来てくれない
暗く湿った石の床からなるべく足を遠ざけたくて、アミナは板だけを置いたような寝台にそっと腰掛けた。
ところどころ色の変わった板は、アミナの重みに軋んだが、なんとか支えてくれるようだ。ざらついた板のささくれに、ドレスが引っかかって嫌な音がしたが、確認するほどの明かりも、気力もない。
履いていた布の靴は、あたりの床を濡らしていた何かを吸って冷たかったので、両足とも脱ぎ捨ててドレスの中に引っ込め、きゅっと丸くなった。
膝に顔を埋めて息をすると、かびと湿気と排水と泥の、冷たく侵食してくるな強い臭いが、すこしだけ薄くなる気がした。
なによりもアミナを苦しめているのは、腕の痛みだ。首を動かしても、姿勢を変えても、うめき声が出てしまうほどの痛みがあった。
聖女の祈りは、聖女には届かない。
だから、自分の身は一番に守らなければならないと、祖母にも強く言い聞かされていたのに。
何が起こったのかもわからぬまま、アミナは目を閉じた。瞼が熱いのは、熱があるのだろうか。
地下牢に抱えて来られて、この牢の扉をくぐった時に、アミナは痛みに目が覚めた。誰も説明をくれずに置き去られて、牢の周囲には人の気配もなく、呆然と鉄格子を眺めていたのだ。
「お腹がすいたわ。寒いし。暗いし」
痛みから気を逸らすように、アミナは呟いてみる。
何も変わらない。
「ルード様」
元気が出る名前を呟いてみる。
もう婚約者ではなく、無関係だというけれど、今もひしひしとその存在を近くに感じる、大好きな人だ。他に恋人がいただなんて、嘘だと思う。思うのだけど。
カサカサとかすかな音がして、思わずびくりと体を強張らせ、すぐさま痛みに歯を食いしばった。体を動かさないようにして、目線だけを動かすが、鉄格子の向こうの揺れる蝋燭だけでは、牢の床も壁も同じ闇だ。何も見えない。
いや、格子の影、床の凹凸の影、壁の影、全てがゆらゆらと揺れて、どこもかしこも生き物めいている。
カサカサ、とまた音がしたが、今度は反対端からだった。それきり、静かになったが、アミナの胸は恐ろしい速さで脈打ち、頭と腕とが棍棒でどん、どん、と殴られているようだった。
「ルード様、ルード様、ルード様」
怖い。おそろしい。悲しい。
なにか、いるのだろうか。そう思うだけで、もう、目を伏せることも、目を瞑ることもできなくなった。息が浅くて苦しいのに、吸い込み方がわからない。
疲労と、痛みと、熱と、そして恐怖。
アミナは肩で激しく息をつきながら、何も見えない暗がりで、忙しなく目だけを動かしていた。
どれほど経ったのか。
緊張の連続に耐えかねて、気を失っていたようにも、ずっと起きて居たようにも思う。覚醒と自失の境目を曖昧に行き来することを繰り返して、ここにいる自分が自分でないように思えて来た時。
このまま、意識だけ別のところへ行けば、ルーディウスの元へだって、自由に飛んでいけるはずだと気がついた。体は置いて、逃げ出してしまえばいい。
そうすれば、腕の痛みも遠くなり、ちらちらと闇に蠢く嫌な黒いものたちもいなくなる。
そんな甘い逃避に誘われて、半ば息をするのを忘れていた。
だから、鉄格子の向こうに足音を忍ばせて何者かが現れ、錠に鍵を差し込んだ時も、身動きもしなかった。
「急げ」
「時間がない。そこでやってしまえばいい。ルーディウスがせっかく手放したんだ、今なら、どさくさに紛れて手につけておけば何とでもなる。どうせ、近衛軍が崩壊すれば、役立たずになる聖女だが、公爵家のお嬢さんだ。うまくすれば公爵家の入婿だぞ。あいつ、すかした顔してとんだ機会を投げ捨てるもんだな」
ルーディウス。
その名に、息をしないまま、ゆるりとアミナが顔をもたげた。
ああ、いやだ、と思う。体に戻れば、また痛くて辛くなる。怖くて寂しくて、嫌なことに直面するだろう。けれど、今聞こえた名前は、そんな苦しみを越えて、求めるものだから。
だからアミナは仕方なく、目だけを通してそちらを視た。
うっすらと見える影は二つ、錠を覗き込みながら、背後を気にしている。腰に揺れる剣、微かに鳴るのは鎖帷子の音だろうか。しゃがんだり立ったりの時にも金属がぶつかる音がする。
おそらく兵士、それもそれなりの身分のある者だろう。鍵を手に入れることができるほどの。
「ちっ、錆びてなかなか。締めるときはなんともなかったくせに」
「開いたら、俺が押さえつけておく。お前、すぐにできるか? 俺はこんな汚いところではたたん」
「いつでも万全さ」
何の会話をしているのか知らないが、アミナのできることは限られている。
アミナは、ゆるゆると体に戻った。泣きそうに、痛くて、怖い。
気取られないように体を起こすのはとても苦労したが、うめき声を抑えて、じりじりと体を起こし、胸いっぱいに澱んだ空気を吸い込んだ。
「かーーーじーーー! 火事です!! 誰か!! 火事ーーーーーー!!!」
兄が言っていた。王宮で見過ごしてはならぬものは火だと。
揉め事も不審者も、高貴な者ほど避ける。だが、火だけは、避けたことが分かれば罰される。だから、王宮で怖い目にあった時は、火事だと叫べと。
「な、あ、聖女様、お静かに」
「助けに、助けに参ったのです」
「ルード様、ルード様、ルード様!!」
焦る彼らの手元から鍵が落ち。
その鍵を照らし出すように、何処かからすっと灯りが伸びてきた。
「アミナっ」
「その声、お兄様?」
長兄が、来てくれた。これ以上の安心はない。
けれどアミナの目からは、熱いものが後から後から湧き出した。
ルーディウスは、来てくれない。
もう、来てくれないのだ。
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全体を見直して、あまりに説明が乏しかった前半に、説明を追加しました。
エピソードも話の流れも変更はありません




