礎石の跡
ご注意!本日二話目です
アミナが荷馬車の老夫婦に礼を言って、畑へ向かう背に手を振って別れ、振り返ると、オルヴェルトは、すでに眩い陽の光を弾く金の草原を、見透かすように眺めていた。
王都西の平原では、麦の収穫は済んでいたことを思い出す。争いのために踏み荒らされた土地は、修復に時間はかかるだろうが、食糧が逼迫することがなさそうなのは、幸いだ。それとも、それも誰かが計算したのだろうか。
王都より南のこの辺りでは、麦は今頃が収穫時らしい。日が昇る前から、どこの畑でも総出で刈り入れをしている。
暖かい土地なのに収穫が遅いことに首を傾げていると、種類が違うのだと教えてもらったが、アミナの目には同じ麦に見える。
朝の気配はすでに薄れ、今日も暑くなりそうだ。
このごろは、こうして何気なく待ってくれるようになったが、最初の頃は置いていかれそうになっては必死で食らいつき、やがて怒り、文句を言い、次は待ってほしいと説いて言質をとり、と、大変だった。
その都度、勝手についてきたのだ、うるさい、体力がない、と冷たい反応だったが、変わってきたということに満足している。
アミナの根気の勝利だ。
「何を見ているのですか?」
隣に並ぶと、しなやかな腕がすっと、金の畑の向こう、ツンツンと尖った木々が並ぶ辺りを指し示した。
金の髪は洗いざらし、粗末で簡素な服装を纏って、無精髭を多少伸ばしていても、ただ手を上げる動作ですらこの人は美しい。
「国境だ。あの森の手前にある川がそうだ」
「国境」
王宮を出て、もうすぐ一月になる。ついに、ここまで来たのだ。
日除けに被った帽子を深く被り直して、もう一度オルヴェルトの方を見ると、つい今し方までそこに在った大きな体がいない。
きょろきょろとあたりを見回せば、麦の合間に同じ色合いの煌めく髪が見えた。
やがて戻ってきたオルヴェルトは、小さな鳥を片手に掴んでいた。
「え、食べるのですか?」
「食わぬ。腹の足しにもならん。蛇からでも逃げてきたのだろう。落ちていた」
「逃してやるのですか?」
「飛べばな」
「少しだけ、癒します」
広げられた大きな手の上で縮こまって震えていた小鳥は、アミナが手を重ねて祈れば落ち着いた。しばらくそのままオルヴェルトの手の上でぬくぬくとしていたが、やがて、自分の力で羽ばたいて飛んでいった。
そういえば。
ルーディウスが幼い頃、家で飼っていた鳥が死んでしまったという話を、聞いた気がする。
もう、腕は回復したのだろうか。万全ではないかもしれない。きっと暫くはとても忙しくしていたはずだから、疲れてもいるだろう。
なにしろ、王子が一人、父王に退位させた挙句、まるで蘇った悪狼オイケアそのもののように、王の剣と玉座を破壊し、建国の逸話すら完全に否定して、聖女を連れて出奔したのだ。
王都から離れる方へと向いているからか、その後どうなったのか、噂を聞く機会もないけれど。
「オル様」
道の先の様子を見に行っていた、影、と呼ばれている男の人が戻ってきて、オルヴェルトに耳打ちをしている。オルヴェルトと似たような格好をしているのに、こちらはどこにいても一瞬で見失うような、印象の薄さだ。まるで無害な市井の民の様に。
だがこの男は、そしてほかの、今は姿を隠しているオルヴェルトの配下の者たちは、あの日王宮からついてきたアミナを、いかにも排除したげに睨んでいた。
アミナに祈りで癒されたことも、さして感謝する様子もなく。
だが、オルヴェルトが平気な顔をして隠していた、脇腹のひどい傷を癒すと、彼らの態度はあっさりと軟化した。これは、大変有り難かった。彼らが、アミナを受け入れ、最低限の世話をしてくれなければ、アミナは破れたドレスと目立つ軍服のまま、長い旅に出なければならなかった。
彼らがオルヴェルトに何を見ているのか、王子の身分か、悪狼の魂か、精霊王の本性か、それともオルヴェルト自身か。尋ねるのも不躾に思えて、アミナは彼らとオルヴェルトの間にあるものが何か、知らないままだ。
「礎石の跡か」
報告を受けたオルヴェルトが、ふいに歩き出した。
アミナも追いかけるが、足の長さからして違う。置いていかれそうになって、小走りになった。それでも引き離されるが、その背中だけ見失わないでおいて、追いかけるのだ。もう慣れたものだ。
国境を目前に街道から外れ、木立の向こうの、明るく開けた場所にあったのは、静かで、美しい場所だった。
そこに、ちょっとした食卓ほどの石があった。
中央に、地面まで達するほどの大きなひび割れがある。
陽の光にうっすら青みがかった石は、それがなければ、もっと美しく光を内包して輝いていたかもしれない。
オルヴェルトは、その石に指先でゆっくりと触れると、ふ、と息をついた。
「すでに、ただの石だ。もう精霊はいない。魂すらも」
それを悲しいと思っているのか、それともそれでよかったのか、アミナには汲み取れない。
ただ、同じように石に触れ、そっと優しく祈りを捧げた。
「……精霊王オイケアにとって、精霊の血を引く聖女たちもまた、一族だった。ゆえに、聖女の長に伴侶ができたと聞いて、寿いだのだ。人の抱く闇の深さも知らず、呑気な王よ。
あの聖女は、オイケアの魂が食われるという段になって、死に物狂いで男に抵抗した。だが敵わず、せめてとばかり、祝福の息吹を循環させるために、精霊たちの骸を礎石と成し、その維持にはオイケアの魂が不可欠となる仕組みを作った。王の血肉となり消えるはずだったオイケアの魂が飼い殺されることになった、忌々しい仕組みだ。
今思えば、いつか解放されて逃れられる時のために、魂が摩耗しないようにと、わずかな可能性に賭けたのだろう。……そんな僅かな可能性を繋ぐために、娘は恋を捨て、ラ・ラーナ公爵家として聖女の力を継ぎ、オイケアの魂に決して干渉しないよう、聖女が王家と縁と繋がぬよう戒めた。これは、推測だが」
ひと月の間で、オイケアや聖女の話が出るのは、初めてのことだった。
オルヴェルトは、何度も考えてきたことを整理するように、淡々と話している。
アミナに話しかけているようでもないけれど、きっと、オルヴェルトが機会をくれているのだ。今を逃せば、もうこの話をする機会は ないのだと、アミナには感じ取れた。
「オルヴェルト様。あなたの中には、オイケアの魂がいるのですか……?」
「そうでなければ、説明がつかぬな」
オルヴェルトが見上げた先を、アミナも首を伸ばして見上げてみた。
木々が丸く切り取った空は高く晴れ渡り、雲は筋状に長く伸びている。
この空の色は、かつてオイケアが見ていたものと、変わりないのだろうか。
「オイケアは、王家の兄弟の中にたびたび朧げに目を覚ましたが、いつも祝福の息吹は寄り付かず、頑健に生まれても、空っぽのまま、成人を前に弱って死ぬことを繰り返し、王家の輪廻に縛り付けられた。今世で聖女アミナの加護を受け、明確に覚醒するまでは、すべて夢現。永い悪夢だった。
覚醒してみれば、すでにかつての聖女は骨も残らず、敵と憎んだ男も歪んだ逸話に登場するばかり。聖女の遺した涙ぐましい努力の跡すら憎むしかないほどに、浪費させられた年月は長く、絶望は深かった。なにしろ、この体にも、あの執念深く嫉妬深い男の血が流れているのだ」
それに気がついた時は、血を全て抜き取って死んでも良いと思った、と言う。
歯の間から唸り声を洩したオルヴェルトは、そこでゆっくりと、アミナへ向き直った。
「お前の祖母に会えたことで、幼い俺は生き延びた。聖女の周りは息吹が濃い。それが空っぽの俺には必要だった。だから、俺はお前の祖母には恩を返さねばと、ずっと思っていたのだ。
王家の男たちは悋気が激しい。特に聖女が関わると、兄弟間で殺し合いさえしてきた」
「それで、私を突き放したのですか。ケルヴィン王子の目に止まらないように。もしかして、祖母への恩返しに、私を守ろうと?」
「単に愚かで見ていられなかったせいでもある」
「もう少しやりようがあると思うんですけど」
ぶつぶつ文句を言ってみたが、鼻で笑われた。この頃のオルヴェルトはよく笑う気がするが、だいたいこうして馬鹿にされている。
「覚醒した後の俺でさえ、お前が国王に命を脅かされたときには、ひどい心地になった。つくづく、欲の深いあの男の血だ。近寄るな、と言うのに、チョロチョロとしているからだろう。祈りすぎて死にかけた時は、もう見捨てようかと思ったものだが」
ふいと再び青い空を見上げたのを、じっと見上げる。濃い金の睫毛を透かした陽光が、金の息吹のようだ。
「もしかして、加護を授けろと言った時も、その」
「……かつての聖女は、男に額の花の徴に口付けさせて、加護を授けていた。加護を得た者は、一度だけ、聖女を癒すことができる。だがお前は、口の中にも髪の中にも、徴がなかった。もう少しわかりやすいところにしろ」
「く、くちで探すことはなかったでしょうに!」
話が逸れている。
わかっていたけれど、許せないことは許さないことにしたのだ。
言いながら、顔が火照ったアミナは、対照的に冷めた顔をしているオルヴェルトを見て、一層赤くなる羽目になった。
「指で探っても見えない。……お前の祖母に加護を授けられたと思い込んでいた。お前に加護を授けられ、俺はおそらくその場で癒しを使ったのだろう。お前の祖母が俺を庇って倒れている光景を、覚えている。結局、俺は加護を得ることもお前を癒すこともできないと先に知っていれば、な。
やむを得ん。だが、老女相手なら違う方法を考えたかもしれぬな」
アミナは、最後のくだりは聞かなかったことにした。
狼に舐められたようなものだ。忘れればいい。
「忘れればよい」
オルヴェルトも言った。
長くなったので一話を二分割しました。
次は18時投稿します。




