1. 婚約破棄と“真実の愛”
「ツェツィーリエ、すまない。実は私には他に愛する人がいる。私にとって真の道を進み出そうという今、やはり隣には真実の愛を共に分かち合う者にいてほしい。君との婚約を破棄させてもらいたい」
シュタルク帝国の首都ノール。
ノール城と呼ばれる皇帝の居城では華やかなパーティーが開かれていた。
そこに見慣れぬ令嬢を伴って現れた本日の主役、皇太子レオンハルトは、婚約者であるブラル王国の第一王女ツェツィーリエを見つけるなり近付いて、硬い表情のまま言い放った。婚約を破棄する、と。
「レオンハルト殿下。今、なんと?」
見事な銀の髪、輝くばかりのアメシストの双眸。ブラルのバラの花と呼び声高い美しい王女は、口元に笑みをたたえたまま婚約者の青年をひたりと見据えた。
ダンスホールは大勢の人がいるとは思えないほど静まり返っている。
王女の声や態度には怒りも焦りも見られない。ただいつものように泰然と微笑んでいる。だが、壁際で彼女の護衛として控えていた魔導騎士ギルベルト・ハンネスはその華奢な手が扇子をぎりりと握り込んだことに気付いた。あれはお怒りでらっしゃる。
ツェツィーリエ王女が怒るのも無理はなかった。
皇帝の弟であるレオンハルトが皇帝の第一皇子を退け、新たな皇太子の座に就くことになったのは他ならぬツェツィーリエのおかげだ。
それをそうと決まった直後、祝いの宴の席で用済みだとばかりに婚約破棄など言い渡されれば、王女でなくとも激怒するだろう。
王女が十二歳の時から専任の護衛を務めているギルベルトは、主君である皇太子に対し怒りを抑えきれずにいた。婚約を解消するとは聞いてはいたが、なにもこんな大勢の目の前で声を張らずとも良いではないか。
六年前、シュタルク帝国の統治下にあるブラル王国から、まだ十二歳だった幼い王女は侍女をたった一人だけ連れてやって来た。留学とは名ばかりの人質だということは、誰の目にも明らかだっただろう。
ツェツィーリエ王女は冷静だった。常に前を向き、王女として帝国の首都でできるだろうことを模索し続けていた。ともすれば貪欲なほど学び、積極的に人脈を広げるよう努め、そして決して王女の矜恃を忘れなかった。
十二歳の少女が親元から離され、皇帝をはじめ皇族男子たちにどのように扱われるとも知れない恐怖の中、凛と背筋を伸ばす様はなるほど、バラの花の如しだったのだ。その美しい強さとしなやかな気高さを誰にも手折ってほしくないと、密かに王女を案じる者も多かった。
翌年には皇弟レオンハルトとの婚約が決まり、ツェツィーリエ王女が帝都で確たる地位を手に入れられた時には、騎士たちから安堵の声が聞かれたものである。
ギルベルトはツェツィーリエが本当に皇后になるのではないかと密かに期待していた。ツェツィーリエを守るための婚約であって、いずれ解消すると聞かされてはいたが、婚約からおおよそ五年。二人の関係は非常に良好で、すでに恋人や夫婦と言っても遜色ないほど想い合っているように、周囲からは見えていた。
この六年。誰よりもレオンハルトを理解し、レオンハルトのために行動し、レオンハルトを支えて来たのはツェツィーリエだ。
それなのに――。
「――君との婚約を破棄する。ツェツィーリエ」
「……殿下御自ら余興のおつもりかしら。笑えませんわね」
「本気だからな。笑ってくれとは言わない」
「まあ、呆れた。あれほど毛嫌いしてらした甥殿下と同じ過ちを犯そうとなさるなんて。やはり血縁ですのね」
「私はアレほど浅はかではない。后が君ほど有能でなくとも、立派に帝国を治めて見せよう」
「ええ、ええ。それはそうでしょうとも。立太子なさった直後にわたくしを切り捨てなさるんですもの。その非道さがあれば帝国の統治など容易でございましょう。恐ろしいこと」
「……――ツェツィーリエ。君には礼を尽くす。まずは帰国を許そう。他には何が望みだ」
「まあ。切り捨てた挙句に家へ帰れだなんて。…殿下に尽くしていただく礼などございませんわ。せいぜい足りぬ后にご不便なさればよろしいのです。お許しが出ましたのでわたくしは早速帰国させていただきますわ。六年間ありがとうございました。それでは、ごきげんよう」
美しく膝を折ってその場を辞するツェツィーリエ王女は、始終笑みを絶やさなかった。硬い表情のままのレオンハルトと、その隣で怯えきっている見知らぬ令嬢は黙ったままその去り行く背を見送る。
ギルベルトも口の中で舌打ちをして、ツェツィーリエの後を追った。
ツェツィーリエに与えられた部屋は東棟の塔に位置する。
学業に専念できるように静かな部屋を、と取って付けたような理由を侍女長が説明していたが、こうも「おまえは人質だ」とアピールせずとも、ツェツィーリエは良く弁えているのに、とギルベルトはこれにも苦い思いをした。
「姫様、お帰りなさいませ。荷造りはもうすぐ完了しますが」
「ありがとう、エマ。続けてちょうだい」
塔ではすでに王女の連れて来た唯一の侍女が荷造りをしていた。
ギルベルトは「ん?」と内心で疑問に思いながらも、部屋に入るなり深く嘆息したツェツィーリエに心配そうな視線を向ける。
王女は両手で顔を覆って俯いてしまった。
強がってはいてもやはり相当にショックだったのだろうと、小刻みに震える細い肩にギルベルトも眉根を寄せる。
なんと声をかけたものだろうか。傍にいたほうが良いのか、それとも一人にしてあげたほうが良いのか。ギルベルトは無意味に手を上げたり下げたりしながらおろおろと王女を見守っていた。
数分もしないうちに奥の隠し扉が開いてレオンハルトが姿を現した。
どこか憮然とした表情の主君の登場に、ギルベルトは驚く。
「……ツェリ」
つい先ほど婚約破棄を言い渡した相手とは思えぬほど親し気に、レオンハルトは顔を覆って俯いているツェツィーリエを呼んだ。
無論、ツェツィーリエは応えない。
「――ツェリ」
「……殿下、今は」
「ツェリ。笑いすぎだ!」
「へ?」
ギルベルトは驚いてツェツィーリエを振り返る。
震えている肩は、言われてみれば笑いを押し殺しているようにも見えた。
「ツェリ!」
「ふっ、うふふふっ」
「…え? つまり?」
「おまえもあんな茶番に本気で怒るなよ、ハンネス」
「茶番?!」
「私たちがいずれ婚約を解消することは知っていただろう」
「いや、それにしては本物っぽかったんで。いつの間にか本気になっちゃった、とかアリかな、と」
「ふふっ。ふふふっ」
「ツェーリ」
「ふふ。だってレオ様。“真実の愛”ですって。ふふふ」
「恥ずかしかったのは私だ! というか台本を考えたのは君だろう。演らせておいて爆笑するって、どういうことなんだ」
「うふふふ。まさかそのお顔にあんなにも似合わないセリフだとは思っておりませんでしたの。ふふ。最後に良い思い出ができましたわ」
「私の顔が悪いみたいに言うな。これでも姿を見ただけで失神するレディもいるんだぞ」
レオンハルトは苦笑しながら、うふふと未だ笑いの収まらないツェツィーリエの手をそっと取った。きゅっと真剣な表情をする主君に、ギルベルトは“これから何かが起こるだろう”予感を覚えた。
「準備はできているな」
「はい。着替えればすぐにでも発てます」
「分かった。ハンネス。おまえもすぐに飛行服に着替えろ。ツェツィーリエをブラル王国へ送り届けるんだ」
「今から?」
「これほど有能な女を帝国がおいそれと手放すものか。下手をすれば監禁されかねない。すぐに発て。追手は私が引き留めておく。絶対に無事送り届けろ。いいな」
「御意に」
「ツェリ。我が生涯の友よ。君には心から感謝している。何か困ったことがあれば私を頼れ。必ず役に立とう」
「レオ様はお友達というより共犯者ですわ。そして誰よりもわたくしを理解してくださるお兄様。帝都で学んだことは決して無駄にしません。また必ずお会いしましょう」
二人がぎゅっとハグするのと同時に、侍女が着替えを持って現れた。
感動の別離シーンみたいだが、展開が早すぎてギルベルトには付いて行けていない。何がなにやら分からぬうちに飛行服一式を渡され、別室で着替えろと急かされた。
ツェツィーリエを守り送り届けることに異論はない。むしろ望むところだ。
だが先ほどの婚約破棄からすべて計画通りなら、一言くらい教えてくれてても良かったんじゃないかと、ギルベルトは少々不満に思った。
――だってギルおじさまは演技が下手なんですもの。
ツェツィーリエの声で幻聴が聞こえた気がした。否。おそらく不満を口にすればそう言い返されるだろう。ぐうの音も出ない。
ギルベルトが部屋に戻れば、ツェツィーリエの着替えはすでに済んでおり、長い髪を侍女がまとめ上げている途中だった。
レオンハルトの姿はすでにない。
やはり早すぎる展開に流されているだけのギルベルトは、彼女たちの会話で侍女は別行動を取るのだと知った。ブラル王国の騎士が侍女の迎えにすでに帝都入りしており、荷物と一緒に馬で陸路を往くそうだ。
あれよあれよと流されるまま、侍女に「姫様をお願いいたします」と見送られたギルベルトは、ツェツィーリエを抱え、身体強化の簡易魔法を使って城壁を飛び越えた。まさか人のほとんどいない東棟の塔をツェツィーリエの居室に与えたのはこれを考えてのことだったのかと、ギルベルトは遅れて感心した。
着地したそこには馬が用意されていて、目立たぬよう単騎で森を駆け、北の端の崖に向かえとのレオンハルトの指示をツェツィーリエの口から聞く。そこにギルベルトの飛竜がすでに飛行準備を整えスタンバイしているらしい。
完璧だった。
その用意周到さにギルベルトは感心を通り越して少し呆れてもいた。
六年も前からすべて計算されていたのだ。否。ツェツィーリエを帝都に呼び寄せるのに二年ほどかかったと言っていたから、もう八年ということになる。
八年前といえばレオンハルトはまだ十二歳。ツェツィーリエにいたっては十歳という幼さだ。二人は出会ったばかりのその時に意気投合し、そして帝国の未来をさえ二人きりで変えてしまったのだ。
「……怖っ」
「なにか言いまして?」
「いいえー。口閉じてしっかり掴まってな。急ぐぞ」
「はい」
返事と同時にツェツィーリエが背中からぎゅっとギルベルトにしがみつく。
六年前、ブラル王国から飛竜でツェツィーリエを連れて来たのもギルベルトだった。あの時はまだ両腕にすっぽり収まるほど小さかった少女が今や立派な大人の女である。
年を取るはずだ。
昨年、四十路入りしたギルベルトは内心でしみじみとぼやいた。