2. 甘党と断頭台
あれは六年前のことだ。
うららかな春の昼下がり。
シュタルク帝国の東。比較的気候の温暖なブラル王国の王城で、春の日差しに負けないくらい穏やかな空気のお茶会が開かれていた。
実際には王族のほとんどが参加する御前会議のはずなのだが、正妃コンスタンツェの「あら。お茶はないの?」の一言でお茶と茶菓子が急遽用意され、ただのファミリーパーティ―の様相を呈すようになった議場を有力貴族たちが遠巻きに見ているという、なんとも不思議な光景になっていた。
王の側近の一人が和やかなその空気に吞まれまいと、意図して眉間にしわを寄せ、わざとらしく咳払いなどした上で参加者の注目を集める。
「皆様おそろいのようですので会議を始めます。まずは国王陛下より――」
「御託は良い。さっさと進めろ」
「――はい」
一言くらいくれたっていいのに、と恨みがましく思いつつ側近はまたも咳払いして居ずまいを正した。
会議など興味なさそうにぽちゃりと紅茶の水面に角砂糖を落としたのは、国王ランドルフ。二つ入れ、三つ目をティーカップに溶かしてやっと口をつける。見ているだけで胸やけがしそうなほど甘いだろう紅茶に、四十代半ばの王は更にミルクを混ぜていた。
「陛下、砂糖の摂り過ぎは」
「今日はまだ控え目だろう」
「……えー、会議を始めます。本日は十歳以上の王族の皆様にお集まりいただきました。こちら――シュタルク帝国皇帝ハインリヒ陛下よりの勅書です。ざっくり内容をご説明しますと、皇弟レオンハルト殿下の話し相手に王女を一人寄越すように、と書いてあります」
「そんなのエレオノーラ姉様で決まりじゃん。なんで話し合う必要があんの」
吊り目がちな少年が可愛らしい顔立ちに反して冷たく言い放った。
第七王子ヨハンは今年十歳。今日のお茶会、否、御前会議の出席者の中では最年少だ。「イヤよ!」と隣で反発の声を上げた第二王女エレオノーラをヨハンは鬱陶し気に一瞥する。
「なんで私がっ」
「僕らは十三人兄弟だけど王女は二人だけ。第一王女ツェツィーリエ姉様は陛下とご正妃コンスタンツェ様の御子で王太子。皇帝陛下が“王女を”って指定しているなら、エレオノーラ姉様しかいないでしょ。言われなくてもこれぐらい分かってよね」
「なんですって」
「ああ。もしかしてこんなバカな王女を帝都に送り出せないよねどうしようっていう話し合い?」
「このっ…!!」
立ち上がって睨み合う犬猿の仲な姉弟に「ヨハン」ともう一人の姉から声がかけられた。ヨハンはぱっと明るい笑顔で「はい姉様!」とお利口に返事をして席に戻る。悔しそうな表情で歯嚙みしたエレオノーラもまた、弟と姉を睨んだ後で渋々と腰を下ろした。
妹を完全に無視した格好の第一王女ツェツィーリエの様子に、周囲は憮然としているエレオノーラにこそ冷めた視線を送っている。
第一王女ツェツィーリエと第二王女エレオノーラの仲は完全に冷え切っていた。決定的な亀裂を生んだのは妹の無謀であると、この議場に知らぬ者はない。
二人は同年の春と夏に生まれた同い年の異母姉妹だ。今年十二歳になる。
正妃コンスタンツェに対抗心を燃やしていた母親ガブリエラ妃の教育の賜物か、エレオノーラは何事にも同い年の姉に対抗せずにはおれず、妹のことなど歯牙にもかけていないツェツィーリエはそれをたいそう煩わしく思っていた。
もともとあまり良好な関係ではなかった姉妹仲が完全に断たれたのは、一昨年のことだ。
上品に馬を乗りこなすツェツィーリエを見て「お姉様が上手なのは馬のおかげよ。私もお姉様の馬に乗りたいわ!」とワガママを言い出したエレオノーラが無理やりにツェツィーリエの愛馬にまたがり、そして案の定落馬したのである。幸いにもエレオノーラは軽傷だったが、仮にも王女にケガを負わせてしまった馬だ。王太子の愛馬として生かし続けることは許されなかった。
無意味に愛馬を亡くしたツェツィーリエの嘆きは深く、それ以降、エレオノーラとその母ガブリエラを意識から除外し、無いものとしている。
王太子に無視され出したガブリエラはさすがに焦ったのか、どうにか機嫌を取ろうと新しい馬を用意したりしたが、エレオノーラの「たかが馬一頭で、お姉様は心が狭いわ」との暴言がツェツィーリエの耳に入り、もはや姉妹仲の修復は不可能の域に達していた。
「…言い方はあれだけど、ヨハンが正しい。これはなんのための会議なの?」
「エレオノーラのお別れ会なんじゃね?」
つっけんどんに言ったのは第四王子ラファエル。それに応えたのは、王子たちの中では唯一体育会系な第三王子マクシミリアンだった。「それなら僕は部屋に帰りたい」とぼやく第四王子の声に、本を読んでいた第二王子イザークも同意してか小さく頷く。
自由過ぎる王子たちに、司会進行役の王の側近は再度咳払いをした。「黙れ」という意図が伝わったのか否か、一応は全員が口を閉ざしてティーカップに手を伸ばしたりしている。
「貴族議会も満場一致でエレオノーラ殿下に結審しております。ですが――」
「――わたくしが再審議を申し渡しましたの。皇帝陛下の勅命に従うならば、第二王女は相応しくありませんわ」
年齢不相応に落ち着いた声音が議場に良く通る。
にこりと笑む美しい王太子の発言に、その場のほぼ全員がやや驚きを見せた。
帝国に第二王女を差し出す案件で異議を申し立てるのは、ガブリエラ妃の生家コルヴィッツ伯爵家くらいのものだろうと誰もが思っていたのだ。
「つまり?」
もはや生クリームしか見えないシフォンケーキを口に運びつつ、国王ランドルフは幼い娘に説明を求める。
だから砂糖はほどほどにしておけと言うのに、と側近は嫌そうな顔で国王の握るフォークを睨むが、その視線に気付いたランドルフは側近を見上げながら、生クリームのおかわりを所望した。二人の間にバチバチと散る火花を避けるように、皿を持ったメイドが足早に下がる。
「エレオノーラは王女ではありませんもの」
衝撃の事実がさらっと告げられた。
それぞれ何かしら口に入れていた王族全員の動きがぴたりと止まる。全員の視線がエレオノーラに向き、そしてその母親であるガブリエラに移された。
きょとりとして理解していないエレオノーラの隣で、ガブリエラは慌てて反論の声を上げる。
「ど、どういう意味ですか、王太子殿下。それではわたくしがまるで不貞を働いたかのようではありませんか。エレオノーラが気に入らないからと言って、それはあんまりではっ」
「エマ」
「はい姫様」
ガブリエラを無視してツェツィーリエが侍女の名を呼ぶ。さっと差し出されたのは、両手サイズの豪華な箱だった。ぱかっと開かれたその箱の中にはハンドベルのような鐘が一つ、艶やかなサテンに包まれて収まっている。
それを見て眉根を寄せたのは国王ランドルフだった。チョココーティングされたイチゴを生クリームに付けようと浮かせていたフォークをそっと皿に置く。
「おまえ、それ」
「『真実の鐘』です」
「なんで国宝を俺の許可なく持ち出せる」
「わたくしが王太子だからでは?」
「十二の小娘が何、」
「陛下。このガトーショコラ絶品ですわよ」
「お。そうか」
差し出された皿にランドルフは分かり易く気を取られた。十二の小娘に良いようにあしらわれてまあ、と側近は内心で溜息を吐く。
今の王家はほとんどが甘党だ。ケーキやらチョコレートやらを出しておけば、たいていご機嫌に公務をこなしてくれる。扱い易いと言えばそうだが、健康面では心配が尽きない。全員が体形を維持しているのが不思議なくらいである。
「姉様、『真実の鐘』って?」
「お兄様方とヨハンはご覧になるのは初めてかしら。これは我がブラル王家の秘宝。神代の御世の魔導具の一つと言い伝えられているものです」
「……振り子がないね。音は鳴らないの?」
「いいえダニエルお兄様。これは簡単に言ってしまえば嘘発見器なのです。ですから、嘘が鳴ります」
「嘘が鳴る」
十三人兄弟の長兄、第一王子ダニエルが興味深そうに聞き返す。「試してみましょうか」と手招きされたヨハンが嬉々とツェツィーリエの許に駆け寄った。
神代の魔導具という、一生に一度お目にかかれるか否かの超特級稀少宝物の登場で、お茶会の場に神官が複数いるのはなぜなのかと不思議に思っていた面々の疑問が解けた。と同時にはっと気付く。ティーパーティーにしか見えないが、これは列記とした御前会議だ。神官がいても不思議ではないのだ、と。
「ヨハン。何か嘘を言ってみてちょうだい」
「嘘ですか。そうですねえー…。“僕は姉様より年上です”」
カーン。
ヨハンの握った振り子のない鐘から音が鳴り響いた。
噓が鳴る、とはそういうことらしい。
「“僕はエレオノーラ姉様に帝都に行ってほしくありません”」
カーン。
「“僕は実はエレオノーラ姉様が大好きです”」
カーン。
三度響いた鐘の音に楽しくなって来たのか、更に何か言おうと口を開いたヨハンを「おい」と国王ランドルフが制止する。口端にジャムを付けた四十代半ばの父に睨まれ、ヨハンは小さく肩をすくめて大人しく鐘を箱に戻した。
「子どものおもちゃじゃないんだぞ」
「あら。ヨハンのデモンストレーションは完璧でしたわ」
「はあぁ。分かった。ガブリエラ、鐘を持て」
「え…、陛下。王太子とはいえ、十二の子どもの言うことを間に受けて、わたくしにこのような場で」
「姉様。このタルトも美味しかったですよ」
「あら、そうなの。ありがとうヨハン」
「拒否するなら構わん。不貞を認めたとして引っ立てるまでだ」
「そんなっ!」
「このクリームチーズは今日一ですわ。ヨハン、お兄様方も召し上がってみて」
「ありがとう、ツェリ。クラッカーのおかわりをもらえるかな」
「陛下。わたくしを信じてください。不貞など、決して!」
「だから信じてほしくば鐘を持て。音が鳴らなければ、それで済む」
「…ツェリ。…トリュフ、美味い」
「まあ、イザークお兄様。ありがとうございます。こちらのプディングは召し上がられまして?」
「あ、姉様。それ僕も」
王の側近は今日一番の咳払いをした。
自由過ぎる王子たちを目で叱れば、やや不服そうにしながらも一応黙る。
子どもたちが食欲旺盛なのは良いことだ。第一王子はすでに三十歳になるので子どもたち、と一括りにしてしまうのはいささか違和感は残るが、それでも王の御子たちが元気いっぱいに育っているのは、臣下としては嬉しい限りである。
だが、国宝まで持ち出して側妃の不貞の疑義を明らかにする場面で、タルトやプディングをもぐもぐしているのはいかがなものか。
部屋の隅で速記中の書記官が頭を抱えているのが見えないのかおまえらは、と一同を一睨みし、側近は顔色の悪いガブリエラ妃に目を向けた。
すでに不貞を認めているようなものだが、一応に証拠は必要だ。
ツェツィーリエの視線を受けた侍女が再度さっと現れて、鐘をガブリエラに持たせる。ぱっと見には地味なメイドだが、その動きは只者ではなかった。おそらく王太子の護衛も兼ねての精鋭なのだろう。
準備が整ったのを見て側近は「さあどうぞ」と国王に視線を遣る。先ほどジャムを拭いたばかりの口端に今度は粉砂糖が付いていた。側近の額に青筋が浮く。
「…で。エレオノーラは俺の子なのか?」
「も、もちろんです!!」
カーン。
のほほんとしたお茶会の場に、いっそ清々しいまでの鐘の音が鳴った。
誰一人驚く者はなかった。ああやっぱりね、みたいな空気が一同を支配する。
動揺しているのはガブリエラとその父親のコルヴィッツ伯爵だけだ。
「不貞を働いた妃の処遇を知っているか」
「へ、陛下…。わたくしは、本当に不貞など…!」
カーン。
国王ランドルフは深々と溜息を吐き出し、王の子たちはもぐもぐと口を動かしながら、エレオノーラを見ていた。
「え。なに? どういうこと?」
「こんなアホな女がツェツィーリエ姉様の妹だなんておかしいと思ってたけど、まさか本当に王女じゃなかったなんて」
「ヨハン。食べながらしゃべらない」
「だってフィリップ兄様」
「まー、一人だけ毛色が違うなとは俺も思ってたよ」
「でしょ、アルフォンス兄様」
「ツェリ。そこのマフィンもらえる?」
「ええ、どうぞラファエルお兄様。マクシミリアンお兄様もいかが?」
「おう、サンキュ。つまり本当にお別れ会なんだな、これ」
「絞首刑だっけ。斬首刑?」
「王室典範第三条六十六項。王の側妃の犯罪行為および不貞などの背反行為は斬首刑に処すこと。六十七項。前項において情状酌量の認められる場合は毒杯による自死を許すこと」
「さすが本の虫。まさかイザーク、全部憶えてるの?」
「…ツェリが貸してくれた」
第一王子ダニエルの問いに、第二王子イザークはすっと持っていた本の表紙を見せる。『王室典範』。なるほど。こうなることを予想してツェツィーリエがイザークに持たせていたのだろう。
「陰謀です! これは王太子殿下の陰謀だわ!!」
カーン。
ガブリエラの絶叫に間の抜けた鐘の音が鳴る。
もはやつまらない余興を観ているかのような王子たちの視線に、ガブリエラは後退った。
「もういい。連れて行け」
溜息を吐く国王のフォークの先にはハチミツたっぷりのビスケットが刺さっている。側近も溜息を吐いて、控えていた騎士たちにガブリエラの拘束を命じた。
何事か喚き散らしながら引っ立てられて行く母を、エレオノーラは訳が分からないまま見送っている。
「ついでですわ。そこで震えてらっしゃるバール子爵も連行してちょうだい」
「ひっ?!」
「おまえ、まさかっ」
シャーベットの器を手に取って美しく微笑みながら、ツェツィーリエが傍聴する貴族たちの中の一人をスプーンで指した。
恰幅の良いコルヴィッツ伯爵の背に隠れて震えていた男が逃げ出そうとして騎士に捕まる。バール子爵はコルヴィッツ伯爵の甥、つまりガブリエラの従兄にあたる男だ。
わずかに騒然となった場が、それでもすぐに静けさを取り戻す。
スイーツを頬張る王族たちがもぐもぐと口を動かすのを、王の側近は微笑ましいような呆れるような心地で傍観していた。後で全員にちゃんと歯磨きをするように指導しなければ、と頭の片隅に書き留める。
「コルヴィッツ伯爵」
「はっ、はい。王太子殿下」
「王籍離脱の手続きはこちらで済ませます。あなたのお孫さん、すぐに連れ帰っていただけるかしら」
「か、かしこまりました。エレオノーラ、行くぞ」
「え? でもお菓子がまだ」
「エレオノーラ!」
泣きそうな顔の祖父に怒鳴られ、エレオノーラは渋々と議場を後にする。
王都内に強い勢力を持っていたコルヴィッツ伯爵だが、これからは肩身が狭くなるだろうと憐憫の視線があれば、もう二度とあの娘の顔を見ることはないだろうと侮蔑の視線も多かった。
「さて。本題はこれからですわ」
「……皇帝の勅命に従える“王女”がいなくなったワケか」
「なるほど、そういうこと。でも、それなら放っておけば良かったのに。“人質”なんてあの子で十分でしょ」
「それはなりませんわ、ラファエルお兄様。もし帝都でこの嘘が露呈した場合、わたくしたちには釈明の余地がないのです。皇帝の勅命に虚偽で応じたなどと判ぜられては、今度は国王の首を寄越せと言われかねませんわ」
「戦になるか。まー、勝てねぇわな」
「いいえ、マクシミリアンお兄様。戦になどなりません。西の森をご覧になりまして? 帝都からの使者殿一行が野営をなさっておいでです。魔導竜騎士が全部で十二騎。使者殿の胸章は帝国魔導騎士団の指導官の地位にあるものでした。剣技、騎竜術、そして魔導。すべてに精通した方が指揮官として一個中隊を率いて来られているのです。我が国が皇帝の命に従わぬ素振りを見せようものなら、一ダースの竜騎士たちに数時間で城は制圧されます。戦にする間もありませんわ」
「…でもツェリは、…王太子」
「イザーク兄上の言う通りだ。皇弟殿下と同い年の僕か、年の近いアルフォンスじゃダメなのか、お伺いを立てることはできないかな」
「なんなら俺とフィリップ兄の二人でもいいよね。第五、第六王子なんて、それくらいしか使い道なさそうだし」
「アルフォンス兄様が王女になればいいんじゃない?」
「ああ?」
「まだ骨格も出来上がってないし、そこまで背も高くないし。股間のそれ、使い道ないんでしょ? 取っちゃってもいいんじゃない?」
「その言葉そっくりそのままおまえに返してやんよヨハン」
「僕は姉様の騎士になるから女の子にはなれないの」
「阿呆。女王の傍付きは女騎士だろうが」
「ハッ! ……どうしよう姉様」
「どうもしなくてよろしいわ、ヨハン。自分の身体を大事になさい」
「はぁい」
沈黙が下りた。
上品でありながらもぐもぐし続ける王族の周囲では執事やメイドたちが忙しなく行き来している。まさかランチの後でこんなにもスイーツを消費されるとは思っていなかっただろう、厨房のパティシエたちの悲鳴が聞こえるようだった。