全軍、反転
援軍到着の報がもたらされたのは、それから僅か30分の後。
わずか、30分、されど、永遠に感じられる30分だった。
押し合いぶつかり合い、斬り合いながらも、傷つかず疲れを知らない体。まるで神話の大戦争に紛れ込み、壁画の中で永遠に戦っているかのよう。
時が経つのを示すのは、空の色ばかり。
代わり映えなく、不毛な演技を続けるのに飽きるだけではなく、肉が裂け血が溢れても一瞬ののちに傷ごと無くなる違和感に、少しずつ、皆が根源的な怖れを抱き始めた、それが、30分後のころだった。
戦場の違和感に、歴戦の戦士たちは特に過敏だ。
聖女の祈りとは、と誰もが考えた。聖女の祈りとは、呪いではないのか。
かつての戦場で、聖女の祈りに救われたことがあったとしても。それは優しい手のひらのごとく、少し苦痛が和らぐような、そんな祈りだった。それは勇気となり、慰めになったが。
だが今の祈りはまるで異質だ。暴力的なまでの祈りの効果によって、常識が、正常が、歪められてしまう。
屈強な男たちが、この戦場にこれ以上長居をしたくないと、そう思っても、仕方ない。どんな過酷な戦場でも弱音を吐いたことのない老将も、青褪めていたのだから。
「援軍の位置は」
「背後、三方向から接近、3000メル」
「よし、伝令ここへ。いいか、一言も違えるな」
ケルヴィン王子は、彼自身にとっても恐ろしく重たいはずの指令を、その場に集まった主たる将たちの前で、淡々と告げた。
「我が父王の代になり、この国の暴政は一層苛烈になった。父は宮廷貴族共に唆され、己の欲望のまま私兵となした近衛軍を動かし、近衛軍は人の心を失って民を虐げ、民は自国の兵をこそ恐れている。
私はこの王に対し退位を求め、現体制を変革することを決めた。――全軍、今より進行方向を逆転、王都方面から来る援軍と挟み撃ちにて、我らの後方についている近衛軍を殲滅し、そのまま王都へ入り、国王の身柄を抑えるべし」
側近たち、将たちが一瞬互いに目を交わし、そして深く、頷いた。彼らは第二王子の選別した側近であり、また肝煎りの将たちだ。ここで尻込みをする者はいない。
それに、彼らは隠しつつもほっと安堵している。これで、この終わりのない壮大な舞台から、降りられるのだ。
「全軍、反転」
ケルヴィン軍は、指令に従い速やかに隣国の軍との交戦を停止し、その場で一人一人がくるりと向きを変えた。
敵は目の前。間延びした陣形で傍観を決め込んでいた、近衛軍。彼らもまた、祈りの恩恵に預かったのだろう。薬漬けの濁った目に、光が戻っている者もわずかにいるようだ。
だがそれだけだ。彼らは金狼の紋章を縫い取った緑の軍服を着て、この戦地に立っている。それはもはや、敵兵の印なのだ。
だらけきり、座り込んでいる者もいた近衛兵たちは、目の前でケルヴィン王子の軍がこちらを向いたことに、理解が及ばない。すぐさま武器を手に取った者は、半数に及ばなかった。
殲滅は、容易い。普通であれば。
だが、聖女の祈りは、この局面においてはケルヴィン軍にとって大きな妨げになるだろう。
前線に位置することになったケルヴィンも、祈りのために疲れを知らず力に満ちた騎士や兵たちも、一瞬、気が遠くなったが。
その大軍の睨み合いの只中に、ガツガツと土を飛ばし駆け込んだ一騎がいた。
顔を覆う布を剥ぎ取り、その黒い髪と鋭い風貌を晒す。
ルーディウスは、その体躯に気迫と殺気を漲らせて、剣を一振りした。
空を斬る音は、鋭く高い。
だが、その剣は兵士が二人がかりでなければ持てないほどの重さである。それと知るものには、その軽々しい音は、死の音に聞こえる。
「さて本番だ。これだけの祈りだ、いくら聖女アミナでも長くは持つまい。
いつ、その効果が切れるか。誰の番に切れるか。——誰もが無事でいてほしいとの聖女のお気持ちは尊いが、人の心のない貴様らの死には、聖女も目を瞑ってくれるであろう。賭けてもいい。もう貴様らの奥の手は、使えない。聖女の祈りを騙ることは、もう許されない。
楽に死ねると思うな。祈りの効果が切れるまで、貴様らは我らにどれだけ恨まれているのか、思い知ることになる」
ざわり、とケルヴィン軍の殺気が膨らんだ。
近衛兵たちの品性下劣、乱暴狼藉の所業は、真に耐え難いものだった。
彼らは模擬遠征と称して、国王にとって不都合な地方領主を殺害し城を破壊した。害獣討伐に出れば、害獣に成り代わって収穫物を横取りし、人を攫い村を焼いた。
彼らの実態は、国の軍ではなく、国王の私兵だ。少しでも叛意を見せれば、近衛軍が送り込まれ、好き放題に貪り尽くされる。
各地の領主はこれを恐れ、領軍を持つことを断念し、人質のように子弟や領地の若者を王都へ送った。その若者たちの多くが今、王子たちの軍に入ってここにいる。近衛軍が請け負うことのない、危険な任務や露払いに従事して来たのだ。やつらに嘲笑われ、見下されようと、せめて故郷に役に立ちたいという思いで。
それでも幾人の領主とその家族が殺されただろうか。幾度、収奪され尽くして冬を越せずに死ぬ命を見てきたか。気紛れに嬲られて死んだ同僚だっている。身内が殺された者もいる。
そして世襲貴族の子弟たちもまた、側近として、兵として、それを為すすべもなく見守ることに苦しんできた。なぜ、奴らをのさばらせたままにするのか、ただ静観するだけの当主と対立して家を出た者もいる。王子たちに失望しかけていた者たちも、いるだろう。
どれほど、こうして敵として対峙できる瞬間を夢見たことか。
そうだ。今なら。
双方死なず、決着がつかぬのであれば、つくまで叩きのめせばいい。
長きに渡り、目の前で暴虐を尽くされても、同じ人であることを疑うやり口で貶められても、耐えて耐えて、耐えて来たのだ。
奴らが簡単には死なない方が、手応えがあるというものだ。
血の涙と共に埋めた怒りを掘り出すように、すべきことを見定めた男たちは、低い低い唸り声を絞り出した。ケルヴィンの周りの将たちが、足を踏み鳴らし始めた。唸りは大きく、高くなり、全軍の足を鳴らすリズムが、拍動と重なっていく。
地が揺れ、砂煙が舞い上がり、何かが地底から這い上るかのようだった。
ルーディウスは、身じろぎもしない。楔のように、馬上にある。
飲まれたように、近衛軍も凍りついていた。
ケルヴィンが馬に飛び乗り、自身の色である赤紫の穂がついた槍を、采配がわりに高く掲げた。
ひたり、と、全軍が静まった。
その静けさに、凍りついていた近衛兵たちは、ひ、と息を飲み。
「かかれ!」
槍が振り下ろされる。
ルーディウスが先陣を切って、近衛兵が七、八人、宙に舞った。
地滑りのような音を立てて、ケルヴィン軍が押し寄せる。
近衛兵たちを守っていた不思議の力は――発動しない。
近衛兵たちは、吸い込んだ息をそのまま、悲鳴と叫びに変えた。ある者は座り込んだまま尻で後退り、ある者は武器を捨てて背を向けた。彼らの眼には、恐怖しかない。
逃げ惑った先には、ケルヴィンの息のかかった援軍が、王都へは一人も逃さぬ構えで網を広げている。
勝敗は、すでにここで決していた。
狼騎士の見せ場でした。
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全体を見直して、あまりに説明が乏しかった前半を中心に、説明を追加しました。
エピソードも話の流れも変更はありません




