祈ってほしくない
長い……
王宮の自分の宮まで同じ馬車に乗り移動した後、オルヴェルト王子は侍女に向かって放り出すようにしてアミナを渡すと、再びどこかへ行ってしまった。
時間が経ってすっかりワイン臭くなったアミナと同じ馬車は、やはり嫌だったのではないだろうか。
アミナを見て心配そうに駆け寄ってきた侍女は、ほんの少しだけ歳を取っていたものの、顔馴染みの女性だった。通された部屋も、見覚えがある。
一年前、ルーディウスと婚約を結ぶ前は、よくここに押し込められていた部屋だ。雑然と物の放り込まれた、がらんとした部屋。
だがいつも、押し込められても長くて半日のこと。その意図がまったく不明ではあるが、身体的な危害を加えられることはないと知っている。今回も、身支度ができれば、すぐにあっさりと帰されるだろう。
よく、知っている。
婚約前は、何度も繰り返されていたことだから。
ああ、また始まってしまった、とアミナはため息をついた。ぼんやりしたアミナでも、ここにきてようやく、ルーディウスに婚約を破棄されたこと、それによって、再び、オルヴェルト王子との奇妙で難しい距離に悩まされそうなことを理解できてきた。
「でも、ルード様、嘘つきだもの」
確信がある。
けれど、あの生真面目で誠実なルーディウスが、公言したことを翻すこともないことは、十分予想できた。
嫌われているのはきっと嘘で、婚約を破棄するのは、きっと本当だ。
「でも、なんで」
涙が出てきたが、いまこのオルヴェルト王子の宮で泣くのは、嫌だ。
アミナはぐっと目を見開いて涙を乾かすと、侍女の手を借りて体を清めることを優先した。泣くのは、ルーディウスの前か、自分のの寝室に帰ってから、だ。
風呂まで使い、サイズのあったドレスを着せられて、アミナはきちんと王家の馬車に乗せられた。なんとか粘って、汚れてしまった夕焼け色のドレスも乗せてもらった。ひどく汚れてしまったので、もう着られないだろうけれど。
王子の宮から離れ、王宮の表側へ向けて走り始める。そこから、大きく解放された王宮の門を通って、公爵家へと帰るのだ。
けれど、どうしても、どうしても、このまま帰りたくなくて。
「忘れ物をしました。取ってくるので、少し待っていてください」
幼い頃は自由に歩き回っていた王宮だ。どこへでも、行きたい場所へ行ける自信がある。
だが、近衛軍が半ば無頼の貴族子息の吹き溜まりとなり、国王の名の下に好き放題している今、彼らが縄張りのようにうろつく王宮は、娘が一人で歩くには怖いところだ。
公爵家の侍女は帰されてしまっていたので、御者と付き添いの従者が必死にアミナを引き止めたのは、近年の王宮の治安を考えれば、当たり前の心配だった。
それを申し訳ないながら、きっぱりと断って、アミナは王宮の暗い庭に戻った。
ルーディウスは、まだ夜会の会場にいるだろうか。夜会会場は、歩くにはかなり遠い。
会場から出るなら、真っ直ぐ侯爵家に戻るのだろうか、王子たちの宮に寄るだろうか。
深く考えることなく、アミナはケルヴィン王子の宮へと足を向けた。ケルヴィン王子は会場にいなかった。だから、ルーディウスはケルヴィン王子に挨拶してから帰るだろう、と。
夜の庭は、不穏な気配に満ちていた。時折、男女の囁きが暗がりから聞こえたり、警備の担当兵と見られる男たちが集まってしきりに笑いながら毒づいている。
アミナは慎重にそれらを回避して、勝手知ったる庭をするすると進んだ。昔より体が大きくなって、灌木に引っかかりやすくなっていたのは計算外だったが、誰にも見つからずに、王子宮と本宮を繋ぐ通路まで、庭を通ってたどり着いた。先ほどまでいたオルヴェルト王子の宮もほど近いので、戻ってきたと言うべきか。
その時、大きな人影が宮の奥から歩いて来たので、咄嗟に柱の影に身を隠したが。
「アミナ?」
自分を呼ぶ声が、今までとあまりに変わりなかったので、アミナは素直に通路に歩み出た。
トクトクと、胸が騒ぐ。
「アミナ、何故ここに。まさか、一人か?」
そう言ったルーディウスは、一人ではなかった。ちょうど暗がりで顔は見えないが、誰か、細身の人物が一緒にいる。ドレスの裾が見えてドキリとした。侍女ではない女性と、ルーディウスが、二人でいたのだ。
アミナとルーディウスの距離より、その誰かとルーディウスの方が、近い。
急に、迷子になったような気がした。信じて走ってきた、その光を見失った。
ルーディウスの行き先が、王子たちの宮か侯爵家かの、どちらかしかないと、どうして決め付けられたのか。アミナの知らない行く先があったのかもしれない。
胸が、痛い。
ここまで必死に走ってきて、アミナは髪が額に張り付くほど、汗をかいている。ドレスの裾にはちぎれた葉や土が付いているだろう。
滑稽な格好だと思った。顔も姿も良く見えないけれど、きっとルーディウスの隣にいる女性は、美しい。
自分より、はるかに。
その女性が、一歩進み出て、ルーディウスの腕に手をかけた。遠慮がちな、たいしたことのない触れ合いだ。
けれどその手が、驚くほど憎かった。
「……あっ」
突然、自分のなかで、祈りの力が逆巻きそうになって、気持ち悪さに、アミナは体を折り曲げて外に向かって咳き込んだ。腹がひくひくと痙攣したが、何も出ない。
ただ、体の中で渦巻いている。
これは、なに。
それは、惨めさや、悲しさではなかった。
もっとどろりと粘ついた、アミナがこれまでに感じたことのないひどく攻撃的な思いだ。誰かにぶつけてしまいたいのに、どこかで自分がそれを止める。
だから、出口がなくて、暴れている。
「アミナ、大丈夫か。少し座るといい」
ルーディウスが駆け寄ろうとするのを、女性の声が引き留めた。
「ルーディウス様、もう婚約を解消されるのでしょう? では、みだりに触れて手を貸しては良くありません。聖女様にも、甘えられる時期は終わったと、よく理解して頂かないと」
横目で見えた女性の口元は、真っ赤な紅が差してあった。
アミナは避けるであろう、攻撃的な色だ。
今も、アミナが必死に抑え込んでいる憎しみを煽るように、真っ赤な唇が弧を描いた。
「それに、お忘れですか? ルーディウス様はもう選んでくださったでしょう? 聖女様より、私を」
ルーディウスが弾かれたように彼女を振り返ったが、アミナは彼女のその言葉に、強烈な違和感を感じ、靄が晴れるように、心が落ち着くのを感じた。
苦しみが引いていって、初めてアミナは、自分の中で渦巻いていた感情をまっすぐと見た。
嫉妬、自嘲、憎悪、破壊。
こんなに黒い感情が自分の中にあったなんて。
心は落ち着いたのに、黒々としたものはそのまま、アミナの中にある。
苦しさを感じなくなったのは、もしかすると、渦巻いていた憎しみに抑え込むことを、放棄したからかもしれない。
アミナの感情だ。拒絶する必要が、あるだろうか。
けれども、あくまで穏やかに振る舞わなければならない。
常に優しく、けれど強く、いつも見知らぬ他者のために。
アミナは体を起こし、口元を拭うと、静かに二人に向き直った。
まっすぐに女性の顔を見る。見覚えのない顔。宮廷貴族の縁者ではないだろうが、アミナの知る世襲貴族の令嬢たちでもない。おそらく、地方出身の令嬢なのだろう。ルーディウスも所属する、王子たち直属の軍には、世襲の大貴族から地方を任されている領主たちの子息が多いと聞く。ではその縁、なのかもしれない。
聖女であり、公爵家令嬢でもあるアミナに対して、かくも攻撃的な態度を取るのだ。きっと、ルーディウスのことが好きなのだろうと思ったのだが。
わかってしまうのだ。
「どなたか存じませんが、貴女の言葉には嘘があります。なぜ嘘をつくのかは知りませんが、人を傷つける嘘で愉悦を覚えるのは、よいご趣味ではありませんね」
女性の隣で、ルーディウスが目を見開いている。
驚いただろう。アミナだって、驚いている。自分がこんなことを言えるなんて、知らなかった。
「え、らそうに。聖女のせいで、どれだけ人が苦しんでいると! 近衛贔屓のエセ聖女のくせに」
「何を言い出す、やめろ」
ルーディウスの短い叱咤に、女性がはっと後ろに下がった。
けれどアミナは、下がれなかった。女性の怨嗟が、アミナではなく、聖女に向けられていたからだ。今度はアミナの感情とは別のところで、勝手に口が動いた。
「聖女は、陽の光のように祈ります。降り注ぐ先の、人の区別をつけることができない。戦場に立つ人の服の色で、祈りを届けたり届けなかったりは、できないのです。だから、聖女の祈りは広く薄い。ひとりひとりにとっては、ほんの些細なものでしょう。聖女と呼ばれても、できることなど、たかが知れています。——ですが、聖女は決して、誰に強要されようとも、人を選び取らない」
女性は、もう口を開く気はないようだった。それでも、睨みつける視線を感じて、アミナは俯いた。
これ以上身の内に沸立つドス黒いものを刺激しないよう、静かに息を吐く。自分の中の負の感情を受け入れはしても、その感情のままに振る舞うことは、聖女として、自分に許したくはなかった。
女性としても。
「……けれど、私の力及ばないことの言い訳にはなりません。ご批判は受け止めます。私がたとえ命を削るように祈っても、国中の人を救うことはできないでしょう。ごめんなさい」
ここには、ルーディウスと話がしたくて来たのだが。
聖女に厳しい態度で臨む女性の存在が、いや、ルーディウスが女性と一緒にいたことが、アミナの気を挫いた。
アミナはくるりと身を翻すと、庭の暗がりに飛び込んだ。
「アミナ!」
本当に、なんて滑稽で、無様なんだろう。
ただの呼び声が、胸をうずかせる。そのことに、涙が出た。
公衆の面前で捨てられ、他の女性と密会をしていた婚約者に、名を呼んでもらって、嬉しいと思うなんて。
ルーディウスはあっという間に追いついてきて、アミナの肩を抱き寄せた。婚約者でもないのに、いいのだろうか。そんな思考も、大きな手を感じた途端に掻き消える。
ただ、ぼろぼろと涙が溢れた。
このまま、何もなかったことになるだろうか。
小さな喧嘩をした後のように。悪かった、と言ってほしい。
「庭を一人で歩かせるわけにいかない。送る。俺が嫌なら、誰かに送らせるから、一人で行くな」
心配してくれている、といつものアミナなら思っただろう。素直に喜んで、礼を言っただろう。
けれど、そこに仲直りの気配がなかったから、アミナはふるふると首を振った。そのまま、肩の手を振り払って、黙ったまま歩き出した。
「アミナ」
ルーディウスは、追いかけてこなかった。その代わり、途方に暮れた声で、アミナを呼んだ。
アミナの足が、ぴたりと止まる。
それを見てとって、ようやく、ルーディウスがそろそろと近づいて来て、もう一度肩を抱いた。壊れ物を触るように、そっと。
「すまない、だが送らせてほしい。庭は危険だ」
「ずるい」
「え?」
「ずるい、ルード様。私のこと嫌いになったって言ったのに、私のこと、嫌いになってなんか、ないじゃない。それなのに、どうして私に、憎んでいいなんて、言うの?」
くるりと体の向きを変えて、アミナはルーディウスの青い目を見ないようにして、とん、と額を硬い体に押し当てた。響いてくるのは、自分の鼓動か、相手の心の音か。
「教えて、ルード様。あなたの言葉にも、嘘があります。嘘をつく理由があるのよね。多分それは、私を傷つけるためではなくて、私を守るためだと、わかる。だけど、ルード様、教えてほしいの」
抱き返してくれない人の、服を掴んだ。
「それは、わ、わたしが、一緒に背負うことは、できないの? 頼りないかもしれないけど、でも私……私、たとえあなたが狼騎士と呼ばれる強い騎士でも、あなたにただ守ってもらいたいわけじゃなかった。一緒に歩きたいと思ってた。おじいさんと、おばあさんになっても」
あなたは、違うの?
激しい衣擦れの音がした。
息が詰まるほどに抱き締められて、体が軋む。それでよかった。抱き潰されてしまいたかった。これこそが、アミナの知る、ルーディウスの心だったから。
苦しいほど仰向けにされて、口づけを受けた。一年の間に、知ることのなかった深くまで。腰が引き寄せられて、熱い体と溶け合いそうだった。
けれど、荒かった息が、耳元で整って。
「アミナ、聖女をやめられるか?」
そう尋ねられて。
いいえ、と答えることしか、できなかった。求められている答えではないと、わかっていたのに。
聖女は、生まれついてのものだ。なろうとしてもなることはできず、やめることもまたできない。ましてアミナは、聖女でいることに、誇りを持っている。けれど――もし、聖女でなくなることを、求められたなら?
アミナの琥珀の目が揺れた。
「ルード様、私が聖女だから、遠ざけるの?」
「いや、アミナが聖女であることは、アミナがアミナであることだ」
だが、とルーディウスは、アミナから半歩離れた。
剣を握る硬い指が四本、アミナの上唇に当てられて、下唇にも触れて離れていった。吸われて腫れた唇が、乾いた指にくっついて少しだけ捲れた。そこに、ルーディウスの視線が、ひたりと向けられている。
「だが俺は、アミナにはもう、祈ってほしくない」
結局、仲直りの言葉はないまま、アミナは馬車に乗せられた。
ルーディウスが王子宮の入り口に戻ると、控えていた女性が、深く頭を下げた。
「勝手な行動をとってしまい、申し訳ございません」
「任務上のことであれば、謝罪の必要はもとよりない。まだ任務が残っている。よろしく頼む」
「はい、ですが、私は任務だけのつもりは……」
「もし、任務から離れた個人的な思想で先ほどの言葉を発したのであれば」
聞く価値もない言葉を切り捨て、伸ばされた手をあからさまに避けて、ルーディウスは一歩下がった。
「聖女の祈りの恩恵に預かったことのある一騎士として、決闘を申し込みたいほどだ。貴方の兄君は、そうは言わないだろうか?」
拒絶を受けて俯いた女性は、顔を上げなかった。
ルーディウスは、この女性の兄が、背後から飛んできた致命的な矢を運良く躱すことができたおかげで、利き腕の自由を失っただけで済んだことを知っている。
だが、事実とは、見るものによって変わるものだ。矢に運悪く当たって、不幸にも利き腕の自由を失ったと思う者には、それが真実となる。
まして、近衛隊の一部の兵は、恐るべき効力の聖女の祈りで守られているとなれば。
それ以上、かける言葉もなく、ルーディウスはテセウの執務室へ体を向けた。
「優しくしてあげているのに、酷い態度じゃない? 私が悪いみたいに。聖女サマを恨む人間はたくさんいるのに。でもどうせ聖女はオルヴェルト王子のお気に入りに戻るだけ。捨てられたのは、自分のほうでしょう、黒犬」
呪いの言葉はごく小さかった。聞こえるとは思っていないのだろう。
ルーディウスにとって、聞き慣れた蔑称だ。黒い髪は市井に多い。宮廷貴族、世襲貴族を問わず、黒髪を疎む者は存外に多い。だが、害はない。害になりそうであれば、排除すればいいと、ルーディウスはもう知っている。
ケルヴィン王子に言い付けられた通り、テセウの前で隣に立っていてくれるなら、放置していいことだ。関係ない。
関係ないが。
夜会の時と、ドレスも髪型も、纏う匂いすら違ったアミナを思い出して、目の前が赤くなった。
「自分の口から出る言葉が、噂話と妄想の混ぜ物でしかないことに無自覚な人間に、戦場でなくとも相方を務めてもらう気はない。帰っていい。代わりは見繕う」
「え、困ります。殿下には」
「ケルヴィン殿下への報告も不要。立ち去れ」
取り付く島がないと見てとるや、女性は憤然と立ち去った。
「何をやってるんだ、俺は……」
アミナの唇に触れた指を、握り込む。ぐらぐらと地が揺らぐ心地だった。
だが、もう全ては動き出している。
今はまず、テセウの執務室に急ぐべきだった。ケルヴィン王子には女性を伴えと言われたが、こうなってしまえば、もはやいなくても良いだろう。途中でいい案ができたら、考えよう。
全体を見直して、あまりに説明が乏しかった前半に、説明を追加しました。
エピソードも話の流れも変更はありません




