狼は陽だまりに微睡む2
番外編二話目
アミナと、名を呼ばれることが増えたのは、婚約してどれくらいしてだっただろうか。
それはアミナを呼ぶ名なのに、ルーディウスが口にすると、もっと深い意味を持つように響く。どんな嵐の中でも、眠っている時だって、きっとこの声を聞き逃すことはないだろう。
木立の中でじっと待ち続けるうちに、アミナは自分が炙られているように感じられていた。烈しい日差しに焼かれるように、背が、首筋が、ヒリヒリと痺れた。
呼びかけてもらう前から、アミナはその浴びせられる熱に浮かされたようになっていた。
息を吐くと、息が熱く唇を撫でた。
祝福の息吹が、周囲で舞い始めていた。アミナが祈りに似た強い思いを抱くと、こうしてさざめくのだ。
背後の金の気配は、まだ動かない。
――いや。
アミナの祈りが通じたように、一歩、また一歩、と踏み出した。
「アミナ」
呼びかけられた声は。
それまで何回もかけられたどの声よりも甘く切なく、アミナを何重にも包み込みそうな、柔らかな声だった。
「アミナ」
もう一度。今度は、少し強い。
振り返って欲しいと、視線が欲しいと、訴えている。叶わなければ、無理をしてでも捕まえようとするような、少し硬い声。
アミナは、すでに真っ赤になっているはずの顔をそのままに、そっと後ろへ向き直った。
二人が手を伸ばせば、届く距離。
その向こうに、あの時別れを告げた人が立って、アミナを見下ろしていた。
覚悟を決めて振り返ったはずなのに、言葉が消えた。
何を言えばよかったのか、何を聞きたかったのか。
ただ、もう一度こうして会えたことが嬉しくて、アミナは真っ赤な顔のまま、にっこりと笑った。
小さな喧嘩をしても、ちょっと拗ねている時でも、顔を見れば、心が浮き立つのだ。アミナにとっては自然なことだ。
できれば、ルーディウスにも、笑ってほしい。
向かい合ったかつての婚約者は、険しく厳しい表情のまま立ち尽くしていて、アミナの心まで固まってしまいそうだったから。
近くに気配を感じて浮かれていたのは、アミナばかりで、もしかするとここにルーディウスがいるのは、命じられてやむなくなのかもしれないと、薄雲のような不安がまとわりついた。
「ルード様」
笑って、と続ける前に、ルーディウスがもう一歩近づいて、さっと体を沈めた。
直接地面に両膝で立ち、両手を後ろに組んで、そして、深く頭を垂れたのだ。
「……えっ」
驚いたアミナが、頭を上げてもらおうと手を伸ばしたのを、視界に入れないまま。
「すまない、アミナ。私が、愚かだった」
と潔い謝罪を捧げられたのだった。
「謝りたいことが、幾つもある…まずはあの夜会で」
「ルード様!」
アミナはしゃがみ込んで、俯いたルーディウスを覗き込んだ。相手の謝罪を遮る、かなりの無作法に、ルーディウスも驚いているようだ。
謝りたいことは、アミナにだってある。大事なことなのも、わかってる。
けれど。
「せっかく会えたのですから、笑って話せるお話からしませんか」
「しかし、私はまだあなたに、謝っていない」
「なんで、ですか?」
「……?」
ルーディウスが、珍しくきょとりとした顔になった。
眉が上がって目を丸くしていると、少し少年めいて、かつて王宮で見かけた姿を思い出させる。
アミナはますますにっこりと微笑んで、しゃがんだまま、自分からも、一歩分、じりじりと近づいた。
「なぜ、私に謝ろうと?」
「……許しが、欲しくて」
「私の、許し。なんのために、ですか?」
誘惑するように、甘えるように、聖女らしくなく、はしたなく、アミナは微笑みながら、ルーディウスに罠を仕掛ける。
ずるい自覚はある。
アミナだって、ルーディウスに何も告げていない。
それでも、聞きたい。
いいでしょう?
語りかけるように、じっと見上げた。
視線を絡ませた青い目が、いつもより濃い。吸い込まれそうだ。
息を詰めていたルーディウスが、ふと一瞬だけ痛そうに、泣きそうに顔を歪めてから、短い息をついた。
「……あなたを、愛していて、あなたに、愛してほしいからだ。これからの人生を共に一緒に歩きたい。あなたに愛を告げて、もう一度結婚を申し込みたい。
――だから、俺が愚かにもあなたを傷つけたことを謝罪して、許しを請いたい」
ルーディウスが言い終わる頃には、アミナはもう、ルーディウスの腕の中にいた。アミナが、膝立ちのルーディウスに飛びついたのだ。
「私も、あなたの側にいたい。あなたのために祈るだけじゃ、やっぱり淋しい。こうして、顔を見て、声を聞いて」
アミナはぴたりとルーディウスの胸に頬をつけて、その駆け足の心音に耳を澄ませた。
「命の音を聴いて、生きていきたい。――そのために、私もあなたに謝りたい。あの時、あなたを置いて、離れてしまったこと。私もあなたの許しが欲しい。私はあなたの側にいて、あなたの迷惑にならない?」
許してくれるなら、抱き締めて。
アミナの囁きは、肌を通じてルーディウスだけに伝わって。
はじめは躊躇いがちに、すぐに、強く、深く、溶け合うように。
鮮やかな夏の日差しが、木立の間、まろやかな鈍色の石に降り注ぐ傍らで、二人は長い間、一本の木のように抱き合っていた。




