狼は陽だまりに微睡む3
番外編三話目
だから、仲直りはできたはずなのだ。
なのに、距離が開いた感じがする。
何故、視線を合わせてくれないのだろう。
慣れない部屋の寝台に腰掛けて、スカスカする胸を撫でた。
祖母が亡くなった時と似ている。自分が穴だらけで、冷たい風が吹き抜けるたびに、冷えていく。
これは、淋しさだ。
目が冴えて眠れないまま、寝台に横になって天井を眺めてると、ふと視界の隅に眩しさを感じた。
祝福の息吹に満ちた金の影が、扉の前にいる。
アミナは何も考えずに起き上がると、扉に飛びついて、それを引き開けた。
「アミナ……!」
ルーディウスの手には、桶がある。湯気が見えるから、体を拭くために用意してくれたのだろう。アミナはハーブ入りの水で拭いて、済ませてしまったが。
また、世話を焼いてくれようとしていたのだ。長い旅の道中と同じように。
ただ、扉を開けて向き合う気は無かったのかもしれない。扉の横に置いて立ち去るつもりだったのかも。
ルーディウスは明らかに、しまったという顔をした。
「ありがとう、ルード様。重たそうなので、あそこに置いてほしいの」
ルーディウスの逡巡に気がつかないふりをして、アミナは寝台横の床を指し示し、そのまま扉を押さえた。
宿には人が溢れている。
階下では食事も提供されているらしく、階段につながる廊下は騒めいて、今にも誰かが上がってきそうだった。
アミナはすでに、簡素な寝衣一枚だ。
誰かに見られてしまうかもと思うと足が震えたが、笑顔のまま、掌で部屋の中を示して見せた。
けれど、瞬きをする間に、アミナはルーディウスに腰を抱かれて室内にいて、支えを失った扉がバタリと大きな音を立てて目の前で閉まった。
「……?」
何が起こったのか分からずに、ルーディウスの腕にしがみついて見上げると、アミナから遠く離した片腕に桶を持って、その腕からバタバタと湯が落ちていた。
「あ! やだ、ルード様、火傷」
「火傷する温度じゃない。大丈夫だ」
「でも…」
「大丈夫だから、祈らなくていい」
そっとアミナを離すと、ルードは湯の残った桶を床に置き、濡れた腕を拭うと、アミナの前に示してくれた。確かに、僅かに赤みが増しているかもしれないが、火傷にはなっていないようだ。
代わりに、太い腕には大小の傷跡がある。薄く色が変わるくらいの跡だが、太い腕を横切ったり、筋肉に沿っていたり。
日頃は袖に隠れているが、今はルーディウスも、くつろいだ袖の短い薄手の服だ。
いつか、小舟を操る時、葡萄で汚れた足を洗ってもらう時、捲った袖からちらりと覗くこともあっただろうけれど。
アミナは顔を寄せて、繁々と一つ一つの傷を眺めた。
「……アミナ、祈らなくていいから。もうどこも痛くはない」
心配そうに言われて、気がついた。
あの時、ルーディウスの腕はどこで切れたのだろう。もう、何も違和感なく使えているように見えるが。
急に気になって、アミナは、片手で腕を捕まえて、片手でするすると滑らかな肌をたどり、上腕まで撫で上げた。
不思議だ。肌は滑らかだけど、皮膚と内の固い筋肉とが、はっきりと動きが違う。内側から柔らかな自分の腕とは、何か違う。
「アミナ」
撫で上げた手を、掴まれた。
「祈ってはないわ」
「違う」
「私が祈ると、ルード様に負担がいくでしょう? だから、簡単には祈りたくなくなったの。今度祈る時は……相談します」
アミナはきりりと真面目に言ったつもりなのに、何故かルーディウスは、困ったような顔になった。
あ。
アミナの胸が弾む。
今、目が合っている。
青い目が、逸らされることなくアミナを見ている。
「あなたは……きっと分かってないんだろうな」
「何が……?」
「あなたが祈りたくないのは、俺が辛いだろうから、だ」
「そう、ね」
「俺があなたに祈って欲しくないのは、あなたが辛いのが嫌だからだ」
「そう、なの?」
目が覚めたみたいに、アミナは瞬いた。
祈りに多少の苦しみや疲労が伴うのは、聖女としてのアミナには当然のことで、長く歩けば足が疲れる、それと同じだと受け止めていた。
「そう、か、ルード様も、私が祈る時にそんな気持ちだったのね」
労わられているとは感じていたけれど。
ルーディウスに祈りの負荷が及ぶと知った時の気持ちを思い出して、切なくなった。
「ごめんね、ルード様、わたし」
言いさしたアミナを、強い腕が攫って、寝台に腰掛けさせられた。さっきまで手の中に腕があったはずなのに、今はアミナが、その腕の中だ。
「アミナ以上に、俺の方が謝らないといけない。
アミナにとってごく自然な祈りを、俺のために控えようと思ってくれるとは、思ってなくて。俺は、アミナにそこまで想ってもらってるなんて、想像しなかった。慕ってくれてるとは、思っていたが……俺の想いの方が、馬鹿みたいに重たいと、決めつけた。アミナを、見縊っていた」
とても、すごいことを言われている気がする。
アミナは真剣に聴きながら、全部の言葉を胸に刻み込もうとした。
「だから、アミナが俺の想いを見誤っていても、責められない」
「見誤ってないわ! 絶対、絶対私の方が好きよ!」
そこは胸に刻めない。間違っている。
「私の方が…! だって、私だったら、絶対、絶対、離れない……」
「そうだな、アミナなら、離れない。きっと一緒にもがいてくれた。……ごめん、アミナ。ごめん。そんな俺をまた選んでくれて、ありがとう」
「だって……好きだもの」
ルーディウスが近づいて、そっと唇が重なった。
どこまでも純粋に青い目が、少し緩んで、春のよう。
「俺の方が、好きだよ」
「私の方が好きよ」
「好きの種類も、違う」
「こ、恋してるわ」
にっとルーディウスが微笑んだ。
悪戯っぽい表情に、アミナはドキリとした。もう一度、口付けてくれるだろうか。
だが、ルーディウスはふと体を離し、アミナの前に屈み込んだ。
「足を洗おうか。湯は冷めたが、この季節ならいいだろう」
何気なく見上げて来る青い目に、咄嗟に体が怯えた。足なら、以前も洗ってもらった事がある。けれど。笑みの陰に、激しい渇きを見たような。
アミナの怯えを、ルーディウスは見たはずだ。
いつもなら、笑みを優しく変えて、なかったことにしてくれるはず。
けれどこの時は、無言で自分の膝の上に布を置き、桶を引き寄せた。
「今日は長く座っていたから、足も辛いだろう。洗いながら、ほぐしてやりたい。出して」




