第三話 「届かぬ手」
『ファイトー!』
『ファイトー!!』
朝五時。霧が立ち込める朝の村道に、私達の掛け声だけが響いていく。
朝食前の軽い朝ランニングと聞けば響きはいいけど、朝から先生に叩き起こされている私達は、まだ眠気が抜けていなくて、いつ誰が畑に間違って落ちるかヒヤヒヤしていた。
まだ村の朝は涼しくて、水分を含んだ風が身体に気持ちいい。こういうところは、山付近で走る利点かもしれない。
「ふぁー、すごい眠いっす」
「夜更かししてるからそうなるの。最初から朝練の話は聞いてたでしょ」
「つっても、眠いもんは眠ぃよ。あー、だる」
「……むにゃ、むにゃ」
「桜、もしかして寝ながら走ってる?」
掛け声3割、雑談7割といった感じで、私達は景色を眺めつつ走っていく。ちょくちょく村の人らしき影を見かけたりするけど、この霧だとよく近づかないと分からなかった。
「こう、村って、朝から畑仕事してる人がいるイメージ持ってたんすけどねぇ……」
「今じゃ株価取引とかあるし、積極的に仕事する必要もないんじゃないかしら?」
「ほんと、何か寂しいところだよな。活気がねぇつうかよ」
「……うみゅ、うみゅ」
「そっちは畑だよ! 落ちるよ、ねぇ!?」
慌てて桜を引っ張って軌道修正しながら、私は軽く辺りを見回す。やっぱりどこか不気味だ。昨日のあれといい、指といい、この村に来てから私は、何故か見えるようになってしまったんじゃないだろうか、そう錯覚させるほど、ここには言い得ぬ気持ち悪さがある。……と、ぼんやり考えていると、桜がぼけーっとした顔で、
「のど渇いたー」
「飲み物でも買ってきたら?」
「……うん、そうする。でも、自販機あるかなぁ?」
「旅館にはなかったわよね、確か」
「そこら辺で買えばいいじゃねぇか。どっかにあるって」
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「朝ご飯までには戻ってきてね」
「分かった!」
マイペースにゆっくり走っていく桜に向けて春香が、
「間に合わなかったら、飯抜きだからなー!」
と、追い打ちをかけると、彼女の走る速さが目に見えて上がったのを笑って見送った。
――一人にするべきじゃなかったのに。
――――
「うーんと、ここ、どこ?」
――案の定、桜は、山奥で迷ってしまっていた。
奇妙なことにスマホの電源が届かない。田舎の山奥となれば仕方ないのかもしれないが、常に使っている物が使えなくなるというのは、体の一部が欠けたような気分を覚える。それに、鬱葱とした茂みは不気味さを際立てていて、背筋がぞっとする。
……早く、旅館に戻ろう。
そう思って彼女が前を向くと、足元に何かが落ちていることに気付く。近づいて見てみると、それは――
……指、輪?
背筋が、凍った気がした。
「……何、で」
確かに部屋に置いてきたはずなのに。……いや、でも、もしかしてこの村の子供がおもちゃの指輪を集めていて、たまたま落としていったのかもしれない。偶然だ。そのはずだ。
「…………」
それでも、少しだけ眩暈がする頭をどうにか抑えて、彼女は元来た道へ戻ろうと、その場から立ち上がり――
――そっと、首に冷たい感触が生まれたのを感じた。
「……っ!?」
異様なほどまでにひんやりとした、触れられただけで皮を抉り取られそうな、冷気。振り返ることができなかった。喉が締め付けられたように声が出なくなる。
桜が何かを考える間もなく、それは、一つ、二つ、と増えていって、身動きの取れぬ内に、九つの感触が彼女の首筋に宛がわれ――一斉に力が込められた。
「……っ、ぐっ、……ぁ……?」
万力のような握力で締め付けられた頸椎は、一瞬でへし折られ、喉仏は形を歪めていく。体の内を形成する筋が音を立てながら千切れていくのを感じながら、ゆっくりと潰されていく声帯が、ひゅーひゅーと息を漏らしていく。
「……がっ、あ、……たず、け……」
圧力に耐え切れなくなった眼窩から眼球がはみ出していき、舌が徐々に、異様なほど伸びていく。首吊りと同等の長い責め苦。首に纏わりつく冷えたその感触が、否応にも桜の意識を引き伸ばし、体の中が潰れていく音を脳内に響かせる。
瞳から流れ出た血涙が足元を濡らしていることにも気付かずに、助けを求めるようにどこかへ手を伸ばす最中、ふと彼女の脳内に、自らが拾った指輪のことが頭をよぎり――
「かな……え」
掠れた声と共に、ばきり、と、誰もいない林に桜の首が完全に潰れた音が虚しく響く。
――それが、今村桜の、最後に聞いた音だった。