8. 果たされなかった約束と王女のバラ
クイーンマイアが良いわ。
誕生日に何が欲しいかと尋ねると、妻はしばし考えてそう答えた。
それが何なのか分からなかったギルベルトが同僚の女性事務官に訊いてみると、バラの花の品種の一つだと言う。ならば花屋へと、城下の店に出向けば、クイーンマイアは一輪がなんとハンネス家の一月分の食費くらいの価格だった。
思わず「高っ」と口に出せば、花屋の店員が苦笑しながら教えてくれた。この花はブラル王国のバラの都ローゼンマイアで、第一王女の誕生に合わせて開発された新種で、最近やっと帝都にも出回るようになった花らしい。ローゼンマイアでも大量栽培は難しく、流通量が少ないがゆえの価格なのだ、と。
ローゼンマイアと聞いて友人の顔を思い浮かべたギルベルトはなるほどと思った。あの男が可愛い妹の産んだ可愛い姪っ子のために造らせた花なのだ。銀髪にアメシストの瞳の妹に良く似た美人だと手紙に書いてあった。だから白と紫の花びらなんだなと納得したのである。
確かに美しい花だったが、馬用の装具を近々買い直したいと思っていたギルベルトには手が出せなかった。少し迷った末、白いバラと紫のバラで花束を作ってもらい、妻に渡した。
妻は喜んではくれたが「クイーンマイアじゃないのね」とチクリとギルベルトを刺す。
バラの花なんてどれも同じだろ。
そう答えたギルベルトに妻は唇を尖らせて抗議した。曰く、色から香りから立ち姿から何もかも異なるらしい。花に興味のないギルベルトが耳半分に相槌を打つのを更に非難した妻が、生まれて一年に満たない娘の背を撫でる。「ローゼンマイアの姫様のバラをウチのお姫様の髪にも飾ってあげたかったのに」なんて言われてしまえば、ギルベルトに反論の余地はもうなかった。
ブラル王国出身で、しかもローゼンマイア城で働いていた妻にとっては、娘と同じ年に生まれた王女様がどこか特別な存在に思えているようだ。
「……分かったよ。金貯めて、来年はクイーンマイアを買って来る」
そう言ったギルベルトと妻との約束は果たされることはなかった。
翌年は不作だったとかで入荷がなく、その翌年は娘が病気をしてそれどころではなかった。次の年も、その次の年もなんだかんだでバラ一輪買うことができずにいた。
こうなったらもうローゼンマイアで一番偉い友人に頼んで一株譲ってもらうしかない。そう決めたのは娘が生まれて七年目のことだ。
結局それも、叶わなかった。
「うぇ。お膝元でもこんな値段すんのかよ」
ローゼンマイアの城下の花屋で、ギルベルトはショーケースの前にしゃがみ込んでそう呟いた。
美しく咲き誇るクイーンマイアは、帝都で最初に見たほどの額ではないが、やはりそれなりにお高い。
「やっぱり高いと思われます?」
「ああ。こりゃ庶民にゃ手が出な…い…」
思わず答えてしまってから横を見る。マントを羽織った少女がギルベルト同様ショーケースを見ていた。フードを目深にかぶっているため顔は良く分からないが、肌や靴の整い具合を見るとそれなりに高貴なお嬢様のようである。
「んー…。生産コストを考えるとやはりもう少し温室を広くして、量を増やさねばならないわね」
「……えーと? 社長さんの娘さんとか?」
「ええ、まあ。似たようなものですわ。おじさまはご病気でらっしゃるの? お顔の色が優れませんわね」
「え。ああ、いや。元気だよ。最近、疲れててね」
「そう、なら良いのですが。クイーンマイアをどなたかに贈られますの?」
「あー……、その。妻が、この花が好きで」
「まあ。嬉しいこと。それでずっと悩んでらっしゃったのね」
「恥ずかし話、これ買うと帰りの旅費がちょっと心配なんだ」
「そうなの。そうね……。おじさま、何か不要品はお持ち? なんでも良いわ。今手放しても問題ない物はないかしら」
「藪から棒に。えーと……このスカーフ、とか?」
「そちらで結構。買い取らせていただきます。エマ」
「はいお嬢様」
「えっ?!」
「クイーンマイアの花束が買えるくらいはお渡しして」
「かしこまりました」
「えぇ?! ちょ、そんなことっ」
「奥様はお幸せね。おじさまのような旦那様がいて」
「え。あ、どうも……」
背丈や足のサイズから娘と同じ年くらいかと思っていたが、その言葉や仕草は決して七歳の子どものものではなかった。もしギルベルトの娘が花屋の社長の子だったとしても、生産コストだなんて単語は絶対出て来なかったはずだ。
控えていた若い女がギルベルトにちょっと引くくらいの額を握らせ、有無を言わさず首からスカーフを引き抜く。
フードの下でつやつやの唇が満足気に微笑み「それでは、ごきげんよう」と去って行ってしまった。
やることが男前で格好良いな、あのお嬢様。と感謝しつつ、スカーフの代金で買えるだけのクイーンマイアを花束にしてもらった。
この花の存在を知って七年。
やっと手にした美しい花を贈るべき相手は、すでにこの世に亡い。
妻と娘は幸せだったのだろうかと、答えのない不安を頭の中にぐるぐると抱えていたギルベルトは「奥様はお幸せね」と、そう言ってくれたお嬢様の言葉で胸に刺さっていたトゲのようなものが抜けたような気がした。
「あら? あなた、さきほどの」
滞在先のローゼンマイア城で友人を探して歩いていたギルベルトは、花屋で出会った男前なお嬢様に再度遭遇した。
フードを外したその顔は、数年前に王家に嫁いで行ったこの城のお姫様に良く似ている。ギルベルトは驚きのあまり固まり、辛うじてゆるゆると床に膝を付いた。
そうか。この子がクイーンマイアの象徴する第一王女。王太子ツェツィーリエ。
あの子は稀代の女王になるよと友人が鼻息荒く語っていたが、なるほど。この子ならば、確かに歴史に名を残す名君となりそうだ。
「先ほどは、ありがとうございました。知らぬこととはいえ、王太子殿下に対し礼を失した態度をお許しください」
「あら。あなたは?」
「殿下が私をご存知かは分かりませんが、ギルベルト・ハンネスと申します」
「まあ。まあまあ! 伯父様の親友ね。お噂はかねがね……」
明るい笑顔でギルベルトを認知したお嬢様、改め王女様が不意に表情をこわばらせた。ギルベルトの持っているクイーンマイアの花束を見つめ、きゅっと口端を引く。
「……わたくし、無神経なことを言いましたわね。おじさまを傷付けたのでなければ良いのですが」
しゅんとしおれる王女様に内心で慌てたのはギルベルトだった。
どうやらこの子はギルベルトが妻子を亡くしたばかりだということを知っているらしい。
「殿下」
ギルベルトは花束から一本のクイーンマイアを引き抜いて王女様に差し出した。可能な限り柔和な笑みを浮かべ、不安そうな彼女に首を振る。
「俺は嬉しかったよ。君が、きっと妻は幸せだろうと言ってくれて。少し、救われた気がした。ありがとう、ツェツィーリエ姫」
そっとクイーンマイアを受け取って、王女様は安心したように微笑む。
彼女のための花はその手の中で輝かんばかりにきらめいて見えた。
ツェツィーリエは七歳。
それは十一年以上前の記憶だ。
そして今。ギルベルト・ハンネスはデングラーの寂れた小神殿裏で、あの日と同じようにバラの花の美しさに感動して立ち尽くしていた。
最後に訪れた時には何もない、ただの心寂しい墓地だった。
それが今はささやかながらも立派なバラの庭園になっている。
「おや、ハンネスさん? お久しぶりです」
麦わら帽子をかぶった老人が庭園の中で腰を上げた。
剪定ばさみを手に、顔がやや土に汚れている。だが、おそらくそれが楽しいのだろう。前に会ったのは葬儀の時だが、その時より笑顔が若々しく見えた。
「神官さま。お元気そうで」
「ふふ。ええ。バラの手入れをせねばなりませんのでね」
「あの、これは……?」
「おや。ご存知なかったですか? 五、六年ほど前のことです。身なりの良いお嬢さんが、ここにバラを植えたいが構わないかと尋ねて来られまして。――ご存命でしたらエリザさんと同い年くらいでしたし、お二人の墓石の周囲は手ずから念入りにされておられたので、てっきりハンネスさんのお知り合いかと」
…――ツェリ。
ギルベルトが口の中で呟いた声は聞こえなかったようだ。
老神官は嬉しそうに庭のことを話し続ける。
「ふふ。土いじりなど初めてだったのでしょうね。時折現れるミミズやモグラに悲鳴を上げながら、服やお顔が汚れるのも構わず一生懸命にバラの苗木を植えておいででしたよ。さすがに他の部分は後日、造園の方を手配してくださったみたいですが、気付けばこんなに素敵なお庭ができあがっていました。寂しい所でしたが、今はこの庭を目当てに町中の方が訪れます。嬉しいことです」
老神官が墓地に視線を巡らせ、ゆったりと歩き出した。
付いて来いという意図を感じて、ギルベルトもそれに続く。
「ただ心配事も増えましてね」
「はあ」
「そのお嬢さんが植えた苗木、少々高価なものなんです。泥棒されないかと不安で、屋根の修繕費を使って庭の周辺に柵を作ってしまいました。なので神殿の中は今も雨漏りだらけなんですよ」
はははと困ったように笑う老神官が目線でギルベルトを促す。
見たいような、見たくないような心地でいたギルベルトはおそるおそる老神官の視線を追った。
身なりの良いお嬢さんが手ずから植えてくれたという少々高価な苗木は、妻と娘の墓を囲うようにいくつもの大輪の花を咲かせている。守るように。慈しむように。
ぎゅっと拳を握ったギルベルトは喉の奥が熱くなるのを感じた。
「――クイーンマイア」
白い花びらに紫の滲む、それはツェツィーリエのバラだ。
「今日もキレイですねえ。この花の花言葉をご存知ですか?」
「いえ」
「あなたの幸せを願う、だそうですよ」
愛されている。
その確信はギルベルトの弱さを打ちのめした。
ツェツィーリエはギルベルトの過去もその傷の痛みもすべてを愛してくれている。守っていたつもりで、守られていたのかもしれない。ツェツィーリエはずっと、誰にも覚られぬようにギルベルトを想い、その幸せを願ってくれていたのだ。少なくとも六年以上、ずっと。
きりきりと心臓が痛んだ。
指先がひりついて、上手く呼吸ができない。
柔らかな風が頬を撫でて通り過ぎ、妻の手指を思い出し、ツェツィーリエの微笑みを想った。
こらえていた涙が頬を伝うのが分かった。
片手で顔を覆えば、後から後からとめどなくあふれて来る。
「……ハンネスさん。あなたの奥さんとお子さんはこうして姫様のバラが見守っておいでです。……あなたも、幸せにおなりなさい」
静かに泣き出したギルベルトの背をそっと撫で、老神官は踵を返して去って行った。
幸せになる権利などないと思っていた。
カリーナとエリザを死なせておいて、どうして自分だけ、と。
それすらもツェツィーリエは認め、許し、見守ってくれている。
伯父の下で働いても、デングラーで暮らしても構わない。帝都に戻りたいのなら手配する。それはギルベルトに用意された逃げ道だ。嵌り込んだ沼にかけられたいくつもの梯子を、ギルベルトはよくやく直視するに至った。
その中の一つでツェツィーリエが手を差し伸べている。
泥だらけの手でも、いつかまた後悔することがあっても、きっとツェツィーリエは笑顔で許してくれるのだろう。
口端を引き結び、ぐっと涙をこらえる。
大きく息を吸って、吐いて。ばしっと両頬を叩いた。
「カリーナ。エリザ。行って来る。俺が怖気付きそうになったら、背中を蹴っ飛ばしてくれ」
ギルベルトは駆け出した。
追い風とバラの香りに背を押され、守るべき人の元へ――。