黒犬、狼
本日三話目です
「黒犬が」
耳を掠めるその言葉は、王宮の至る所で囁かれる。それがケルヴィン王子の宮であっても、さして驚くことではない。オルヴェルト王子のところでは聞いたことがないが、あの宮はいつも人が少ない。
言い捨てた男は、側近の補助役として、一年ほど前にケルヴィン王子が気に入って抱え込んだ者だ。
そういえば、側近以下の側仕えも、かつては王子たちに共通の者たちが付いていた。近年は、それぞれの王子が気まぐれに雇い入れているようだ。いや、時々、ケルヴィン王子がオルヴェルト王子に、人を強請っているのを聞く。ケルヴィン王子は、何かに秀でた人間が好きらしい。
だが、雇い入れた人間の感情には、いささか、おおらかだ。
男はこちらを憎々しげに睨んでから、徐に書類に向き直った。これで、同じ部屋であと数時間一緒に仕事をするのだから、あえて空気を悪くしたいその気持ちは、ルーディウスには理解ができない。
面倒で、出来上がっている束をまとめると、自ら届けるために部屋を出た。自分の分の仕事は、もう終わっているのだ。
渡り廊下を通り、執政宮に入れば、目に見えて人が増え、誰もが忙しそうになった。こうなると、ルーディウスにわざわざ注目する人間も減る。それどころではないのだろう。
人をすり抜けて、国王の執政室にたどり着く手前の、宰相たちの部屋に書類を届けた。平素は三人いるはずの宰相も、今はまともな宰相はひとりだけ、あとの二人は名ばかりの役職目当ての実力のないものがばかり、今日も部屋には不在のようだ。
宰相のげっそりと痩せた顔を気の毒に見つつすぐに辞去して、少し遠回りをして王子宮に帰ろうとした時だ。
「犬くせえなあ」
「飼い主はどこだよ」
王宮の廊下であからさまな因縁をつけて来たのは、近衛隊服の三人だった。
この頃はここまで程度の低い相手もいなかったのだが。
「私を犬と称するなら、飼い主は王子殿下お二人であろうが、敬称もつけず貴殿らが呼んでよい方々ではないと思うがな」
あからさまに絡まれた時に完全に無視をすると、余計に面倒なことになる。それを知って早々に、ルーディウスは軽く応酬する方針に切り替えた。今回も、通り抜け様にそう反駁して、そのまま、やり過ごせると思っていた。
だから、見えない方向から飛んできた拳を避けられたのは、ただ、体が勝手に動いただけだ。
避けられてよろけ、顔を真っ赤にして怒り出した近衛の男に、一発受けておく方が静かだろうか、とちらっと考えた。
「飼い犬に自分のお下がりの女を与えるなんて、さすが殿下は懐の深さが違うね。俺なら、たとえ飽きたって黒犬と女を共有なんてしたくない。案外、聖女サマがねだったのかね、舐める犬を飼いたいわってな」
気が変わった。
ルーディウスは一歩で距離を詰めると、殴られるかと身構えた相手の足の甲を踏んで、その胸を突いて押した。たまらず倒れ込んだ相手の背をもう一歩で踏みつけてから、片腕を取り、白い手袋を引き抜いた。
「おまえ、王宮で暴力とは何事だ!」
自分達を棚に上げた愚かなことを口走る仲間の近衛隊士に、ルーディウスは手袋をつまんで揺すって見せた。
「決闘を申し込まれたんだ。受けてたたねば失礼だろう。で、どこでやる? ここか、いや、殿下方にも大いに関係のある口を聞いていたな。では、殿下方の訓練場がいいだろう。ちょうどよくここは 宰相室の前。立ち会いは、宰相閣下にお願いするか」
王宮で決闘沙汰になると、当事者は拘束され、王宮治安隊に背景を追求される。これは王宮侍従長管轄であり、王子付きであろうと近衛隊の者であろうと、忖度はされない。
さすがにそれは望まなかったらしい。三人は捨て台詞を残しながら去っていった。
「大丈夫でしたか?」
控えめに尋ねられて、ルーディウスは少なからず驚いた。
宰相が、細く扉を開けて様子を窺っていたようだ。
「お騒がせして申し訳ありません。問題ありません」
礼を言うと、静かに扉が閉まった。
急に冷静になって、ふと息をつく。思わず真正面から相手をしてしまった。これで、近衛隊はしばらくは一層、ルーディウスを敵視するだろう。
本当に、ひたすら、面倒だった。
初めてルーディウスを狼と呼んだのは、オルヴェルト王子だ。
日々一緒に駆け回っているときの身のこなしを、狼のようだ、とぽつりと評されたのだ。それを聞いていたケルヴィン王子が、目の色も狼の色だしね、と気に入って愛称のように使い始め、追いかけっこで選別されたあの時の側近候補の少年たちからも、狼、と呼ばれるようになった。
それぞれに得意も不得意も違う、それを個として認識して受け入れていく過程にあった六人は、それこそ、同じ腹の狼の子たちのように固まって過ごしていた。狼、と呼ぶ側も、呼ばれて振り返るルーディウスも、信頼というものがあったと思う。
側近候補の少年たちは、王子たちと同じ鍛錬と修養を受け、やがてルーディウスはオルヴェルト王子と共にいち早く騎士の認定を受けた。
みるみるうちに騎士団の屈強な上位騎士とも渡り合えるようになったルーディウスを、近しい者たちは狼騎士と呼ぶようになった。
そして黒髪を疎んじる者たちが、それを揶揄して黒犬と蔑み呼ばわり始めたのも、そのころだ。
それが、王子たちと敵対する者たちに限られていたなら、話は簡単だったのだが。王子派の世襲貴族や地方領主たちの中にも、黒髪を厭う者はいて、彼らは王子たちに隠れてルーディウスを蔑んだ。王子たちが長じるにつれ、その優秀な次代の君主の側近の座が惜しくなった世襲貴族たちも多かったこともある。
十三歳になったばかりで騎士に認定されたルーディウスは、カスティラ侯爵家の取るべき道や付き合うべき家を検討した結果、そうした罵倒や理不尽な扱いを、受け流すことにした。自分のことが原因で、不要な対立を侯爵家にまで持ち込みたくはなかったのがひとつ。
命の危機を感じない嫌がらせ程度、毎回相手をするのが面倒だったのもある。
ルーディウスは、常に周囲より一歩引くようになった。言葉は一層少なく、目立つ行動を避けた。十三をすぎて、背が伸び、オルヴェルト王子と視線が並び、大人をも見下ろすようになってからも。今も、ずっと。
重い展開は、さくさくと……




