これが徴か
ようやく、腕の腫れが落ち着いてきた。
一人になった隙に、部屋の扉を椅子で押さえて、祈りを試みることにした。祈りの間以外で、遠く離れた人に向けて祈りの力を使うのは、初めてだ。
寝台に腰掛け、息を整え、膝の上に組んだ両手を乗せて目を瞑ると、嵐の只中のように荒れた自分の内面が押し寄せてくる。
世話をしてくれる侍女に何を尋ねても、教えてもらえたのは今もルーディウスたちの軍がまだ戻っていないことだけ。一体何が起きているのか気になって、心は波立つばかりだ。
そんな心の状態が反映されているのか。祈りの力は体の中で渦巻き、暴れるのに、うまく動いてくれない。こんな感覚は、初めてのことだ。戸惑う間に時間ばかりが過ぎる。鈍く続く腕の痛みのせいか、焦りのせいか、集中しきれなままに体が傾いだ時、扉が叩かれ、侍女の誰何の声がした。
不審に思われたら、もう一人にしてもらえないかもしれない。
「大丈夫よ、少し、一人にしてほしいの」
なんとか適当に応じて、もう一度。
アミナは深く息を吸い、息を吐いた。
祈りの間では、いつも目を瞑れば祈る事ができた。自分の気持ちの状態とは関わりなく、始まってしまうのが、祈りだった。だから、考えていたのは、誰かのことだ。祈りを届けて、少しでも救いになりたい、顔も知らぬ人々のこと。そして、誰よりも無事に帰ってきてほしい人の。
ルーディウスを思い浮かべた途端、祈りは勢いよく体から溢れ出た。いつもは鉱石に吸い込まれていく祈り。それが、今はアミナ自身からごっそりと、どこか知れない遠くへと、真っ直ぐに飛んでいったようだった。
ああ、お願い。どうか、あの人のところへ――。
大きな音を立てて扉が開いた。
驚いて祈りを中断させたアミナは、そのまま、寝台から力なく転げ落ちた。扉の前に置いたはずの椅子が、弾き飛ばされて部屋の反対側に転がっている。
開いた扉の向こうには、愚かな生き物を見下ろす神のような、凍った表情のオルヴェルト王子が立っていて、床に伏せたアミナに眉間を寄せた。
そのまま、言葉もなくアミナを部屋から引き摺り出したのだった。
「おやめください……お願い、放してください」
アミナは弱々しくも、精一杯抵抗をするのに、オルヴェルト王子には届かない。
兵士が慌ただしく行き来する廊下を、アミナの腕を掴んで足早に進んでいく。何度も崩れ落ちるアミナに舌打ちをしたオルヴェルト王子は、アミナの細い体を肩に担ぎ上げて、また歩き出した。
苦しく長い揺れがとまったのは、どれだけ上り下りしたあとだろう。
ばしり、と衝撃が頭を揺らした。オルヴェルト王子に、頬を叩かれたのだ。剣士でもある男の軽い一撃は、アミナを床に強かに打ち倒した。
「しっかりせよ。聖女よ」
冷たい声が、叱咤する。
「死に急ぐとは、その身に重き役割を負う聖女とは思えぬ軽挙だな。婚約者に捨てられ、泣いて縋って醜態を晒した惨めな聖女でも、公爵家に生まれ聖女と称された身の義務は果たすのだ」
冷え冷えとした蔑む声に、アミナは必死に言い返した。
「私個人がどれほど愚かであろうとも、聖女としての誇りは失っておりません。務めはもちろん果たしましょう。けれど、そのためには祈りの間にて祈りを捧げねばなりません」
息を切らしながら必死に言うのを、オルヴェルト王子は嘲笑った。
「祈りか。今更愚かなことを言う。一切の祈りをやめよと言ったのを忘れたか。お前の祈りは何の役にも立たず、今王都は敵軍に囲まれている。それなのに、今何をしていた。さしずめ婚約者に未練を抱き、国のためではなく、男のために祈ったのであろう。死にかけるまでにな」
「な、なにを」
アミナは言葉に詰まり、オルヴェルトは一層凍りつきそうな目をした。
「図星か。聖女と言いながら、所詮は女の欲にまみれた俗物というわけだ。……おい、もしや、すでに加護まであの男に与えた後ではあるまいな」
オルヴェルトの手が、伸ばされる。手袋の革の匂いが鼻を掠めた。目が回り、体の上下もよくわからないほどに気分が悪く、その匂いは胃をかき混ぜた。オルヴェルトの声も、今まで聞いたことがない低く底を這う不穏な響きだったが、アミナにとってはもっと気になることがあった。
「あの男、とは。そのような言い方を、なぜなさるのです……。ルード、ルーディウス様は、あなた方、王子殿下のお側に仕える一の騎士ではないですか、ああっ」
肩を掴まれただけで、悲鳴を上げたのはそこに治り切らない怪我があるからだ。
知っているはずなのに掴んだオルヴェルト王子が恐ろしくて、これ以上怒らせたくはなくて、アミナは痛みに泣き叫びそうになるのを、必死に抑えた。
ふう、と一つ大きな息が聞こえた、と思えば、肩を手放され、アミナは倒れ込み、肩を庇って丸くなった。
「ルーディウスは、裏切った。隣国の手引きをしたのは奴と、第二王子ケルヴィン、我が弟だ」
アミナは、耳を疑った。
あの穏やかで兄の言うなりだった王子が、国を裏切った?
そしてその第二王子の側に、ルーディウスがついたと、そう言うのだろうか。
理解ができない。それは、アミナの知るルーディウスではない。
「気にすることはあるまい。お前を打ち捨てた男だ。奴にとっても、もはや国賊となった今、敵方の聖女など、一番に首を獲る相手でしかない。聖女の祈りは、軍の守り。奴らの勝利は、聖女の死ありきだ。
――そのくらいの道理は、わかるであろう。いくら愚かなお前でも、な。お前の祈りは、既に無意味。あるいは、かえって奴を追い詰めるであろうよ」
ゆっくりと言葉を理解して、アミナは震えた。
何の役にも立たないと国王に罵られ、祈りの間から引き摺り出され、投獄されたのは、幾日前だっただろうか。祈りを国へあまねく届ける手段を奪われ、ただの無力な女となった時。
アミナは、聖女であることをやめ、たったひとりのために祈ることにしたのだ。祈りの行き先がひとつならば、媒体を介さずともきっと届くと、信じて。
ただの独りよがりな行いだと、疎んじられる可能性に怯えながら。
でもまさかその男が、敵の立場でこの国にいたとは。
「祈るべきではなかったと、理解したか」
オルヴェルトはそう言って冷ややかに目を細めていたが、それは違う。
アミナは、思ったよりも危険な状況にあったルーディウスを、きっと自分の祈りが助けたことを確信して、喜びに震えてしまうのを抑えられなかったのだ。
ぎゅっと目を瞑って、もう一度、祈りを捧げた。
わたしの愛するあの人が、どうか、無事でいますように、と。
それは戦いに出た大切な人に、帰りを待つ者誰もが祈る、同じ言葉だ。
祈りは、またしても瞬きの間に何処かへと飛んでいった。
その先にきっと、ルーディウスがいるのだと、アミナは朦朧としながら微笑み、さらに祈る。
だがその祈りは、オルヴェルトが顎を掴んできたために、すぐに途切れた。
「よい。そなたには、言うだけ無駄とわかった。自覚しているか、己の状態を。……聖女には、加護を授ける力が宿ると聞く。それを俺に授けよ。それくらいは役に立ってもらおう」
瞬間体を駆け巡った、驚きと恐れが、アミナの琥珀の目に光を戻した。
覗き込んでくる、際立って美しい顔をした男は、いつもの冷えた目ではなく青い炎のような猛々しい目をしていた。王子が、聖女を見る目ではない。それはまるで、男が女を見る目だ。
その目が、恐ろしくてたまらなかった。
「なにを、なさるのです」
「わからぬ。加護を授けるために、体に印があるということしかな。まあ、人の男女のことゆえ知れている。試してみればよい。必要なければ無体はせぬ」
オルヴェルトには妃も特定の女性もおらず、女性の噂もない、淡白な質と聞いていた。言葉の通りに受け取っていたアミナは、まさか、と慄く間に、大きく口を開いたオルヴェルトに、喰らいつかれた。
必死に腕を突っ張っても、足を振り上げても外れない。散々わけのわからない音を立てて貪られて、濡れた音と共に、一度解放された。
ぜえぜえと、胸が上下する。口の周りが冷たい。
ぶわり、と涙が溢れた。
「る、ルードさま……」
思わず溢れた名に、王子の目が、暗い色に澱んだ。
「今その名を呼ぶか。さすがの最悪の選択だな、聖女アミナ」
華奢な体を膝で押しとどめながら、オルヴェルトはゆっくりと両の手袋を外し、床に落とした。
覆いかぶさってくる体の向こうに、高い天井が見えた。
天井は、濃い影に沈んでいる。普通なら暗さゆえ見えないであろう、色褪せた絵が、降るように目に飛び込んできた。
この国の者なら誰もが知る、建国の逸話で最も有名な、奪狼戴冠の場面だ。聖女が、建国王の頭上に手を翳している。その手のひらに浮かぶ、赤い星型の徴が、アミナの目に焼き付いた。
聖女の傍らには、まるで慈悲を乞うように深く項垂れた狼がいる。古びた狼は、もう、その色もわからない。建国王の背からは、巨大な金の狼が、炯々と光る青い目を輝かせて、立ち上がっている――。
オルヴェルト王子の両手が、アミナの頬を挟み、そのまま顎の線をたどり、首を包み、鎖骨を撫でた。ドレスの肩を両手が掴み、左右に引いた、と思えば、ビーッと音を立てて、衣服が破かれた。
「や、いやっ」
「口の中にはなかった。ではどこだ。心当たりはないのか」
言葉など聞き取れずにただ暴れようとするが、アミナの力など、何の妨げにもならない。
体を隠すことすら許されず、青い目が、ルーディウスのものと同じ色の青い目が、じっと体を眺め渡すのに、震えていた。
「これが徴か……」
無造作に両手を片手で拘束され、はだけた腹に馴染まぬ人の手の温もりを感じて、総毛だった。指先らしき固い感触は、臍の下あたりに添えられている。その手がただただ恐ろしく、アミナは息を忘れた。
いや、少し前から、息をしてもしても、吸えていないかのように苦しい。濃密な霧に包まれて、緩やかに溺れるような、優しい苦しみ。
天井の絵が、視界の淵から剥がれ落ちるように、黒く塗りつぶされていく。
「これは……、おい、聖女。息をしろ。アミナ!」
金の髪と青い目のだれかが、覗き込んで何か言っている。そのあとで、口から少し息が吹き込まれた気がしたけれど、もう、体の奥には届かなかった。
「間に合わぬか……、まさか、俺に加護を授けたのが、お前だったとは」
オルヴェルト王子の冷たい声が、少しだけ揺れている。
そんな声を、いつかどこかで、聞いた気がした。
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増えるととっても頑張れる、魔法の燃料です……
全体を見直して、あまりに説明が乏しかった前半に、説明を追加しました。
エピソードも話の流れも変更はありません




