第四話 「壊れゆく夜」
その日の夜、桜は宿に帰ってこなかった。異常に気付いたのは、朝練が終わって、朝食の時間になっても彼女が帰ってこなかった時からだった。どこかで迷っているのかもしれない、そう思って電話をかけても彼女は出なくて、メッセージに既読もつかなかった。
そうこうしている内に時間だけが経って、気付いた時にはもう夜になってしまっていた。先生を伝って隣町の警察に捜索願いは出してもらったけど、辺りが暗くなってしまった以上、本格的な捜索は明日になってしまうらしい。
胸が、いやにざわつく。桜が消えたことがどうしても、あの『何か』を連想してしまう。きっと明日、何事もなかったかのように戻ってくる。いつもぼーっとしてるから、今回も迷ってしまっただけなんだ。そう、自分に言い聞かせても、不安は簡単には消えてくれない。
どうするわけでもなく、思考だけが目まぐるしく回っていく。深夜になっても眠りにつけないまま、私は薄い布団にくるまって、薄暗い闇に視線を彷徨わせる。部屋を満たす、呑まれるような静寂。それが更に私を圧迫してくる。
少しでも気を緩めれば泣いてしまいそうだった。あの幻覚――いや、確かに私を見ていた『何か』のせいで、心が耐え切れなくなっているのを自覚する。もうこれ以上何一つだって私は許容できない。どうにかなってしまいそうだった。だから私は、桜の無事を願う。今は、そうすることしかできなかった。
何をするのでもなく、ただ宙を眺めていると、暗闇の中で人影が動く。一瞬、心臓を掴まれたような感覚が胸を衝くが、すぐにその影が、隣で寝ていた麻子のものだと気付く。
「あ、起こしちゃった? ごめんね」
彼女はそう言って笑みを作るが、責任感が強い彼女のことだ。桜の安否を心配してロクに眠れなかったのだろう。目に深い隈が出来てしまっていた。
「ううん、私も眠れなかったから。……外、行くの?」
「そうね。ちょっと、涼みたくて」
「……そっか。ねぇ、私も付いていっていい?」
私たちはそんな言葉を交わして、他の皆を起こしてしまわないように、ゆっくりと部屋を出る。
幸い仲井さんは近くに見えなかったので、私たちはそのまま廊下を歩いていくことにした。
「…………」
「…………」
静寂に包まれた宿に、二人の足音だけが響いていく。外から差し込む月明かりだけを頼りに歩く私たちの間に言葉はない。言葉にしなくても、お互いが今何を考えているかなんて、分かりきっていたことだし、それを口に出してしまえば、不安が現実となってしまいそうで怖かった。そんなのは、想像もしたくなかった。
無言のままただ歩き続ける私たちは、まるで彷徨う幽霊のようで不気味だったけれど、ここは古くから続く宿だ。本物の幽霊の一つや二つ、出てきてもおかしくないだろし、誰も驚いたりはしないはずだ。
「……?」
私は今、何に引っ掛かりを感じた? 大事なことを見逃している気がする。有り得ないものを見てきたせいで、恐怖だけが思考を占めていたのかもしれない。
「……どうしたの? 急に立ち止まって」
記憶を探ろうとしていたら、無意識に立ち止まっていたらしい。
私は麻子の質問には答えず、呼吸を整えて、ゆっくりと目を閉じる。――もう一度、思い出す。あの『何か』に自ら踏み込む。
”墓地”
”孤独村”
”指輪”
”桜”
”幻覚”
”指”
”呪い”
「……そういう、ことか」
馬鹿げてるし、いくつかの納得がいかないこともあるけど、確かに『あれ』が何なのかは分かった気がした。もっと、早くに気付くべきだった。桜が行方不明になる前に、私が気付くべきだったのだ。
……まだ、間に合うだろうか。今から行動を起こしたとして、彼女は帰ってくるだろうか。可能性は五分五分。でも、何かしなければきっと、桜は戻ってこない。あれは、奪われたものを取り戻すまで、桜を返すことはしないはずだ。
誰かを頼っている暇はない。あれが私を狙ったように、他の部員を襲う可能性だってあるのだ。時間との勝負。後手に回るわけにはいかない。
……私が、行くしかないんだ。
「麻子。私、ちょっと今から外出てくるから。先に寝てて」
私の言葉に彼女は、当然怪訝そうな顔をして、
「え、今から? 別に明日でもいいんじゃ……」
「そういうわけにもいかないから。……じゃ、おやすみ」
一方的に話を切って、私は元来た道を戻ろうと振り返り、足に力を込めて走りだそうとした。……その、はずだった。
「……あ」
動かなかった。振り返ることすら出来ていなかった。
知っている。この現象を私は知っている。もう何度も頭の中で繰り返された、彼女の声と姿。それが、目前に広がる闇に浮かび上がるのを見た。
曲がり角、その手前。異様に長い、無理やり引き伸ばされたような干からびた腕と、落ち窪んだ血の眼が、柱からその身を覗かせる。闇の中で爛々と輝く瞳は、確かに私たちを見ていた……いや、私じゃない。それの視線の先にあるのは――
「どうしたの? 行くんじゃないの?」
私を見つめる麻子だった。
「……あ、あれ……」
震える手で闇を指すが、やはり彼女にはそれが見えていないのか、
「え? ……何も、ないけど……」
何で、私だけ見えてしまうのだろう。あれは確かに麻子の方を向いているというのに。
その事実はまるで、あれが私にだけその姿を見せ、私が恐怖する姿を楽しんでいるようで――
「にげ……て……」
そこから離れて!!
あの時の再現のように、また喉が動かなくなる。見えない手に締め上げられたかのような異常。
止めることなんてできない。見ていることしかできない。
彼女の目が、微かに笑う。どうすることもできない私を嘲るように。迫る脅威に気づくこともできず、ただ立ち尽くす麻子を愚かだと慈しむように。
「――、――!!」
「え、何? もっとはっきり言ってよ」
――言葉は、届かなかった。叫びは、伝わらなかった。
それからの悲劇は、あまりにも一瞬で――
「……え?」
それの強張った指が、彼女の足を強く掴む。そこで初めて彼女は、足元の存在を認識するが、もう何もかもが遅すぎた。全て、手遅れだった。そして――、
――引き込まれる。
有り得ない力で引っ張られた麻子が、一瞬にしても視界から消え失せる。柱の奥――闇の中へと引きずり込まれた彼女の骨が、音を立てて砕けていく。
何かが潰れ、滴る水音。悲鳴にも似た耳を擘く叫び。引きちぎられ、分解されていく音。
音、音、音、音、音、音、音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音――
――そして、不意に訪れる静寂。
ほんの数瞬で過ぎ去った惨劇の跡は、夢だったかのように一つも残っておらず、ただ立ち尽くす私だけをそこに放置する。それは、どこまでも呪いのように理不尽で、残酷で、非現実的だった。
「……あ、……ぁあ……」
もう、立っていることすら儘ならなかった。身体に力が入らなくて、そのまま地面にへたりこんでしまう。……もう、疲れた私の手を取ってくれる彼女はいない。いつも笑いかけてくれていた少女も、きっと――
思考をまとめる間もなく、目頭が熱くなる。吐き気と荒れ狂う感情が、心をズタズタに引き裂いていく。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
一方的に奪われた現実は、私を押し潰し、徹底的に打ちのめす。叫ばなければ、どうにかなってしまいそうだった。
狂っていく思考の中、誰かがこちらへ走ってくる音が聞こえてくるが、そんなのはどうだってよかった。
ただ今は、後手に回った自分を責め、全てを後悔するしか、他になかった。