祈れ
「オルヴェルト殿下!」
「お待ちを」
聞こえた叫びに、アミナは瞬きを繰り返した。
徐々に焦点が定まってくる。遠く天井画の聖女と目が合った気がして、びくりと体が揺れた。そして誰かに抱え込まれていることを知って、思わず突き放した。
体が離れて、冷えた空気が肌を撫でた。
だが、そこで止まる。床に転げ落ちる覚悟で突っぱねたのに、アミナの背を支える腕はそれ以上離れることを許さなかった。少しでも距離を取りたくて、ぐいぐい押しやりながら見上げたら。
アミナを抱えて荒い息をついているのは、ルーディウスだった。
オルヴェルト王子ではない。ルーディウスだ。
「ルード様」
慌てて覗き込む。
顔色が悪い。声も出せない様子だ。覗き込むアミナにも気が付いていないかのように、視線が合わない。
頬に手を当てると、ゆっくりと瞬いたが、それ以上反応する様子がない。
ぞっと背中が冷えた。
その時、背後からルーディウスを支える手があって、アミナは縋るようにそちらを見た。
長兄のテセウが、ルーディウスの顔を覗き込み、首を触って脈を取っていた。テセウには医学の心得がある。
息を呑んで見守ったが、すぐにテセウはルーディウスから手を離し、アミナの顔をしげしげと見下ろした。
「ルーディウスには特に異常はない……、事の次第はわからんが、先ほどまで、意識がなく顔色が悪かったのはお前だ、アミナ。だがルーディウスが抱えている間に、何かが起こった。お前の顔色が回復し、そしてお前は目を開けた。入れ替わるように、ルーディウスの様子がおかしくなった。
まるでルーディウスが、聖女のごとくお前を癒したように見えた」
安堵と怪訝の入り混じった複雑な顔のテセウは、再びルーディウスに目を向け、手を伸ばしかけたが。
その前に、アミナを支える手に力が戻った。
「……大丈夫だ」
「ルード様!」
「アミナ……よかった」
青い目が柔らかく細められて、いつもより険しく鋭く見えた顔立ちが、甘くなる。
そんな場合ではないのに、胸が高鳴った。ずっと、無事を祈っていた人が、今、目の前にいるのだ。
だが。
「兄上の後を追いかけてなどいない!」
叫び声が、アミナの意識を引き寄せた。訝しく視線を向けたが、思わず視線を逸らせてしまった。遠目にも、その人の殴られた顔は腫れ、面相がわからないほどに歪んでいた。
「兄上など、お前など、母上に、母上に捨てられたくせに!」
聞き取りにくい声の叫びを受けているのは、オルヴェルト王子だ。
先ほどの乱暴な扱いを思い出して、体が一瞬震えた。半ば無意識に、羽織っていた大きな服の前を引っ張って合わせを閉じた。
けれどやはり、怒りは湧いてこないのだ。
「母上に、殺されかけた、くせに!」
責めるというよりは、迷子が途方に暮れて母を呼ぶような声で叫んでいるのは、見る影もないが、ケルヴィン王子なのだろう。
では、彼が母と呼ぶのは…。
ふと脳裏に金色の森の記憶が蘇る。けれどあの夢では、少年に向けて振り上げられた銀色の光は、結局少年を傷つけはしなかったはずだ――。
小さな違和感は、次の瞬間には霧散してしまった。
ケルヴィン王子が懐から取り出した、鈍色の石のようなもの。
それを見た途端に、ぞくぞくと寒気を感じて、悲鳴をあげそうになったからだ。
「……あれは。もう一つあったのか」
「ルード様、あれは、なんですか?」
まだ少し顔色の悪いルーディウスに、顔を向けないままアミナは尋ねた。
視線を、石から外すことができない。嫌な気分だった。あれは、悪いものだ。礎石と似た気配があるが、もっと禍々しいもの。
「……聖女の祈りの効果を蓄積させ、持ち主の周囲だけ守ることができる石だ。守り石と言われている。先代の陛下の御代に見いだされ、現陛下が近衛隊に遣わされた」
「まもりいし?」
金色の森を思い出したせいか、今再び、アミナの目には、世界をめぐる金の息吹が見えていた。
あたり一面に薄く漂う息吹が、ケルヴィン王子の周りでだけ、奇妙に薄い。特にその手の中にある石を、避けているような、いや。
吸い込まれているのだ。
聖女の祈りを蓄積させるとルーディウスは言ったが、聖女の祈りがない今も、少しずつ周りの息吹を吸い取っているようだ。
他者に寄生して生きる何かのように、ただの石だと油断すれば気づかぬままに貪られるような、薄気味悪さがあった。守り石と呼ぶことは、とてもできない。
「あっ」
ケルヴィン王子が床に倒れ、その手から、まもりいしが転がり出た。
その時、アミナが咄嗟にルーディウスの腕から逃れて、それに駆け寄ったのは。
「聖女アミナ」
誰かわからないほどに顔を腫らしたケルヴィン王子が、縋るように見上げてくる。だがアミナは、ケルヴィン王子を救おうと思ったわけではなかった。
足元に転がる薄気味の悪い石。これを、自分でどうこうできるとも思わなかった。なぜなら、この石は今もアミナを見て、舌舐めずりをしている。近くにいるだけで、啜られそうだ。とても、怖い。
それでも、アミナがそこに石を見据えて立ったのは。
「――礎石を壊して、できるならあなたが、最後の聖女になってちょうだい」
『――礎石を壊して、オイケアを、王家の兄弟を解放してちょうだい』
二人の聖女の願いを受け止めて、今の聖女としてできることをしたいと、そう漠然と思ったからだった。
背後に、よく知る大きな気配を感じる。ルーディウスが、すぐ後ろにいてくれる。
涙が滲むほどに、嬉しい。
もう少し。もう少しだけ、ルーディウスに頼っていいというのなら。
せめて聖女として、全力を尽くしたい。――今のアミナに残されているのは、聖女であるということだけだから。
だが、どうすれば。
その時、オルヴェルト王子の声が、ルーディウス越しにアミナに届いた。
「祈れ、聖女アミナ。それは呪いの石。礎石とは似て非なる、祈りを遮り、大地を枯らす、果てない欲望の石くれだ。誰のためでもよい。その石を超越する祈りでもって、破壊せよ。これは、そなたにしか、できぬ」
オルヴェルト王子に、聖女として必要とされたのは、初めてかもしれない。
背中を押されるように、アミナは膝をついて、震える手を伸ばした。
「だめだ、アミナ! 祈りはあなたを損なう。さっきまで、倒れていたんだ、これ以上無茶をしないでくれ」
背後から、切り裂くようにルーディウスが叫んだ。アミナの手が、一瞬止まる。
「加護持ちが増えたのだ、問題ない」
「どういうことです」
言い争う声を背に、アミナは躊躇う気持ちを抑え、グッと唇を引き結ぶと、もう一度手を伸ばした。掴むのは、ケルヴィン王子の手だ。
そして、祈った。
「っ!」
ルーディウスが息を呑む気配がした。
アミナは、思ったよりも負荷が軽かったことに、驚いた。
祈りの鉱石に触れずに祈ると、祈りの力、つまりは金の息吹が、鉱石の代わりにアミナ自身に入って、そして抜けていく。その時に、アミナの中の何かをごっそりと持っていくのが、常なのに。
ケルヴィン王子が、腫れが引き、目の色がはっきりと見えるようになった顔で、ありがとう、と呟いた。
「……まだだ。アミナ、癒す相手が必要なら、ここにもいる」
まるで挑発するように、オルヴェルト王子が自分の足元に転がる何人もの男たちを顎で示した。誰かがかろうじて掛けた布の下で、彼らは、手当もされず、うめき声さえ弱々しく、今にも手遅れになりそうな状態だ。
アミナは、黙ってそちらへ移動し、一人一人、同じように祈った。
祈りは万能ではない。死したものは帰らず、欠損は戻らず、傷跡もなく癒せるわけではない。ただ、痛みや腫れを穏やかにして、傷が腐ったりしないように、その者の持つ本来の力を、少し後押しするようなものだ。
それでも、うめき声は止まり、穏やかな呼吸になる。
やはり、いつもよりも楽に癒せる。
とはいえ、彼らを癒すかわりに鉄の塊を胃に捩じ込まれたように、体は重くなった。こめかみから粘る汗が滲み、息のたびに肩が上下する。身体中、水をかぶったように汗で濡れている。髪が頬に張り付き、唇がぴりぴりと痺れた。
水の中で歩くような、夢の中で走るような、思い通りに動かない手足に苛立つような感覚だ。
いつもより確かに楽なのに、祈りの大半がこぼれ落ちて役に立たず時間を要して、結局疲弊の程度は大きい、ような。
その時。
「ヒビが……!」
ケルヴィン王子が、慌てて手を伸ばすより早く、ルーディウスが、まもりいしに向けて、剣の柄を打ち下ろした。




