狼の孤独
実母の記憶はあまりない。父から語り聞かされた武勇伝ではとんでもない人だったようだ。母の強さが際立つほど、どれほど強くともいなくなってしまうのだと、幼いながら死別を恐れた。
実父はカスティラ家の領地の屋敷で庭師となり、五年ほどして再婚したと聞いている。カスティラ家に引き取られたあの日、髪をぐしゃぐしゃにされて以来、ルーディウスは実父に会っていない。死に別れたわけではないが、実父はルーディウスの側から、ある日突然いなくなったことになる。
カスティラ家はすぐにルーディウスの新しい家族になった。その日の夜から、カスティラ家の兄弟は大人の目を盗んで、ルーディウスの部屋の寝台に潜り込んできたので、一人で泣く暇もなかった。屋敷の怖い話を延々語ってきた結果、三人とも朝日が昇るまで必死に耐えることになった。弟は少し寝衣を濡らしていたはずだ。
ルーディウスは、新しい家族を得た。
けれどルーディウスは、持っているものは失う可能性があることを、いつでも念頭に置いていた。
兄弟が大切にしているのだと、自慢げに触らせてくれた小鳥も。
弟が世話をする当番の日に世話を怠り、兄がそれを咎めて喧嘩になった。兄は拗ねた弟に腹を立てながらも、小鳥のためにその世話をしようとした。
籠を開けた時、部屋の窓が開いていることに、ルーディウスは気づいていたのに。
小鳥の死骸を隠しておきたいとカスティラ侯爵夫妻に願い出たのは、小鳥がどこかで生きていると希望を持てる方が、兄弟にとって良いと思ったからだったが。
そこには、自分を責める気持ちもあった。ルーディウスが、先回りして窓を閉めておけば、小鳥は死ぬことはなく、兄弟は泣くこともなく、幸せなまま、続く日々を過ごせた。
だから、せめて兄弟の辛さを軽くしたかった。
カスティラ侯爵夫人、養母が、落馬をした日も。
その日の朝は雨が降っていた。
兄弟と三人で図書室で課題をこなし、昼食のために本邸への渡り回廊を歩いていて、庭に侯爵夫人の乗馬姿を見た時の、氷を鳩尾に突き刺されたような、恐ろしい予感は、今でも思い出せる。
悪戯盛りの弟が、その前日に、庭に金貨を埋める穴をたくさん掘ったと知っていたからだ。
侯爵夫人の乗った馬は、平らなはずの庭にあった予想外の穴に足を取られ、玩具のように転がった。
馬の巨体が華奢な夫人の上に乗り上げたのを見た時には、ルーディウスは回廊の手摺を飛び越え一直線に夫人の元へと走っていた。
絶命しきれず暴れる馬の下から、何度か弾き飛ばされながらも夫人を引き出す。そして、この馬が暴れ続けてこの現場が荒れればいい、とルーディウスは願った。
夫人の馬が足を取られたのは、このところ庭師を悩ませていたウサギの穴だと結論づけられた。ルーディウスは、馬の影にあった泥だらけの金貨のことを、誰にも話さなかった。
けれど、ルーディウスの小細工など何にもならず。夫人の死は重く、侯爵家の家族はバラバラになった。
やはり、何かを持てば、それを失う。
失うならば、新たに大切なものを得たくはなかった。
残された家族だけを、せめて全力で守りたかった。自分の安全など、二の次だ。だから必死に、養父に言われた通り、王宮で生き延びたら。
ルーディウスは、アミナを得てしまった。
得たくはなかった、新しい大切なものを。
いつかまた失うだろうという想像は容易いのに、出会ってからはもう、どんどん惹かれていく。失いたくなくなる。
婚約をしているのだ。結婚まで障害はないはずだった。手に入る。
いつまで?と体の奥から囁きが聞こえる。
たとえ結婚できても、いつかどこかで別れの時が来るかもしれない。そう考えると、気が触れそうだった。
ルーディウスにできることは、その別れを精一杯先に伸ばして、共に過ごせる日々を少しでも濃く長く――。
けれど、そんな泡沫の夢と、アミナの身の安全とを、ケルヴィン王子に目の前で天秤にかけられれば。
どちらを選ぶか、考えるまでもない。
失うことには慣れている。
自分が泥を被ることにも、慣れている。
まだ自分が加わる前に遠目に眺めた、カスティラ家の家族の幸福の図のように、アミナが幸せになる様を見守るくらいは、できるだろう、と。
だが非力で華奢で、すぐに壊れそうな無垢な聖女は、婚約者の豹変を信じず、横暴で無礼な振る舞いにも折れずに、ただ、ルーディウスの無事を祈ってくれた。ルーディウスが戸惑うほどに。
責められていると思った。それくらいで婚約者を見限る女性だと思っていたのかと。
見せつけられた。ルーディウスが守りたいと思うほどに、アミナもルーディウスを守りたいと思ってくれているのだと。
そして、確かにアミナは、ルーディウスを守ってくれたのだ。
ルーディウスは、アミナを見縊っていた。
アミナの意志を知ることも、話し合うこともせずに、自分こそがアミナを守るのだと、全てを独り善がりに決めつけていたことに気がついた。
それを悔いて、改めたいと思ったからこそ、アミナの意志を尊重し、捕まえたくなる手を握り締めて、オルヴェルト王子の手を取るアミナを見送った、あの時。
ルーディウスの世界は、暗闇になった。
「ルーディウス、お疲れ、ってこれはこれは」
「兄上」
王宮がわずかに落ち着いて、走り回っていた誰もがようやく夜に僅かな休息を取れるようになったころ。
あてがわれた王宮の部屋に突然やって来た兄に、ルーディウスは気まずく顔を顰めた。
寝るためだけの部屋に持ち込んだ酒瓶が、足の踏み場もないほど転がって、部屋は強い酒精の匂いが充満している。
ルーディウスは酔いの見えない足取りで立ち上がり、兄のために窓を開けた。
「酔わないんだ。水と同じだ」
「同じじゃないだろう、体に悪そうだ」
「酔わないなら飲んでも意味ないだろう、馬鹿じゃないのか」
聞き馴染みのない声に、ルーディウスが驚いて戸口を見ると、もう一人、部屋を覗いて鼻を摘んでいる。
「ミゲル……」
「いまこそ、兄弟の対話かな、と思って。連れて来た。カークス陛下の許可はいただいてるよ。彼が側近になられる前は、同じ経営学の家庭教師に付いていた縁で、お名前はよく耳にしていたな。変わらぬ有能ぶりだ。あっというまにケルヴィン王子から譲られた軍も把握して、近衛軍も武装解除で追い出され、悪質な者たちは拘束された。西の軍とも対等に交渉をして、徐々に彼らの帰投も進んでいる。カークス陛下なら、皆付いていくんじゃないか?」
「……そうか」
「ケルヴィン殿下は……相変わらず、ぼんやりなさっているが。まあ、時間が必要だろうね」
狭くはない部屋だが、大の男が三人入ると、手狭に感じられる。
こうして穏やかに顔を合わせるのは、いつ以来だろう。
暗闇に閉じ込められたように曖昧な世界しか感じられないルーディウスには、よく思い出せない。
「時間も限られているし、単刀直入に言うとね、ルーディウス。母上が亡くなられた日の前日、私は、ミゲルの掘った穴を、十個全て埋め直してあったんだよ。そして母上は、ミゲルの悪戯を知っていた」
悪戯の原因は、兄が、十の誕生日に父からもらった誕生年の記念の金貨を、弟に自慢したことだった。弟は突然怒り狂い、金貨を奪って庭へ逃走したのだ。ルーディウスも合流して見つけ出した時には、もう金貨は一枚も持っていなかった。
「私は悲しくて、母に言いつけたけど、お前が悪いと言われたんだ。持っているものを持っていないものに対して自慢する、その行為は美しくない、人の負の心を掻き立てる行為だ、って。全て自分で探して、埋め戻せって」
元が美しく整った庭だったこと、ミゲルが穴を隠蔽しなかったこと、そのおかげで、レリックは10枚全ての金貨を見つけることができた。
「花壇から土を持って来て、踏んでも突いても凹まないくらいには、埋め戻したよ。ただ、全てを埋め戻して、金貨を数えた時。10枚目が、草の影に落ちてしまってね。もう暗くて、何も見えず、見つけきれなかった。それで、また私は母に泣きついたんだ。長男が泣いてるなんて、お前たちには見せられないから、こっそりね」
レリックが、穏やかに笑う。その穏やかな笑みが、養父の柔らかく頼もしい笑みに重なった。
「母は、そんなことで泣くな、と私を叱ったけれど。きっと翌朝、僕が失った金貨を探してくれたんだろう。だから、母上は事実ウサギの穴のせいで亡くなられたけれど、私のせいで亡くなられたんだ。だけどね、それをわざわざ言ってしまうと、ミゲルの悪戯にも疑いの目が向くと思ったし、なにより、怖かった。だから、黙っていた」
ルーディウスは、言葉が出ない。
ずっと真実だと思っていたことが、真実ではなかったことに。
そして、レリックの苦しみを、今初めて知ることになったことに、鳩尾を殴られたような衝撃を受けた。
ミゲルも、仏頂面でぼやく。
「俺は、俺のせいだと、ずっと思ってた。だって、俺は金貨を埋めて、雑に土だけ被せただけだった。だけど、怖くて言えなくて。兄貴たちが黙っていてくれるのは、俺のためだと思ってた。だから、俺が王宮に行くべきだって思ったんだ。かっこよく、家族のためにさ。なのに、ルーディウスが行くし。なんでいつも、お前が特別仲間はずれなのかと腹が立って、拗らせて、今だ。情けないのは、わかってる」
「ミゲルが金貨を埋めた理由はね、私がルーディウスにも自慢する前に、隠してしまおうと思ったらしいよ。兄弟で、ルーディウスだけ、誕生年の金貨の用意がないかもしれないってね」
「あ、な、なんで知って」
「母上から聞いたよ。僕が母上に泣きついた時には、母上はミゲルからそう聞いていた。どこに隠したかは、どうしても言わなかったそうだけど」
狼狽えるミゲルをそのままに、レリックはルーディウスに視線を戻した。
「ルーディウスも、僕らを庇ってたんじゃない? ずっと、長い間」
兄弟は、かつて間食の焼き菓子を選ぶ順番を決めるときのように、互いに様子をうかがった。
最終話は12時投稿予定です。
ありがとうございます。




