変わらない私達と変えられた未来
現実逃避で書いた短編です。
救いようのないダークな話になる予定でしたが、なんやかんやで通常と大差ないテイストの話になりました。
短編なのに長いです。
私はどこで間違ったのだろう────。
私は小さいながらも王都に店を構える商会の家に生まれた。
幼い頃から学ぶことが好きだった私は平民向けの初等学校を飛び抜けた成績で卒業し、その時の担任教師の勧めで受験した王立学院に特待生として受かった。
王立学院は国内の貴族家に生まれた子供は必ず入学するが、平民は貴族に並ぶ資産を持つ大金持ちの子供か特別優秀な特待生のみが通うことを許される。
校舎は貴族棟と平民棟に分かれ、平民が立ち入れる施設も制限されていたけど。
それでも、元貴族の家庭教師だった高名な学者や研究者が教師として平民クラスでも教鞭を執ったり、平民の立ち入りが許される図書館でも街中の図書館では見ることのできない貴重な本や資料が閲覧できるなど、学ぶことが好きな人間には魅力的な部分が多かった。
入学してしばらくは夢中で学び、学院に通うことが楽しくて仕方なかった。
商会を継ぐのは弟だから、私は下手に人脈を作り上げようともしなかった。下手な人脈から妙な男に婿入りされると、弟を蹴落として商会を手中に収めようと野望を持たれる危惧があった。
実際、「王都に店を構える商会の長女」である私には、子供の頃からそういう誘いが嫌になるほど多かった。
その中で唯一信じられた口約束の婚約者がいるのだから、余計に近づいてくる異性や異性を紹介しようとする同性には慎重になった。
遊びの誘いに乗らず勉強ばかりしている私を良く言わない人達はいたが、「姉は才女なのに」などと陰口を叩かれる弟の素晴らしい商人としての資質を際立たせるためにも、私は人付き合いの悪い変な女と言われたままでよかった。
勉強ができるだけで商売なんかできるものか。
弟には商才と人誑しの才能がある。弟に任せれば家は安泰だ。
けれど、そんな平穏で幸せな未来が訪れることはなかった。
ある日、何の前触れもなく、平民棟の校舎で王太子殿下に呼び止められた。
平民と貴族は制服も違うし、王太子殿下の姿絵は街中で見ることができるから平民の子供でも知っている。
なぜ平民棟に、なぜ私の名など知っているのか、なぜ呼び止められたのか。
ぐるぐると疑問が渦を巻き混乱したが、同じ学院に通っていても平民が一生会うことなど無いはずの王族相手に、私は平伏し顔を見ないようにするしかなかった。
何やら強い口調で叱責される内容がまるで理解できないが、王太子殿下が仰るには、私は畏れ多くも王太子殿下のご婚約者であらせられる公爵家令嬢の方から謂れのない虐めを受けたと吹聴して歩いていることになっているらしい。
有り得ない。
何しろ、貴族棟は平民の立ち入りが禁止されていて、平民棟に貴族が来ることは稀。
私は王太子殿下のご婚約者がどこの公爵家のご令嬢なのかは新聞で公表されているから知っているが、ご令嬢のお名前も知らないしお顔も知らない。もちろんお会いしたことも無い。
うちの商会は王族や貴族の御用達店ではないのだ。知り合う機会なんて無い。
しかし、どれだけ突拍子もない話であっても相手は王太子殿下。否定など許されないし、そもそも口を開くことも許されなかった。
訳がわからないまま、「二度目は無い」と吐き捨てられて殿下の足音が遠のくまで平伏し続けるだけだった。
王族の不興を買ったようだ。
そういう噂は広まるのが速い。
私の評判が良くなることは望んでいないが、これは想定から大きく外れて悪すぎる。
家や弟を巻き込まないように絶縁してもらって遠くの修道院に入ろうか。
私を心配する両親を説得し、遠方の修道院のリストを取り寄せている間に事態は更に理解できない方向へ進んだ。
尊敬していた教師から、身に覚えの無い理由で見放された。
教師が言うには、私が彼の研究室に頻繁に質問に行くのは、彼の研究成果を盗んで自らの名で論文を発表して有名になろうという浅ましい野心のためであるらしい。
そんなことは思いつきもしなかった。当然そんな野心など無い。
私は学ぶことは好きだが、有名になるのは避けて生きている。この先もそうするつもりでいる。
教師は子爵とはいえ貴族だった。教師として言葉を発している時には平民の私でも会話ができるが、貴族として私を見放す宣言をする彼に反論も言い訳も許されることはない。
彼の担当教科の試験は受けなかったことにされ、課題も一度も提出しなかったことにされた。
当然ながら単位は取れないし、二度と受講することも認めないと言われた。
家と絶縁して修道院に行くことは決定事項だが、一刻も早く学院の退学だけでもしよう。
そう考えた私は退学手続きの書類を最速で揃え、学院長に提出に行ったところで、実行不可能な罪状で捕縛された。
学院長の娘、学院長は侯爵だから侯爵家のご令嬢のことだろうが、そのご令嬢を私が学院内で階段から突き落としたらしい。しかも魔法を使って。
私は魔法を使おうと思ったことも無いし、そもそも貴族の専売特許である魔法を使えると考えたことも無い。平民は、貴族では義務である魔力検査さえしない人間が多い。私もしたことが無い。
平民の立ち入りが禁じられている貴族棟の階段から、顔も名前も知らない上に何処にいるかも分からないご令嬢の背中に風魔法を当てて突き落とすなんて不可能だ。あまりに現実味が無い。
だが、尋問中に強制的にやらされた魔力検査で、最悪なことに私には魔力があるという結果が出てしまった。
平民は特待生でも魔法系の授業だって無いし、平民棟の図書館には魔法の教本も置いていない。風魔法に限らず、どんな魔法の出し方だって知らない。
それでも、私に魔力があることが『証拠』として採用され、私は『有罪』になった。
平民が貴族を殺そうとしたのだから、裁判なんて無かった。
私は学院長室で捕縛されてから一度も家族と会うことは叶わず、窓も無い真っ暗な牢での尋問からそのまま窓の無い馬車に長いこと揺られ、『罪を償うために』遠くの娼館に売り払われた。
若く美しい生娘ということで、場末ではなくそこそこ高級な店らしい。
事情も理由も理解できないが、それでも私だけで事が済むのならば諦めようと思った。平民が王族や貴族に目をつけられたら諦める他に道は無い。
それなのに、わざわざ私の売られた娼館まで『報告書』が届けられた。作成者の名前も送り主の名前も見覚えは無いが、貴族であることは分かった。
私の両親が経営する商会は潰されていた。王族や貴族の御用達店でなくとも、王族や貴族に圧力をかけられて無事な平民の商会など、広い世界にあっても一つか二つだろう。
従業員の家族たちが路頭に迷い人生を狂わせることがないように、両親は莫大な借金を背負って退職金を彼らに渡したようだ。
王族や貴族の不興を買った平民に信用で金を貸す人間はいない。
父は借金奴隷として最も過酷で危険な魔鉱石の鉱山へ送られ生死不明。
母は既婚の経産婦で年増だが評判の美女であることに目をつけられ、異常性癖を持つ金持ち相手の非合法の娼館に売られた。
まだ13歳の弟だけでも逃げることができていれば、という希望は持つだけ無駄だった。
私だって成人に満たない16歳で娼館に売られたのだ。誰もが見惚れる美少年である弟に汚い手が伸びない筈がない。
弟は少年ばかりを集めた特殊な娼館に売られたそうだ。私より高値で売れたと記述があった。
私はどこで間違ったのだろう。
王立学院など受けなければよかったのだろうか。
校舎が分けられていても、貴族と同じ学院になど通ったのが間違いだったのだろうか。
王都で暮らしていれば、働くようになれば貴族と一生関わらずに生きることなどできない。
どこかで目をつけられてしまえば結果は同じだったのだろうか。
ただ、学びたかっただけで、願っていたのは家族の幸せだった。
私が学びたいなどと考えたから、大切な家族を地獄に引きずり込んだのだろうか。
特待生だから目立ったのだろうか。同じ学年に、私の他に9人いたけれど。
教師に質問に行ったのが目についたのだろうか。研究室で頻繁に顔を合わせる平民の生徒は何人もいたけれど。
原因を探して反省しても、過去は変えられない。
良いのか悪いのか、そこそこ高級な娼館で指名が多く入る私は食事もきちんと与えられ、商品として身なりを整えられて、殴る蹴るの暴力を受けることは無かった。
ひたすら、無事ではないだろう家族に祈るように謝罪しながら、死んだように生き続けた。
いつも眠る前には唯一信じられた口約束の婚約者のことを思い出したが、『報告書』に彼のことが書かれていなかったということは、無事なのだろう。
婚約を正式な形にしてくれと何度も請われていたが、彼の母方の祖父が外国で大きな権力を持つ商会の会頭と知り、弟が成人して後継者としてお披露目されるまでは、と口約束の形にしていた。小金持ちの派閥争いも物騒であることを見知っていたから、私に強力な後ろ盾がついたと思われることを避けたかったのだ。
今となっては、彼を守るために、口約束にしておいて良かったと心から思う。
カレンダーも時計も無い部屋から出ることなく、あれからどれくらいの日々が過ぎたのか知る術もなく、ただ生きているだけの私に客が付かなくなった。
そろそろ飽きられたのだろう。無駄飯食いになったら処分されるのだろうけど、場末の娼館に転売されるのか奴隷として売られるのか殺されるのか、どれだろう。
死んだら魂になって、家族がまだ生きているなら助けに行きたい。眉唾物の噂だが、魔力がある人間の魂は、肉体の器から解放されると強い力を持った霊魂に転じることができると言われている。
自殺では転じられない。だから生きてきた。真偽の定かでない噂でも、他に縋れるものもない。
いつ私の処分は言い渡されるのだろう。心待ちにしているのに一向にそんな気配は無い。
待遇も変わらず、客も取っていないのに食事も身支度も同様だ。
売られてから初めて、指折り日を数えた。
19日目、客ではなく迎えが来た。
「どうして・・・」
呆然と見上げる私の前で、形だけは変わらぬ笑顔を浮かべた口約束の婚約者が、異質な空気を纏って立つ。
「全部終わったから迎えに来た」
人懐っこい、けれど誠実さの滲む笑顔は変わらない。声も口調も。五つ年上で、最後に会った時には既に成人していたのだから、さして変化が無くても不思議は無い。
変化は無いはずなのに、最後に会った時とは絶対に全く違うと言い切れる禍々しさ。
「終わった?」
「うん。君の家族は回収して療養中。命に危険が無いところまで体も心も回復した」
体も心も命に危険があるくらい傷を負っていたんだ・・・。そうだろうとは思っていたけど、やっぱり辛い。
「あ、弟君は元気でピンピンしていたしツヤツヤだったよ」
「・・・は?」
「少年娼館の最高峰の名店の頂点で女王様になって、量産した下僕に傅かれていたよ。貞操も無事だって。僕が間に合わずに君の貞操を守れなかったことを厳しく咎められた」
・・・弟は私が見込んだ通り天才だったようだ。
「お義父さんは栄養失調と骨折や打撲が複数箇所あって重体だったけど、元が体力自慢の健康体だったから回復は早かったし気力は衰えていなかった。白髪と皺は随分増えたけどね。お義母さんは違法薬物を抜く治療をしているけど、五体満足のうちに回収できた。薬物を抜く過程で記憶の後退が起きているけど、事故で数年分の記憶を失ったことにして家族で口裏を合わせておいた方がいいと思うよ。幸い、事故の怪我と言って不自然ではない傷痕しか残らないし」
平穏な日々に聞き慣れていた優しい声で宥めるように告げられる内容が、残酷でも事実なのだと納得できた。
それにしても、私の両親を「お義父さん」「お義母さん」と呼んだことは無かったと記憶しているのだけど。
「ご両親には君との結婚を承諾してもらっているよ。既に君は僕の妻になっている」
首を傾げた私に彼が答えた内容で更に疑問が増えた。
「私は婚姻に関する書類にサインをした覚えはないけど」
「サインは必要ないよ。人間の規則は関係ないから」
「は?」
彼が纏う異質な空気が濃度を増した。
形だけは変わらぬ太陽のような笑みを向けてくる。
「僕、人間やめたんだ」
「は?」
疑問を口から溢しながらも、私は明確に理解していた。
彼は人間ではない。纏う異質な空気がそれ以外の答えを選択させない。
「君を奪われて、人間だった僕はすぐに使える手は何でも使って取り戻すために動いたけれど、金策と人脈だけでは限界があったんだ」
申し訳無さそうに目を伏せて彼が話してくれた、私が学院長室で捕縛されてからの外の様子は、正に「金と権力のぶつかり合い」としか言えないものだった。
移動は目隠し、尋問は窓のない牢だった私には時間経過が判断できなかったが、私が捕縛され『有罪』として娼館行きの馬車に押し込まれるまで僅か一昼夜だったそうだ。
夜になっても娘が帰って来ないと両親が学院に問い合わせるも、「既に帰宅した」と貴族である学院の教師に追い返され、平民の事件を扱う街の警備隊に捜索を願い出るも、貴族が裏から手を回していて取り合ってもらえなかった。
仕事で王都から三日程の街に行っていた彼が戻った時には、王族や貴族の圧力と雇われた破落戸による嫌がらせで店舗と商品は滅茶苦茶。二度と店を開けることはできないようになっていた。
両親から、私が行方不明になって五日も経っていると聞いた彼が独自の伝手を使って捜索を手配している間に、両親と弟は従業員のために身売りする契約を結ばされていた。
私に届いた『報告書』には綺麗な言葉で綴られていたが、実際は従業員やその家族を人身売買ルートに乗せると脅しを受けていたそうだ。
両親と弟は美しさと教養があるから即座に命を取る相手には売られないが、平凡な従業員やその家族は殺す目的でしか売れないと言われ、止むなくサインすることに決めたらしい。
王族や高位貴族が背後に存在するような契約書にサインしてしまったなら、彼と彼の両親の力だけでは覆せない。
彼は私の捜索の指示を出した後に外国の祖父を訪ねた。王族や貴族に対抗し得る力を持つ祖父に頼るためだ。
孫を溺愛していても、広い世界に一つか二つしか無い「王族や貴族の圧力に負けない商会」の会頭は甘くない。
外国の王族と高位貴族に喧嘩を売れば戦争は必然。どれほど理不尽な目に遭わされようとも、人間同士の勝負は大義名分が有る方が最後は勝つ。負ける勝負をする商人はいない。どこから突いても覆されない大義名分が用意できなければ戦争に繋がる喧嘩など売れない。
そう祖父に言われて、彼は提案を変えた。
借りた金額の十倍以上の利益を一年以内に必ず祖父に齎すから制限を設けずお金を貸してほしい。約束を違えたら、その先の人生も命も全部祖父の思うようにしてくれ。
祖父は魔法を用いた強制力のある契約書に彼がサインすることで了承した。
それから彼は、私達家族を陥れた王族と貴族に気取られないよう慎重に外側から買収を繰り返して手を回し、私の両親や弟が食事や水を絶たれないように、重傷は治療されるように、助け出すまでに目立って怪しまれない程度に影から守る人間を送り込んだ。弟には必要なかったらしいが。
すぐに金で解決─両親と弟を買い取ることで救出─するのは喧嘩を売るのと同じだから不可と、彼が祖父と交わした契約で条件に加えられていたそうだ。
即時救出ができなくても両親と弟の行き先は契約書を見て知っていたから手を回せたが、私の行方がなかなか分からなかった彼は焦った。
学園の対応と両親から聞いた話で、私が王族と貴族に目をつけられたことは彼も見当がついていた。若く美しい教養のある女性をすぐに殺すことは無いはずなのに、彼の知る国内の貴族が使う犯罪ルート上には私の痕跡が無かった。
国外への捜索に更に力を入れようかという頃、買収し潜り込ませた人間達から、私が学院で有り得ない言いがかりを王太子と教師に付けられ、有り得ない罪状で捕縛・尋問されて遥か遠い街の娼館に売られ、既に多くの客を取って働いているという情報を掴んだ彼は決意したそうだ。
───人間をやめよう。
身分の高い人間に目をつけられ誘拐されたのだろうとは考えていた。言い寄られて逆らったのか、平民でありながら優秀であることを妬まれたのか、家族にまで手を出して来たのだから、「気に入ったから囲いたい」という方向で連れ去られたのではないだろうとは思っていた。だが、ここまでのクズでゲスな想像はしていなかったと彼は言う。
彼は私が『罪を償うために』娼館に送られたことを知らなかったのだ。
最悪のケースとして不敬罪で斬り捨て、または投獄も考えはしたが、不敬罪ならば連座する家族に通達が来ない筈がない。
家族に影響のない程度の罪状で拘束されているなら、冤罪だとしても残っている筈の公的な記録さえ、調べても出て来なかったのだから。
私は自分が罪を着せられて犯罪者として家族ごと処罰されているのだと思い込んでいたが、彼も私の家族も、私が犯罪の被害者として姿を消したと考えていた。
私が着せられた『平民が貴族を殺そうとした』という罪。もし、それが事実ならば裁判もなく有罪は有り得る。
だが、私のケースでは有り得ないのだと彼は言った。
裁判もなく即日有罪となるのは確固たる証拠があった場合のみであり、裁判もなく有罪が確定するほどの証拠があるならば、娼館送りなどではなく一族郎党使用人まで死刑になるそうだ。
本来、平民が貴族を殺そうとした場合の処罰は大変に重く、そのため報道の扱いも大きくなる。だから報道を見た大半の国民が納得できるだけの証拠が無ければ、『有罪』にして『刑を執行』することはできないそうだ。
私は授業で、「平民が貴族に傷を負わせたら裁判もなく有罪になる場合もあり、罰は被害者である貴族の求める内容になる」と教わっていたが、それは平民向け授業の建前に過ぎないと彼は言う。
過去の例から、本当に平民が貴族を殺そうとしたなら必ず一族郎党使用人まで死刑だし、公的な記録も残るし報道も大々的にされるそうだ。私にもそういう事件があったという記憶はあるが、十数年前の物心がつくかどうかの頃に一度だけだ。それほど滅多に起こらない大事だったのだ。
私の場合、貴族の令嬢を殺そうとした罪で有罪になったのに娼館送りで済まされ、両親と弟は私が犯罪者として売られていたことも知らされておらず、私の『罪』とは無関係に借金を負わされて身売りしていた。報道なんて無かったし、彼の人脈と糸目をつけない金銭力で調べても記録は一文も出てこなかった。
つまり、あれは権力者達が個人的にやった『お遊び』で、私は正式な刑罰として娼館に売られたのではなく、単なる嫌がらせで売られていた。そして、私を甚振るためだけに私の家族を身売りさせて苦しめ、わざわざそれを公文書に似せた『報告書』にして送りつけたのだ。
彼は祖父と契約した時点で、いずれ人間はやめるつもりだったのだと言う。
一年以内に私達家族を見つけ出し救出するだけなら金と人脈でどうにかなるだろうが、使った金額の十倍以上の利益を祖父に返すのは人間業では不可能だと判断していた。
それに、私を彼から奪った人間を許すつもりは無かったが、それらに王族や高位貴族も含まれていることは最初から想像していた。人間のまま、正当な手段での制裁など望めない。
彼は、自分が魔力を持って生まれたことを知っていた。
この国では隠しているが、彼は祖父の住む国で子供の内に魔力検査をして、かなり高い魔力があることが分かっていたのだ。
魔法は貴族の血統の人間しか使えないとされるこの国では話題に上らないが、純血主義の王族貴族が支配する国以外ならば平民の魔力持ちは珍しくないそうだ。彼の母もそういう国から嫁いで来ている。
私に魔力があったのも、亡くなった祖父が外国人だったからだろうか。
高い魔力を持つ彼は、祖父が趣味で蒐集した危険な書物を見ることができる立場にもあり、各国の王族や聖職者でも知り得ない知識を持っていた。
私が眉唾物の噂として知っていた「魔力持ちが自殺以外で死んだら魂は強い力を持つ霊魂に転じる」という話とは違い、それの具体的な方法と真実の意味を彼は知っていた。
私があのまま、ただ自殺をせずに死を待っていても、強い力を持つ霊魂にはなれなかったようだ。
魔力を持つ人間が肉体は万全のまま人間としての命を捧げ、その対価に魂の中に魔のモノを招く。これが、「魔力持ちの人間が自殺以外の死により強い力を得る」の真相だ。
招かれる魔のモノは、招いた人間の本来の性質と招いた時点の性質の振れ幅が大きいほど強い力を持つそうだ。
これでも商人だから善良な人間のつもりはなかったんだけどね、と彼は形だけ穏やかに苦笑したが、彼の魂の中に招かれたのは魔王を飛び越えて魔神だったそうだ。
本来の彼が優しく誠実であったことはよく知っているが、一体どれほどの怨念を込めて命を捧げたのだろうかと胸が締めつけられる。そこまで彼を追い詰めたのは私の存在なのだ。
平均的な魔のモノを魂の中に招いた魔力持ちの『元』人間でも、人間には不可能な暗殺が簡単にできる。魔法で護られた宮殿や屋敷への侵入も破壊も容易い。魔力も魔法も源流は魔のモノからだというのが理由らしい。
太古に魔のモノが戯れに人間と交わり、異質な力を内包することに耐え得る体と魂を持つ子供だけが無事に生き残って増やした子孫。それが現代に残る魔力持ちの人間なのだそうだ。
ということは、王族や貴族には魔のモノの血が平民より濃く流れているんだな。
時代の流れの中で、魔力を持った人間は、それを使うための面倒な手順を編み出した。複雑な術式や呪文や身振り手振りである。だが、魔のモノは手順など要せず息をするように人間より強大な魔法を使う。最初から人間の敵う相手ではない。
そのため、欲望から魂の中に魔のモノを招く人間は、いつの世も少なからず存在する。しかし、魂の中に魔のモノを招くと人間は殆どが自我を崩壊させてしまい、人間の野望が叶うことはそうそう無い。人間の意思を魔のモノが乗っ取ってしまうからだ。
稀有なことに、彼は魔神を招いてなお彼のままだと言う。
招いた時点の彼の性質が、魔神と差異が無いほど相性が良かったそうだ。その悪運の強さも相変わらずだ。
ともかく彼は、彼のままで魔神となったらしい。想像もしなかった人間のやめ方だ。
人間をやめたのだから、人間が縛られる契約も無効。
もう遠慮はしない。
彼は一気に両親と弟を回収し、用意していた療養施設に入院させた。
私の弟は、魔神となった彼に対し「姉さんを守れなかったノロマ!」と激しく詰ったようだが、我が弟ながら見た目を裏切る豪胆さに呆れる。
もう少し彼の『決意』が遅ければ、下僕となった裏稼業の上層部達を操って国を影から掌握するところだったと言われたそうだ。弟は幼い頃から見た目に反して豪胆で強かではあったが、そういう人間だっただろうか。
ともかく彼は魔神であるから、魔のモノを魔王ですら行使できる。
魔のモノ達を世界中に飛ばし、一瞬で私を見つけて客を取らせない手配が済んだそうだ。それから、私には血腥く不穏な国内の状況を耳目に触れさせないよう、魔のモノに強固に護らせた娼館で「全部終わるまで」保護していたらしい。私が指折り日を数えた19日の間のことだ。
力で護ることはできても、魔のモノには人間を癒やすことはできない。強大な力を手に入れても平穏で幸せだった過去の日々と全て同じく元通りにはできない。それだけが無念だと彼は悲しみを湛えた瞳で言う。
その悲しみが形だけではないことは、しっかりと伝わってきた。
彼は確かに彼のままで人間をやめていた。
保護が済んだら制裁だ。
人間の間は手に入れることが難しかった情報も、配下の魔のモノ達を動かせば時を置かずいくらでも手に入る。
関わった王族や貴族らの有り得ない言動の裏にある動機が明らかにされ、あまりの馬鹿馬鹿しさに天を仰いだ。
王太子は幼い頃に茶会で顔を合わせた公爵令嬢に一目惚れして強引に婚約を結んだ。王太子の婚約者への盲目的な愛は度々問題を起こしていたが、王太子と公爵家の令嬢という高い身分のために、問題は常に闇に葬られてきた。婚約者の言葉を一切疑うことなく聞き入れて、願いは何でも叶える王太子だったそうだ。
私を学院の平民棟で叱責したのも、婚約者の公爵令嬢が、私に事実無根の悪い噂を撒かれて悲しいと訴えたかららしい。
私にとっては何の接点も無い公爵令嬢がなぜそんな真似をしたのか。
公爵令嬢は、血の繋がった実の弟を禁斷的な意味で溺愛しているそうだ。その弟が興味本位で平民棟の入学式を覗き見し、特待生の中に可愛い子がいたと姉に言ったのが始まりだ。髪の色や目の色を聞き出し調べると、該当するのは私だけだった。
今までにも件の公爵令嬢は、弟の婚約者候補の令嬢だけではなく、弟周辺に存在する女性を全て攻撃排除しているらしい。たまたま近くを通ったメイドが命令を受けた時ですら、「私の弟の視界に入った、声を聞いた」と怒り狂い、城下町から通いで働きに来ていたメイドの一家を老人も幼子も全員惨殺させたそうだ。
迷惑極まりない話だが、まるっきり知らないところで存在すら知らなかった少年から「可愛い」と言われただけで、私は王族の権力で家族ごと人生を捻じ曲げられた。
尊敬していた教師からの仕打ちの影にも高位貴族の令嬢がいた。
宰相の嫡男が学院の貴族棟に通っているらしいが、その嫡男が今年の特待生の優秀さに興味を持ち、既知の教師を通じて特待生らの提出した課題を手に入れたそうだ。その中で私の自主研究レポートに着目し、名前を挙げて褒めたという。
それを聞いた宰相嫡男の婚約者である侯爵家の令嬢が憎悪を募らせた。
私が尊敬していた教師は、その侯爵令嬢の元家庭教師だったのだ。あの教師は子爵であり、令嬢の父親の侯爵には頭が上がらない。教師は侯爵令嬢の望むままに私の排除に動いたそうだ。
学院長の娘はまだ学院に入学していないが、在学中の将来有望な近衛騎士見習いと婚約していた。
入学してない令嬢を私は学院内の階段から落としたことにされたのか杜撰過ぎないかと言う雑念はさておき、見習いの身であるから貪欲に学びたいと、貴族でありながら目立たぬよう平民の制服に着替えて平民棟の図書館に出入りし、喧嘩のような戦闘法が書かれた本や平民ならではの身の回りの物を使った護身術の本などをよく読んでいたらしい。
その時に私を見かけ、婚約者との何気ない会話の中で、「毎日のように図書館で見かける女の子がいる」と言った。
ただ、それだけ。
声をかけられたことも無いし、目が合ったことすら無い。私は平民だから平民棟の図書館に通っていただけだ。だけど私は許されなかった。
学院長は高位貴族で王太子とも懇意だった。王族が後ろについているのだから、平民相手に何をしようが咎められることは無い。
愛娘に泣きつかれた学院長が私の排除に動き、王太子と公爵令嬢、宰相嫡男の婚約者の侯爵令嬢の希望も取り入れて、私を苦しめるために私を家族ごと地獄に落とした。
私が貴族の使う犯罪ルートに痕跡も無かったのは、「すぐに死んだらつまらない。できるだけ長く絶望を感じさせたい」という要望に応えるために、最初から平民の人身売買商人に流したかららしい。
私の適正な市場価値なら、すぐに死ぬような劣悪な店に買われることは無いと見抜いていたのだそうだ。変なところは理性的なのだな。
奴等は私が娼婦として生き長らえ、非業の死を遂げた家族の訃報を届けられる度に絶望することを期待していた。
とんだ下衆である。
私と私の家族を地獄に落とした奴等は、身分に即した権力を行使して私達以外の人間達も数多く害していたらしい。
何だか気に食わないから、何となく気に障ったから、たまたま機嫌が悪い時に視界に入ったから。そんな、避けようもない理由で奴等より身分の低い人間達は傷つけられ、蹂躙され、人生を狂わせられ、嬲り殺しに遭うか失意と絶望の中で自ら命を絶った。
奴等はそんな人間達のことをいちいち覚えてなどいない。潤沢に提供される玩具を、大金持ちの子供が遊んで壊して飽きて忘れるのと同じだ。
けれど、やられた方の人間達は忘れない。
魔のモノの頂点となった彼は、配下の魔のモノ達に奴等にやられた被害者達の記憶を憎悪と憤怒ごと植え付けた。
魔のモノ達は各々の能力を存分に駆使し、嬉々として「記憶と感情のままに」報復措置に出ているそうだ。
「全員表舞台からは消えたから『全部終わった』と言ったけど、奴等はまだまだ長いこと死ねないよ? 僕が配下達に植え付けた記憶にある体験を全て味わい尽くすまでは、魔のモノ達の蹂躙から解放されることは無いからね」
穏やかな笑みは形だけのもの。
奴等は今まで自分達より立場の弱い人間達に与えてきた理不尽を、全て体験し尽くすまで死ぬことも許されない。
「奴等は目をつけた人間をより苦しめるために、その人間の大切な人や物を必ず一緒に壊してきた。家族や恋人、友人や恩人、ペットや形見や家や事業なんかだね。奴等に巻き込まれた『大切なモノ』達は可哀想だねぇ」
心にもない憐れみだと明白な口調。形だけでも慈愛に満ちた苦笑をしているというのに器用なものだ。
ならば、会ったこともない公爵令息や宰相嫡男、存在も知らなかった平民棟に来ていた近衛騎士見習いも、魔のモノの『報復措置』の対象になっているということか。
同情はない。恨みも無いが、彼らが余計な言葉を発しなければ迷惑は広がらなかったのだ。
「対象となる『大切なモノ』の範囲はもっと大きいんだけどね。しっかりしているようで抜けているし、根が善良なんだよね。やっぱり人間をやめなきゃ守れなかったなぁ」
目の前の彼が口の中で何事か小さく呟くのはよく聞こえなかった。
首を傾げて見上げると、形だけではない慈しむような優しい笑みを浮かべて髪を梳かれた。
「この国は支配者層が国の財産である国民を消耗して食い潰していたけれど、まだ国土は豊かで資源も豊富だった。だから、国を焦土にすることなく取り上げて傀儡の王を据え、祖父に権利を渡したんだ。人間をやめて契約に縛られなくなったとはいえ、祖父との約束は守りたかったからね」
一年以内に借金の十倍以上の利益を齎す。
私達家族を救出するために幾ら遣ったのか分からないが、この国は食糧となる農作物だけではなく贅沢品の原料となる作物もよく収穫できる気候と土壌だ。鉱石や魔鉱石や宝石が採掘される鉱山も多数有している。彼の祖父は商売の神様と世界中の商人から陰で拝まれるカリスマ商人だ。この国を手に入れて損をするということは無いだろう。
彼は祖父との約束を守り、契約書を破棄させたそうだ。
彼を縛る力を持たない契約書と言えど、魔のモノとなった孫の名を魔力を込めて記した物など、人間である祖父が持っていても良いことは何も起こらないからだ。
時を数えることを止めていた私には、もっと長くも短くも感じていたが、私がここに売られてから半年と少しが過ぎているらしい。
私は、いつの間にか歳を一つ取り、成人していた。
人間の規則に縛られていても結婚できる年齢だ。
「そして僕は君という妻を迎えに来た」
嬉しそうに目を細めて彼は言う。
そういえば、さっきも私のことを妻だと言っていた。人間ではないから書類へのサインも必要なく、既に婚姻しているようなことも言っていた。
どういうことだろう、と訝しげな顔になる私に彼は説明する。
「魔のモノの婚姻は、願い、受け入れられることで成立するんだ。僕が君との婚姻を願った時、離れているのに君は受け入れていたんだ。とても嬉しかった」
「・・・記憶に無いけれど」
「離れ離れになっている間、君は僕を想ってくれていた。助ける手が間に合わなかった僕のことを、拒絶することなく、憎みも恨みもせずに」
そんなの当たり前だ。家族以外で唯一信じられた人で、口約束でも彼以外との結婚は考えられなかった。彼と結婚しなければ生涯独身だろうと思っていた。裏切られたことも無いし酷いこともされたことが無いのに、憎しみや恨みを向ける理由も無い。
けれど・・・。
「私は、もう───」
穢れている。半年も娼館で客を取っていたのだから。
「僕がもっと早く人間をやめていればよかった」
最後まで言わせないように、彼は私をキツく抱きしめて言葉を被せた。
「君が君であれば僕はいつでも君を妻に望むよ。君がどんな姿になっても何を経験していても、僕は君しか求めない」
抱きしめているのに縋るような腕。宥める口調であるのに切なく震える声。魔王すら従える力を得ても変わらない『彼』の部分なのだと感じる。
「私は人間をやめてないけど、いいの?」
否定の言葉は聞きたくないとばかりに私を抱きしめる腕が少しだけ緩んだ。
私と顔を合わせて心からの笑みを見せてくれる。
「君が何者であれ、僕は君だから欲しいんだ」
私が貴族に目をつけられたせいで巻き込まれた家族は、全員無傷とはいかなかったが救出され快方に向かっている。
ここから出ても同じ貴族や王族に狙われることも無い。
彼が迎えに来てくれたのは、本当に嬉しかった。
差し出された彼の手を取ることを躊躇ったのは、私が生娘ではなくなったから。他に、彼へ恥じ入ることは何もない。
彼が今でも私を望んでくれるなら、憂いの消えた私がその手を拒む理由は無い。
「あなたについて行く。あなたの妻だから」
合わせた視線のまま、しっかりと彼の目を覗き込んで応えた。
「うん。ありがとう。嬉しい。当たり前だけど何より大切にするよ。今度こそずっと守る」
潤んだ彼の瞳は優しくて誠実な彼のまま。この腕の中にいれば、恐怖を感じることも理不尽に晒されることもない。そう思わせる頼もしさがあった。
「僕が人間をやめたことは───」
彼の言葉を遮るために、今度は私が彼の背中に腕を回してギュッと抱きしめた。
「嫌いになるわけない。そんなことで私があなたを嫌いになると思っていたら、あなたそもそも人間やめてないでしょ?」
「うん。信じてた」
彼が人間をやめたと聞いて気になったのは、魔神を魂の中に招くほどの怨念を私のために抱かせてしまったことだけだ。そこまで強い怨念を抱くのは、どれだけ苦しかったことだろう。
彼を苦しめた。それだけは辛いが、私だって彼が彼であれば何者であれ想いは変わらない。大切であることも、望んで夫婦になるのは彼だけであることも。
「私を諦めないでくれてありがとう。私の家族を助けてくれてありがとう」
「うん。僕を受け入れてくれてありがとう」
穏やかに笑い合う私達は、傍から見ると何も変わっていないように見えるかもしれない。
けれど彼は人間をやめ、私は人間でありながら、私達を陥れた人間が周囲を道連れに魔のモノ達に弄ばれ最終的には惨殺されることに何の感慨も無い。
「婚姻はもう済んでいるけど、結婚式はしたいよね。希望はある? ドレスも教会も僕が決めていい?」
「え、教会⁉」
「心配しないで。教会や聖職者が魔のモノを祓えるとか迷信だから。あれは信者を獲得するための手品だよ。本物は祓えない」
・・・魔神がそう言うなら、そうなんだろうな。
「任せる。その後のパーティーの料理も。新婚旅行は?」
「君に見せたい景色がたくさんあるんだ。移動して詳細を打ち合わせしよう」
こういうところは、本当に変わらない。
頷くと、私と彼の姿は娼館から消えた。
その後、生まれ育った国がどうなったのか、私が気にすることはなかった。
ヒロイン:弟はあんな人間だっただろうか・・・。
ヒーロー:姉の前では猫の重ね着をしていただけで、元々ああだよ。