あなたのご無事を、お祈りします
ようやくルーディウスのそばに辿り着いて、呼びかけながら、腕を体のあるべき場所に押し付ける。
体は温かい。微かに動いている。息があるし、意識もあるようだ。
そこからは、必死に祈った。
体に触れて直接祈る。けれど、思うよりも効果が見えない。祈りの半分、いや大半は、どこかに吸われている気がする。
頭上の青い剣が、冷たくこちらを見下ろしているのを感じて、背が冷えた。呪いの石とは、まさにその通りだ。
だが、諦めるという選択肢はない。
ベタつくほど血に塗れ、ゆっくりと冷え始めたルーディウスに熱を分け与えるように身を寄せて、両手で腕を押さえ続けた。
ああ、だが、ようやく腕の皮が繋がったところで、意識が朦朧としてきた。もともと、祈りに酷使した体は限界だったのだ。無理に無理を重ね続けている。
だめ、起きて、倒れてる場合じゃない。
ともすれば暗闇に沈みそうになる意識を叱咤する。
ルーディウスの体にみっしりと詰まっていたはずの金の蜜は、あえかな輝きしか残っていない。やはり、祈りの代償を負いすぎていたのだろう。
どうして、こんなことになったのか。
恨めしい思いは、すべて背後のオルヴェルト王子に向かう。
「こんなの。こんなの、あり得ません。祈りが必要なら、祈りを呪いの石に向ければ、それでよかったはず。こんな。わざと傷つけるなんて……」
視界が揺れる。気持ちが悪い。疲労、脱力、そして、無力感、徒労感……。
聖女であること、祈りで人を癒せることは、ずっとアミナの誇りだった。祈りが、自分の身を削るような辛いものであったとしても。聖女であることが、すなわり自分であることだった。
だから、聖女たちがアミナに託した難題にも、当然、聖女として誠実に向き合おうと、そう決めたのに。
こんなふうに脅され、傷つけられ、追い立てられるとは、想像もしなかった。
アミナの覚悟は、風に舞う木の葉のように乱れて、見定めていた未来が見えなくなった。
いつもそうだ、とアミナは思う。
常に聖女として心を定めているはずなのに、投げつけられる拒絶や悪意に、容易く翻弄されてしまう。
近衛軍の味方だと詰られたこと、祈りが足りないと責められたこと、それでも、国王の求めに従って祈らなければならないこと、そして、誰に詰られなくても知っている、自分が救えない人がたくさんいると言う事実。
アミナにできたことなど、とても少ない。逃げないこと、前を向いていること、国王の目を盗んで祈る対象を広げること。いつもなるべく自然に、笑顔でいること。
なんと無力なことだろう。
こんな聖女は、聖女たちの念願を成し遂げることはおろか、目の前のルーディウスを救うことも、できない。きっとできない。
どうしよう。
手が震える。祈りが途絶えがちになる。
情けなく、悔しい。
「愚かで甘えた娘には、全力で祈るきっかけが必要だろう。テセウでもよかったが、加護持ちで鍛えてある狼が適任だ。死ぬ可能性が低い。だが、思いの外、血が流れたな。加護を受けた身でも、弱ったところであれば、死ぬであろうし、当然、痛みも苦しみもある。集中せよ」
淡々と事実と命令だけを乗せるその声が、少し掠れている。そのことに、ふと気づいた。
ちらりと振り返ると、涼しげな美貌が、わずかにだが、はっきりと陰っていた。目の下に隈が見える。こめかみには、一筋の汗。そして、なせ今まで気がつかなかったのかと驚くほどに濃密な、その身の内の金の息吹も、揺れている。
その青い目と目が合った時、アミナははっきりと思い出した。
あの金色の少年もまた、青い目を持っていたことを。
あの悪い夢が、きっと真実起こった出来事だったことを。
まだ幼いころのアミナは、オルヴェルト王子に、知らぬうちに加護を与えたのだ。オルヴェルト王子は、聖女アミナの加護を受けた。だから彼は今、祈りの負荷を共に受けているのだ。
見下ろせば、ルーディウスはほとんど意識がない。
意識がないからか、それとも祈りを受ける立場だからか、体内の金の波は穏やかで、祈りの負荷がかかっている様子はない。
それならば。
「オルヴェルト王子殿下、聖女たちの望み通り、礎石を壊し、あなた方を解放しましょう」
アミナの甘さを見透かしてルーディウスを利用したオルヴェルト王子、そしてその見立て通りにぼんやりと甘ったれた自分が、この事態を招いたのだと思うと、胃の底が灼けるほど、腹が立った。
聖女らしく、聖女として、など、もうどうでもいい。
アミナはぎゅっと目を眇め、歯を食いしばり、険しい顔でルーディウスを見据えた。
祈りが全てを持ち去ろうとするならば、こちらから躊躇なく全てを出し尽くして与えよう。
体の底に渦を巻く、どろどろとした気持ちまでも、全て祈りに上乗せしよう。
祈りに奪われるのではない、祈りを支配して、制御する。
ルーディウスを救い、呪いの剣を砕いてみせる。
「絶対に」
その後で倒れようが、干からびようが、どうでもいい。
けれどその前に。――加護で繋がったオルヴェルト王子から、搾れるだけ、搾り取ってみせる。
アミナは、心底怒っていた。
「ぐ……」
それは、オルヴェルト王子が人前で初めてこぼした苦鳴の音だったかもしれない。
その声に重なるように、頭上でメキメキと不穏な音がした。
王の剣は、巨大だ。それがぐらりと揺れたのを見上げて、アミナはルーディウスの上に倒れ込んだ。少しでも、庇えるように。
実際は、もう命の一滴まで使い果たし、体が言うことを聞かなかっただけかもしれない。
ばらばらと大小の破片が降ってくる。
解き放たれた祝福の息吹が、その度に大量に噴き出した。
やがて、世界の背骨が折れるような音を立てて、はるか頭上で巨大な剣が真っ二つになった。
視界を埋め尽くす勢いで金の息吹が舞い狂う中を、奇妙に時間をかけて、青い剣の刀身が落ちてくる。
ギャリイイイイイン
ついには空の玉座にぶつかり、押し潰し、刀身もまた、元の形がわからぬほどに砕け散った。
「兄上……!」
ケルヴィン王子の声がしたが、気配は遠い。
ゆらり、と誰かが近くで立ち上がる気配がする。
アミナの下で、ルーディウスも動いて、アミナを抱えたまま体を起こしたようだった。
薄目を開いたが、視界の全てが金色に染まっている。王の剣は、玉座の上で、どれほどの祝福を溜め込んできたのだろう。
金の息吹を吸って、呼吸が軽くなる。空気が甘い。僅かずつ、癒やされるのを感じる。
なんとか、生き延びた。
はあはあと息をして、それからアミナは、目の前の血まみれの服を掴み寄せるように伸び上がって、ルーディウスに顔を近づけた。
あたりの金色が濃密すぎて、近寄らなければ黒髪すら見えないのだ。
額に張り付いた黒髪、赤茶の血の跡があちこちについた顔。
だが、青い目はどこまでも深く優しい色でアミナを見ている。両腕で、アミナの背を支えて。ルーディウスの内側に、眩く輝く金の加護が詰まっているのも、はっきりと感じられた。
もう大丈夫だ。
アミナは、ふと濃さを増した青と目を合わせたままで、そのままいつまでもいられたらいいのに、と思った。
なのに、みるみるうちに、ルーディウスの姿は見えなくなり。
一粒、こぼれ落ちると、もうそこから涙は止まらなくなった。
「アミナ」
ルーディウスは、少し体を揺するようにして、アミナを呼ぶ。
どこまでも優しく。嫌いになど、なっていないと丸わかりの態度で。
けれど、あの時だってそうだった。夜の王宮で追いかけて行って会った時。
慈しみ、愛おしむ視線をくれながらも、婚約を破棄する宣言は、決して撤回されなかったのだ。
それに、さっき、自分で決めたのだ。
アミナは、目を閉じて俯いた。額が、ルーディウスの固い胸にあたり、温もりを感じる。ふわりと、小さな幸せ。
日々の小さな幸せをうっとりと味わってばかりいた自分は、だからこそ、気がついた時にはその幸せを根こそぎ失うことになった。このままでは、繰り返す。アミナが、変わらなければ。
けれど、今だけは、この幸せに寄り添っていたかった。
金の帳が静かに薄まっていく。
祝福の息吹は、巡るもの。アミナの中に、ルーディウスの中に、広間で凍りついている多くの人々の中へと、そして壁を通り、床を通り、天井を通って、自然とどこかへと流れていく。
祈りに奪われていた何かが、みるみる戻ってくるのを感じるのと同時に、瞬きをひとつ、ふたつとするうちに、金の粒子は、うっすらとしか見えなくなった。
それでも、アミナの中は温かささえ感じるほどに、満ちている。
見えなくても、そこにあると、感じていればいい。
ルーディウスへのこの思いも同じ。
最後の涙を瞬きで落として、アミナはそっと、最愛の人の顔を見上げた。
「ルーディウス・カスティラ様、婚約がなくなっても、お会いできなくなっても、私はあなたのご無事を、お祈りしております」
そう微笑んで告げて。
アミナは、その辛くて悲しくて、でもとても大切で熱い思いを、温かい胸にぽとりと落として優しく閉じ込めると、愛しい腕の檻から立ち上がった。
「私は、行きます。オルヴェルト殿下のために」




