その狼のもの
あれから、アミナが祈りのために登城する時には、決まってルーディウスが迎えにきて、祈りの間に付き添い、そして、公爵家へ送り届けてくれるようになった。
国王もルーディウスの存在について何も言わず、近衛兵らは不遜な表情をしながらも、職務を超えて接触してくることはなくなった。
これまで常に緊張を強いられていた場面で、隣に信頼できる温もりがあるだけで息をするのが楽だ。アミナは守られる幸せを噛み締める。
ただ、三ヶ月に一度もなかった呼び出しが、ひと月に一度ほどの頻度に、じわりと増えていた。祈りが必要だということは、すなわち、国の何処かで争いが起こるということだ。
そのことを考えると、幸せの中に砂のようなざらつきを感じてしまう。
「いつもありがとうございます、ルード様。お仕事の邪魔にはなっていませんか。毎回突然お呼び出しすることになってしまって」
「構わない」
「でも、あの、私が祈っている間は何をしていらっしゃるの?」
尋ねると、ルーディウスはアミナの細い手首を持ち上げて、そこに指を二本置いた。
「こうして、脈をとっている」
実演してくれたらしい。ルーディウスは真剣な表情だ。手首に触れられて、胸が跳ねるほど動揺したのは、アミナだけのようだ。
ルーディウスは、顔色と脈の様子で、アミナが無理をしすぎていないか見守っているのだと言う。そして時々、ぼんやりとしたままのアミナに水分を取らせてくれているらしい。
たしかに、祈りを終えた時の体の辛さが、このごろは明らかに楽になったと思う。アミナには、自分がどうやって水を飲んでいるのか記憶はなかったが、ルーディウスの気遣いには、心がくすぐられたように跳ねた。
ルーディウスが慎重に試行錯誤をした上で、祈りの最中に、自分の座った足に瞑想に沈んだアミナをそっと座らせていることも、血行をよくするために冷えた手足を撫でさすっていることも、今後アミナが知ることはないだろう。
祈りの鉱石が嫌うと言う理由で、手のひらより大きな金属や木製の物の持ち込みを禁じられている祈りの間で、ルーディウスが持参した果物を一粒一粒、アミナの口に入れてやっていることも。
ふたりで王宮を歩くと、ルーディウスに声をかけるものがいる。
最近はその頻度が少し増したように思う。
彼らの多くは、ルーディウスと一緒にいるアミナに対して、聖女への敬意を丁寧に示してくれたが、中には嫌な視線を向ける者もいた。その日声をかけてきたのは、はっきりと後者だった。
「ルーディウス、こっちだ」
「ロイブン」
「オルヴェルト殿下がもうすぐ通られる。挨拶くらいしろ」
「……殿下はお望みではないと思うが」
ルーディウスは平坦な声で対応しながら、アミナの背中に大きな手を当てた。それだけでふわりと肩の力が抜けたのを感じる。オルヴェルト王子の名が出て、少し強張っていただろうか。
「んなわけないだろ。こういうことは周囲が気を利かせないと」
そう言ってこちらを見る目が、分かりやすく冷えている。
アミナは視線を避けた。夜会でもオルヴェルト王子の隣にいて、同じ目を向けてきた人物だ。
まるで、オルヴェルト王子に嘲り笑われるのがアミナの当然の役目だと言い聞かせるように。
その目がオルヴェルト王子の目よりも澱んで暗く見えるのは、気のせいだろうか。
考えるうちに、廊下の空気がざわめいて、足早に数人が近づいてきた。
オルヴェルト王子と側近達だ。
ロイブンが満足げな笑みを浮かべて、腰を折った。
アミナも、ルーディウスと共に王子に対する礼の形をとった。
オルヴェルト王子とここまで近づくのは、久しぶりだ。そういえば、ルーディウスと婚約をしてから、王子たちとの接触は一度もなかった。
オルヴェルト王子から理由もわからず受ける手酷い扱いに、アミナが泣き伏したり、心折れたりすることはなかったけれど。いつも、アミナの自尊心は、粉々に突き崩されていたのだ。公爵家、あるいは友人達と過ごす時間で、ゆるやかに自分を取り戻していっても、また壊される。その繰り返しは、思っていたよりアミナを疲弊させていたようだ。
この数ヶ月は、心が満ちるばかりで壊れることもなく、信じられないほど穏やかで優しい日々だった。
だからこそ、久しぶりのこの邂逅が、今までになく恐ろしいのだろう。
近づく足音に、床を見つめたまま、アミナは数ヶ月ぶりに投げつけられる冷たい言葉に備えて、身構えた。
だが。
オルヴェルト王子は一瞬も足を緩めることなく、アミナの前を通り過ぎた。
そしてそのまま、廊下の角を曲がっていった。
「え、で、殿下?」
白皙の美貌を向けることも、横目の一瞥すら与えることもなかったオルヴェルト王子に、ロイブンこそが慌てたようだった。オルヴェルト王子に追従していた二人の側近の歩みも乱れたので、誰もが意外に思ったのかもしれない。
納得がいかないロイブンが、食い下がった。
「殿下、聖女アミナ様がここにおられますが……」
角まで追いかけ、王子の背に叫ぶように声をかけたが、足は止まらない。
代わりに、その長身の背越しに、低い声が返った。
「その聖女は、その狼のものだ。我々が構う必要はない」
何の感情も窺えない、淡々とした声だった。
側近達の乱れはかき消え、整然とした歩みに戻った。
ロイブンだけが、未だアミナと王子たちとをしきりに見比べていた。
いや。
アミナもまた、不自然に打った胸をそっと押さえた。だが違和感は一瞬のことで、すぐに、安堵が胸に満ちた。ルーディウスと婚約して、本当に、オルヴェルト王子からの奇妙な干渉は終わるらしい。
王子達と、それを追いかけたロイブンが去った廊下で、アミナは大きくて深い息を吐き出した。
その隣で、ルーディウスは思案していた。
やはり引っかかるのは、何故だろう。
アミナがルーディウスと婚約したから構う必要がなくなったというならば、以前はアミナに婚約者がいなかったから構っていたのだろうか。
だが、好かれるための構い方ではない。かといって、憎いわけでもなさそうだ。
では、一体何のために。
ルーディウスはアミナと婚約をして、聖女の守護者となり、それこそ、かつてオルヴェルト王子に言われた通りに、アミナに常に張り付いている。
聖女の守護者となって狼らしくどこまでも張り付くといい、とは単なる揶揄かと思ったが。今思えば、まるで予言のようだ。いや、暗示だろうか。
あの言葉がなければ、聖女の祈りに同行するなど、初めから考えつかなかったかもしれない。
とすると、ルーディウスの主君、オルヴェルト王子は、アミナを。
そこでルーディウスは、思考を散らした。
すでにルーディウスとアミナは国王の言葉の元、婚約をし、それはすでに公のこととなっている。今更、オルヴェルト王子の思惑を探る意味は、無いはずだ。
初めての顔合わせで満開だった初夏の花はとうに散り、日差しは強くそしてまた陰り、影は短く、そしてまた長く。この国の短い夏が終わり、秋が来ていた。
ルーディウスがアミナを見つめる時の青い目は、夏に融けてしまったのか、ずっと甘い。
「今日はこの白い花が綺麗に咲いていたので。好きだろうか」
贈られる花も、夏頃から急に変わった。
それまで贈られる花は薔薇だったが、これが世間では、婚約者に送るには愛情を表面に出しすぎていて、あまりよろしくない花だったらしい。兄に相談してみたら呆れられた。といささかしょんぼりと告白された。
薔薇のことをアミナは全く気にしていなかったが、その告白には目眩を感じるほど高揚して、肩を落としたルーディウスの前で、くすくすと長く笑ってしまった。あまりに笑いすぎて、ルーディウスの口が真一文字になってしまったのを見て、慌てて弁解しなければならなかったほどだ。
「あの、私を大事に思ってくださっていることも、それをご家族に隠すことなく、お兄様にルード様から相談なさってまで私のために考えてくださったのも、とても嬉しくて。それはもう、心に羽が生えて、飛んでいってしまいそうなほどに。
なのに、ルード様はなぜかしょんぼりなさっていて。私はとんでもなく嬉しいのに、どうしてかしらと思うと、急にとてもおかしくなってしまって。ごめんなさい」
受け取ったシャラという白い花は、アミナの片手にちょうど収まるほどの大きさ。遠い国から入ってきた珍しい花だという。
アミナはその花を両手で大事に持って、白い花弁に口付けた。
「ああ、幸せってこういう気持ちなんだって、いつも教えてくれて、ありがとう、ルード様」
心から感謝を込めて微笑み見上げたのだが、ルーディウスは、半分赤くて、半分青白い、奇妙な顔色になった。
「そう、か。俺は、兄に、恋愛相談をしていた、のか」
もごもごと呟いて、青い目を大きな手で隠してしまった。
「れんあい、そうだん?」
聞き咎めて、アミナが繰り返し。
「恋愛? ルード様が、わ、わた」
戸惑って赤く染まった顔に、シャラの花はきっとよく映えたのだろう。
ルーディウスがこちらを見て、少し目を瞠り、それから、夏の夕日のようにとろりと見つめてきたので、アミナは居た堪れなかった。
よりいっそう、顔に熱が集まる。絶対に鼻の頭が一番赤いし、顔に血が昇って腫れているような気までする。
こんな顔を、ルーディウスに見てほしくはなかった。
けれどやっぱり、いつまでも、その視線を逸らしてほしくない。
公爵家の玄関先でのふたりの見つめ合いは、たまたま外出しようと出てきたテセウに咳払いをされるまで続いたのだった。
全体を見直して、あまりに説明が乏しかった前半に、説明を追加しました。
エピソードも話の流れも変更はありません




