浅ましく願う
重たい扉を開けた先には、王宮で最も大きな空間が広がっている。
王宮に上がった初日と、騎士の認定を受けた時の二度、ルーディウスはここに足を踏み入れたことがあった。
今は、その時の眩さはない。高い天井は闇に沈み、縦横に放物線を描く梁が複雑な陰影を創り出している。それも扉から入った明かりにかろうじて見て取れただけで、ほどなくあたりは、闇に沈んだ。
窓はない。壁や柱の無数の燭台も、全て沈黙している。
今、ここに光源はただ一つ。
ルーディウスはその遠い光を目指して、歩を進めた。
謁見の間の最奥に、遥か高みから吊り下げられた、青く光る剣。それが、刀身のみならず、優美な柄まで、ゆらゆらと青い炎のように輝いている。
冷たく静かに照らし出されるのは、階の上にぽつりと佇む、木彫りに象嵌の玉座ひとつ。建国以来八百年間、その剣は玉座を真上から狙っている。
その切っ先がいつ頭上に落ちてくるかわからぬ、そんな生死の狭間に座す緊張感をもって政をする、そんな初代国王の意志を表しているという。
その手前、階の下方にオルヴェルト王子を見つけ、頬が緊張に強張った。
己の、まるで初陣のような気の逸りに、ルーディウスは自嘲した。我ながら、まるで毛を逆立てた猫のようだ。
青金に縁取られたオルヴェルト王子は、階に直接どっかりと座り込み、片膝に肘を置き頬杖をついて座っていた。その足元の暗がりに倒れ込んでいる人の姿を見つけ、血の気が引いた。
「アミナ」
髪は乱れて顔を隠しているが、アミナに違いない。だが。
衣服は裂かれて青白い肌が覗き、乱れた裾から哀れに折れ重なり投げ出されている足は、素足だ。
ルーディウスの脳裏に、舟遊びの時、庭を散歩して暑かった時、夜会で疲れて休んでいる時に、無邪気に裾をからげて足を出していた姿がよぎった。
葡萄に染まった細い足を洗ってやった時のことも。
何の気なくそんなことをしておいて、ルーディウスの視線に気がつくと、恥ずかしそうに、隠すのだ。それがどれだけ、こちらを煽るか知りもしないで。
どこかで、フイゴのような音がする。誰かの荒い息が、広間に響いているのだ。
ぐるぐると、雷声のような音もする。誰かが、低く怨めしく唸っている。
誰かは誰でもない。ルーディウスだ。目の眩むような怒りに、勝手に体が反応している。
その反応を、うるさいと思うのもまた、ルーディウスだ。目の前の敵の気配が、読めなくなってしまう。
静まれ、と念じる。怒りは、体を硬くし、視野を狭くする。
怒りは、邪魔だ。
アミナを、取り返すために。
邪魔だ。
己の肩が揺れるほどの荒い息と、腹から湧き起こる唸り声を、ルーディウスはぴたりと止めて見せた。
オルヴェルト王子は、頬杖をついたまま、その様子を眺めているだけだ。
アミナは、動かない。うめき声すら、聞こえない。
ふと気まぐれを起こしたように、オルヴェルト王子が体を倒して手を伸ばし、アミナの顔にかかった髪をかき分けた。それどころではないのに、その光景に、言いようのない苦しみが湧いた。怒りを消したまま、主の手を、消し炭にするほど睨みつける。
現れた白い顔には、血の気がない。目は固く閉じられている。
祈りは、失われたままだ。
「アミナ」
「意識はもうない。祈りすぎだ。馬鹿め」
すがるように呼びかけたルーディウスを、オルヴェルト王子が叩き落とした。
「オルヴェルト殿下、アミナをお渡しください」
「もう、その必要もない」
オルヴェルト王子と戦うつもりはなかった。だが、その覚悟はしていた。どこかでこうなることを、わかっていたのかもしれない。
ルーディウスは、腰の剣を抜いた。
動こうとしたルーディウスを先回りして、影から現れた男たちが前を塞いだ。
見たことのない顔ばかりだ。こちらを見る目には、何の感情もなく、まさしくオルヴェルト王子のためだけの兵だとすぐにわかった。
手練れであることを、ひしひしと感じる。
だが、勝てる。
ルーディウスは瞬く間に二人を切り倒し、残り二人と剣一本で切り結んだ。一人を蹴り飛ばし、一人を弾いて切る。返す剣で、蹴った相手の足を切り飛ばした。手加減はできない。生かしておけば、どこまでもオルヴェルト王子のために命を使いそうな連中だ。最後の一人の剣を避けて、首を裂く。
そして、アミナを振り返る。
その前に、オルヴェルト王子が立った。いつの間にか、手に剣を持っている。
建国以来の天才剣士と称されるオルヴェルト王子が、偽りなく天才であることを、ルーディウスほど知る者はいないだろう。
オルヴェルト王子と、まともに打ち合えるのは、国中でも唯一、ルーディウスだけだ。それが故に、ルーディウスは狼騎士と称された。
確かに、訓練では打ち合える。だが、勝てると確信できたことなど、一度もない。
それでも、ルーディウスは微塵も躊躇わなかった。
右に走り、切り掛かる。相手の目が剣を見たので、剣で防がれると読んだ。剣がぶつかり火花が散った、その衝撃を手放すようにそのまま剣を放れば、わずかに青い目が揺れた。その隙とも言えない僅かな刹那に、左に全速で抜けた。
つまらなそうにこちらを追う青い目は、もう、見ない。
目を向けるのは、アミナだけだ。
背を浅く斬られながら、ルーディウスは、アミナの体を掬い上げ、階上に逃げた。
ぐにゃりとした力無い体に、胸が詰まった。
「アミナ! まさか……息をしてない」
「さきほどまでは、かすかにあったがな」
オルヴェルト王子は、剣を杖代わりに立ち、肩をすくめた。
「興醒めだ、狼。聖女が滅びれば、この国も滅びる。最後に面白い殺し合いでもできるかと思えば」
「まだ、まだ引き戻せる!」
ルーディウスはアミナの体を慎重に絨毯の上に横たえ、顎を反らせて、息の道を確保した。それから胸の音を聞こうとして、一瞬だけ手を止めた。なるべく目を逸らしながら、ズタズタになったドレスをかき寄せる。そしてそっと、耳を当てた。
――ない。耳の良いルーディウスにも、聞き取れない。
あるはずの、胸の中の命の音が。
聞き取れない。
ルーディウスの中で、瞬時に対応策が弾き出される。
戦場で、外から刺激を与えれば、生き返る場合があった。だが、ルーディウスの知る施術は乱暴だ。殴るか、圧すか。騎士たちでさえ、肋骨が折れるのが普通だ。
躊躇っている場合ではない。その僅かな逡巡の間に、可能性がなくなる。
わかっている。
骨が折れても、生きていれば癒える。人の体は脆いが、同時にしぶとい。
わかっている。けれど。
けれど、この華奢な体に触れるのは、こんな時のはずではなかった。
風にも当てず、日にすら当てず、大切に守って慈しみたかった。
一筋の傷も、わずかな苦しみも与えず、ただ優しく柔らかいものだけで包みたかった。
そう思ってしまったから。
アミナを壊してしまうかもしれない手当てを、ルーディウスは施せない。
背中が熱い。視界が霞む。斬られた傷から流れる血が止まらない。
この流れ出る命を注いで、アミナを癒せるのならよかったのに。
ルーディウスに注がれ続けた、あの祈りのように。
は、はは、と不意にオルヴェルト王子が哄笑した。
「狼。お前、聖女に触れたことはなかったのか」
何がそんなに可笑しいのか、オルヴェルト王子は上機嫌に、顔中にくしゃりと皺を寄せて笑っていた。
「まるで加護のない人の身で、加護を受けた俺に並ぶとは、ルード、お前、化け物だったのだな」
そして、あっさりと剣を放り捨てた。暗がりに滑った剣は、青い光を弾きながら、くるくると回り、天井の聖女に青い光を幾度も走らせた。
「よく聞け、狼。聖女は、自身のために祈ることができない。だが、聖女の加護という秘策がある。加護は祈りとは違う。聖女が、自分の守り手たちに分け与える力。聖女の加護を受けた者は、一度だけ、聖女に成り代わって祈ることができる」
加護などというものを、アミナからも聞いたことはなかった。どうやって、と尋ねる前に。
謁見の間の扉が、押し開けられた。外の空気と共に騒めきが押し寄せる。だが、そこから覗く人影の誰もが、一歩を踏み込むのを躊躇しているようだ。
オルヴェルト王子は、さっさとそちらへ歩き出した。
ルーディウスには、そんなものは目に入らない。
外界の明るさから守るように、アミナをかき抱く。我が子を守る母狼のように深く深く抱え込んで、白い小さな顔を覗き込んだ。
「アミナ」
ぼたぼたとアミナの顔に涙が落ちるのが申し訳なくて、一度上を向いて涙を追いやる。
その視線の先に、王宮に似つかわしくない、古びた天井画があった。
女性、いや、聖女だ。聖女が、手をかざしている。その手の下に首を垂れているのは、金の狼を背負った建国王ルーストミストだろう。
手のひらに、殊に目立つ赤い色で描かれているのは、何の印か。そこから、波が広がるように幾重もの線が見える気がする。
四つの赤い楕円が花開くように並ぶ、小さなしるし。
はっと、アミナを見下ろす。両の手のひらを確認しても、そこには何もない。
記憶を辿る。膝下にも、何もないはずだ。うなじも、耳の下も、首筋も、肩も……。
ほんのわずか、躊躇った。
「アミナ、すまない」
謝罪は、届いていないとわかっていても。
そしてそっと、掻き合わせていたドレスの前を開いた。
頬よりもいっそう白い肌が見えて、胸が疼いた。滑らかに光を弾く薄い腹が、何の動きも見せないのが、怖いのだ。
花は、見えない。遠慮がちに、なるべく触れないように、肌を暴いていく。
こんなふうに許しを得ずに、見たくはない。だから、目は逸らさないが、心は目を閉じる。
ルーディウスにとってアミナは、その意志を尊重したい大切な女性なのだ。
命を救うことを理由に、無遠慮に厚顔に、彼女の意志を無視したくなどないのだと、大声で叫びたかった。
やがてその慎ましい臍の下に、確かに赤い花のしるしを見た時、ルーディウスは、たまらず片手に顔を埋めた。
――彼女の意志を、彼女の口から聞くことなど、容易かったはずなのに。なぜ自分はそれを怠ったのだろう。
一緒に歩きたい。そう、彼女は言ってくれたのに。
彼女を救うためと彼女を捨て、彼女を救うためとまたここに舞い戻った。
独り善がりに。
一度も、アミナの心を聴かぬまま。
「アミナ、それでも俺は浅ましく願う。あなたを守る、力が欲しい。あなたが死にたいと言ったとしても、死なせたくない。あなたのためじゃない。俺の、わがままだ」
白い額に頬を寄せれば、ひやりと冷たい肌。
その時、かすかな、ほんとうにかすかな息が、ルーディウスの顔をくすぐった。
まるでそれが、最後の息のように、細く、長く、ゆっくりと。
「アミナ、だめだ、アミナ」
ルーディウスは、アミナを床に下ろし、その柔らかな白い腹に咲く赤い花に、吸い込まれるように、額を押しあてた。
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