
「それでは大変申し訳ないのだが、隣国へ送る手紙の校正をしてもらえないか? 確か、クレーン嬢は隣国の言葉で書かれていた本も難なく読んでいただろう」
「校正……わ、わかりました! 頑張ります」
「助かる。これが隣国から来た手紙で、その返信を書いたものがこれだ」
二通の手紙を手渡すとクレーン嬢は緊張したように慎重に受け取ると、その文章を読み始めた。俺の期待に応えようと真摯に文章に目を走らせる横顔はいつもの怯えを含んだ顔とは違って、そんな表情もとても美しいと思う。だが、あんまりにも見ていては彼女も気が散ってしまうだろう。いつまでも眺めていたいという欲を抑え込んで手元の書類の処理に戻る。
あの、とクレーン嬢が声をかけてくるまで、然程時間はかからなかった。俺が手元の書類を横に避けるとクレーン嬢は二通の手紙を机に広げた。
「どうだっただろうか?」
「はい、スペルや文法に間違いはないように思います。ただ、相手方の『初雪はまだしばらく降らないと良いのに』という言葉を流されたのは意図されてのことでしょうか?」
「意図して? まだ冬が来ないでほしいという世間話、みたいなものではないのか?」
「隣国は迂遠な言葉を好まれるようです。前後の話から鑑みて『初雪がまだ降らなければ交通に支障がないから直接会って話ができるのに』という意味を込めておられるのだと思います。この言葉に『我が領地はまだ初雪は遠い』などと会いに来てもらいたい旨を伝えなければ、直接会うことを拒絶されていると向こうは受け取るかもしれません」
クレーン嬢から告げられた言葉に衝撃を受けて固まってしまう。俺も貴族の嗜みとして近隣諸国の言語は学ばされている。しかし、その国の文化に根付いた言い回しや感性なんてものは分からない。辺境伯として必要なものだろうが、教えられる前に両親はこの世を去ってしまった。幸い、近年は国同士で大きないざこざが起こることもなかったため、今まで大きな問題は起きていなかったが、このような些細なすれ違いで相手方に不快な思いをさせていた可能性はある。そのことに気付かされた。
「すごい……凄いなクレーン嬢! 恥ずかしながら、隣国と接した領土を治めているというのに知らなかった! 貴女はとても博識なのだな」
「そ……そんな、ほ、褒めすぎです。私が、無駄に深読みしすぎているだけかも」
「いや、きっと貴女は正しい。思い返せば、このような言い回しの手紙を何度か受け取った覚えもある。はあ、俺の無学で相手と仲を深める機会を捨てていたかもしれない。これは反省すべきことだが、貴女がいてくれて良かった。己の愚行に気が付くことができたのだから。もし、負担でないのであれば、これからも貴女の力を借りても良いだろうか?」
「はい……はい! もちろんです! わたくしでも旦那様の力になることができるのなら、喜んで」
クレーン嬢は俺の言葉にはにかむように笑みを浮かべた。やっと見ることができた笑顔に胸が締め付けられる。誰よりも近くで、誰よりも長く、この笑顔を見ていたい。微笑む彼女に触れることを許してほしい。そんな思いでいっぱいになる。
もう、目を逸らせないくらいにクレーン嬢を愛していた。