生きて帰って
少し、時間を遡った頃。
祈りの間に一人で入り、アミナは胸を抑えて、心を落ち着けようと努めていた。
戦いは夜明けには始まってしまうだろうと耳にしたので、悩む時間はあまりない。
ルーディウスが、アミナを嫌いだといったのが、本当なら。
婚約者という繋がりも失い、嫌われてしまって気持ちの繋がりも失ってしまっては、ルーディウスに届けられる祈りは、とてもとても小さなものになってしまう、かもしれない。
聖女と呼ばれていようと、大切な人にこそ祈りを届けたい。
そう思ってしまう。
そう思っていいのだと、祖母に教わった。誰も心は、自由なのだと。
祈りの間は円形をしていて、中央に据えられた巨大な透明な鉱石は、聖女の祈りを増幅し、媒体として国中に届けるという。
あくまで人の身である聖女の限られた力を、何万倍にも膨らませてくれる代わり、細かいことは不得手なようで、対象をうまく絞ることができなくなる、と祖母は困ったように言っていた。
一人に強い効果を及ぼしたくても、地域全体あるいは集団全体に弱い効果が広がるのだ、と。
伯爵家に嫁ぎ、良き夫と子に恵まれ幸せを得た祖母が、祖父の死後とはいえ王宮に住んでいたのは、この祈りの鉱石を調べるためだったようだ。聖女はラ・ラーナの家にしか生まれず、一代に一人きりであるため、研究らしき研究はされていないから、と。
アミナは細かい数値や比較は苦手で、祖母の語ってくれたことを信じるほかはない。いつ戦いが始まってしまうかわからず、あれこれ考える余地はない。
方法は、ひとつしか思いつかなかった。
アミナの祈りが増幅されて戦場に雨のように降り注ぐ時、その一粒一粒に、命を救う力があれば良い。
試したことはないし、祖母から聞いたこともない。
けれど、アミナは幼い頃から、祖母が驚くほどに、祈りを自在に操ることに長けていた。どうすれば祈りが強まるのかは、きっと体が知っている。
あとは、どれだけの間、強い祈りを維持できるか。
そう、ふと考えてしまって、怖くなった。限界を超えて祈ったときにこの身に何が起こるかは、わからない。警告のように、頭が痛んだ。一人きりの静かな空間が、圧し潰されそうに重たく感じる。
泣きそうな思いで、鉱石に手を触れた。祈りも何も関係なく。少しだけ寄り添うものが欲しくて。
ひやりとした滑らかな表面は、いつもと変わらず傷ひとつなく、うっすらとアミナの眉の下がった顔を映している。
この一年は、ここで祈る時はいつも、この透明な鉱石の中にルーディウスの姿を思い描いて祈っていた。
そのルーディウスが、もし、命を落としてしまったら――。
もうアミナは、ここで祈る気持ちにはなれないかもしれない。
いまが、ルーディウスのために祈る、最後の機会かもしれないならば。
「お願い、ルード様。生きて帰って」
アミナは両手を鉱石に触れると、目を閉じた。
後悔はしないと決めたのだ。
どれほどの時間が経ったのだろう。胸が、熱くて痛い。息が苦しい気がする。けれどまだ。もうすこし。
激しい音を立てて背後の扉が開き、アミナの祈りは中断された。
振り返れば、憤怒の顔の国王がいて、アミナは思わず、どなただろうか、と呆けた。見たこともない、赤らんで目を剥いた形相では、疲弊したアミナには人の判別がつけられなかったのだ。
「なにをしとるかぁ!!」
状況を把握することもできないまま、アミナはずかずかと寄って来る国王を見上げた。何か不都合があって怒っているのだろうか、とぼんやりと心配したほどだ。
跪いていたアミナの目の前に、国王の足底が上げられ、どっと衝撃が来て、アミナはあえなく床に蹴倒された。何が起こったのか、わからない。ただ、怖くて、アミナは床の上に小さく固まった。
「離せ、オルヴェルト! お前、なぜここに」
「父上こそ、この有事に随分と呑気な質問だ。祈りの媒体の城内の礎石がいくつか損壊したと知らせがありました。各地の礎石も壊れている可能性があ。悪ければ暴走するのではと危惧の声が上がったため、聖女を止めにきたのです」
「な、なに、礎石が?」
「珍しい事態のようですが。聖女は消耗しているようですし、よほど強く祈ったのでしょう」
冷たい青い目がこちらを見たようだが、アミナは腕が腫れ上がったように痛んで、徐々に、意識が暗くなっていく。
オルヴェルト王子が国王の襟首を掴み上げている異様な状況にも、国王が襟首を掴み寄せられていなかったら、壁まで蹴り飛ばされていたかもしれないことも、なにも気づいてはいなかった。
「そんな莫迦な。斥候が、祈りの効果どころか、我が軍が近衛を蹴散らしていると」
「その報告に、まずここへ来られるとは。かつては剣を取り軍を率いておられたはずが、錆び付いたものよ。まして、あわよくば聖女の庇護下に入らんとしてこれを脅すのは、極めて下策。――父上、もう少し国王のふりをしていただきたかった」
国王は息子を、未知の生き物を見るように見た。
オルヴェルト王子は、抜きん出た才能を発揮することに熱心ではなく、王子という地位に倦んでいるようだった。王位にも、国にも、人にもさして興味も執着もなく、興味の向いたことだけをして気ままに過ごす、刹那的な本質の男だったはずだ。
少なくとも、国王はそう分析していた。
いつものオルヴェルト王子であれば、淡々と聖女の祈りを止めて、よしとするはずだ。このように、父王をあえて責めることはしないだろう。興味がないのだから。
混乱する間に、国王の足が、床から離れかけた。目の前の息子の腕に取り縋るほか、息をする術がない。
「父上。あなたは、王家の血が薄い」
「何を、ぐう、は、はな、せ」
「自覚しておられないようだが、私たち兄弟よりはるかに薄い。代わりに、人を見る目はある。そう自負しておられる。だからこそ驕って目も曇り、王家に王子が二人という、最大限に緊張を要するはずの状況で、そこまで呑気でおられる」
オルヴェルト王子は19、ケルヴィン王子は18。二人が一年弱の年の差で生まれて以降、今は亡き王妃も、王家に縁深い重臣たちも、王子たちが平等に扱われることを、神経質なまでに徹底した。
同じ乳母、同じ家庭教師、同じ学友、同じ作りの部屋、同じ宮殿の右翼と左翼。まるで双子のように、いつも行動を共にし、同じものを食し、同じことを学ぶ。
複数あるものは同じものを、一つしかないものは、時間を決めて譲り合う。
「この国のふざけた昔話。聖女と共に悪狼退治をし、その骸から力を抜き取り飲み込んだ男が初代国王となったという話。あれが、全ての始まりだ」
「ひゅーひゅー」
か細い息を継いでいる国王は、それでも、自分より縦にも横にも大きな息子を強く睨んだ。
「王家の兄弟は、どちらかが王で、どちらかが悪狼だという。——父上以外は皆、そう信じているようだ。だから兄弟を等しく扱う。どちらが王でもいいように。平等でなければならぬそうだ。王家の血は、悋気が臭うほどに強いからな。悪狼が己より優れていれば、己より良いものを手にすれば、王は気が狂うほど羨み妬むのだろう。兄弟とは、とかく互いが気になるものらしいゆえ、特に」
「ひゅ、ひゅ」
苦しげに、国王の目玉がぎょろりと動き、アミナが倒れているだろう方向に向いた。
「なぜ今この話をするのか、わからぬか。むしろ羨ましいほどの鈍感さだな」
ぎりぎりと衣服が重さに悲鳴をあげる。国王の口の端から、泡が噴き出た。
そして唐突に、オルヴェルト王子は国王を壁際に向かって放り投げた。国王は重たい音を立てて倒れ伏すと、そのまま動かなくなった。
すぐさま軍装の男たちが音もなく駆け寄り、国王を抱え上げた。
「薄いとはいえ、血の繋がりがあると、こうなるのか。父上が聖女の命を握った瞬間を思うだけで、まだ反吐が出そうだ。忌々しい」
ふ、と息をつくのも珍しいが、周囲の男たちは誰も余計なことを口にしない。凍りつきそうな美貌にさして動揺も見せず、難儀だな、とつぶやいたオルヴェルトは、祈りの間をあっさりと後にした。
ぐったりとした国王を抱える男たちが、追従する。
廊下には、神聖とされる場所での乱暴な気配に驚いて多くの使用人が様子を伺っていたが、オルヴェルトたちの姿を見て、すぐさま姿を隠した。
「父上は私室にお連れしろ。錯乱されておる。死んでいただいてもいいが、面倒だ。薬で眠らせよ。祈りの間は、封鎖せよ。何人も私の許可なく立ち入ることを許さぬ」
立て続けに指示をして、そのまま歩き出し。ふと、足を止めた。
「聖女は、王命に反し、敵味方お構いなく救わんと命を削って祈った阿呆だ。笑い話にもならん。重大な叛意があるはずもないが、牢に入れておけ。
――人質でもあり、切り札でもある。傷はつけず、死なせるな」
男がひとり引き返して、聖女を抱えて戻ってきた。オルヴェルト王子はそれを一瞥もすることはない。
彼らが去った後の廊下は、血の一滴もなかったが、どこか殺伐としていた。
隠れていた使用人たちがそっと姿を現し、そしてすぐさま、何処かへと皆散っていった。
全体を見直して、あまりに説明が乏しかった前半を中心に、説明を追加しました。
エピソードも話の流れも変更はありません




