第二話 「一時の幸せ」
夏の暑さに負けて旅館に戻ってきた私たちは、一度部屋に通されてそこで休んだあと、部屋にやってきた先生と一緒に旅館から出された夕食を食べていた。
「……おいしい」
恍惚とした表情で桜が呟くのを隣で聞きながら、私も顔が綻ぶのをやめられなかった。頬が溶けてるんじゃないか、そう勘違いするほどの美味。女将さんが「ほろほろの~」なんて言っていたけど、もうそれは頭から抜け落ちていて、今はただこの豪勢な食事に舌を打つことしかできない。
周りを見れば皆私と同じような顔をしていて、コワモテで有名な木戸先生も、常にニマニマしていて少し気持ち悪かった。
夢みたいな時間あっという間に過ぎていって、気づいた時には、目の前で片付けられたお皿が視界から出ていくだけだった。
「あ゛ー」
「最後の別れみたいな顔しないの。あと、女子高生としてその声は出しちゃだめでしょ」
食器を運ぶ女将たちへ手を伸ばすも、無慈悲に襖は閉じられてしまう。私の……ほろほろなんとか……。
「まぁ、あと四日も泊まるわけだし、おいしいもの、幾らでも食べれますって」
薫が言う通りなんだけど、それもそれで怖い気がした。ずっとこれだけおいしいものを食べていたら、旅館の食べ物から一生離れられなくなりそうだ。家のご飯もおいしいけど、あの肉を前にしたら私は理性を保てるだろうか?
食の葛藤を一人で繰り広げていると、浴衣の前をはだけた(目が痛い)春香が、つまようじで歯を綺麗にしながら、
「てかよぉ、この飯の代金も含めて宿泊費なわけだろ? よくこんなところに五日も連続で泊まれたな。部費、あんの?」
彼女の素朴な疑問に木戸先生はしかめっ面のままお酒を飲む。が、しかし、その肩が少しだけ震えたことを見逃すほど、春香も優しくなかった。彼女はニヤニヤと意地悪く笑って、
「答えられるよな? そんなに部費あるわけないもんなぁ? ……くくく、腹痛てぇ」
「えっと、どういうこと?」
私がたまらず聞くと、春香はニタニタと笑みを含めて、
「合宿ってよ、基本的にもっと普通なところでやるもんだろ? ほら、学校の周りにも色々安っぽい宿いくらでもあるよな。そんなところがあるのにわざわざこの先公は、こんな隠れた名宿みてぇなところを選んだ。部費で賄えるわけもないのにだ」
春香の笑みが広がっていくにつれて、木戸先生の顔色が悪くなっていく。まるで探偵に追い詰められた犯人のようだ。……もしかして、先生。
「ここを選んだのは、山が多くて傾斜を走る練習になるからか? 空気が涼しいから疲労が少ないと思ったからか? それもあるかもしれない。でもよ、一番の理由は――」
「自分で金を払ってでも、私たちに夏の思い出を作ってほしい、そう思ったんじゃねぇか?」
「…………」
長い長い沈黙。部屋の誰もが固唾を呑んで先生を見つめるなか、先生はわなわなと身体を震わせたあと、お酒をぐびっと煽って――
「うるせぇ! 早く風呂入って寝ろ!!」
キレた。
――――
「うわー広ーい」
大浴場に桜の声が響き渡る。
溢れ出す水が水面を叩く心地よい音。立ち込める湯気があたりをおぼろげに霞ませる光景。それらを見ているだけでも身体の疲れが和らいでいくのを感じる。
言葉には出さなくても周りの皆も感嘆のため息を零していた。宿の外見が全体的に古くて(春香曰く「うわぁ、ぼろっちぃ」)幽霊とかが出そうな雰囲気かも、と思っていたので、この場所に来るまで不安だったけれど、それは杞憂に終わったみたいだった。
広い。何より広い。私たち以外誰もいなくて貸し切りみたいになっているのも、そう感じさせる一因なのかもしれないけど、それを除いても有り余るくらい大きくて、綺麗だ。浴槽は大きく三部屋に分かれていて、それに加えて露天風呂も二つある。文句がつけようのないくらいの大浴場。これは、ここに連れてきてくれた先生に感謝するしかなかった。語彙力がなさすぎるけど、ほんと、すごい。
「加奈、こんなところで立ち止まってないで体洗いましょ。冷えちゃうわ」
「あ、うん。そうだね」
麻子に背中を押されるようにして洗い場に向かう。……良く見ると皆タオル一枚なので、その体のメリハリ具合は嫌でも目についてしまう。私のと比べるため皆を見ると、若干気分が落ち込むけど、せっかくこんないところに来たんだから、と気分を持ち直して、私は体を洗っていく。旅行気分で舞い上がっているんだろうけど、シャンプー一つとってもなんかいい香りがする気がする。こういうのって一時的な錯覚だから、あとで振り返ると案外普通だったりすんだけど――
と、能天気なことを考えながら髪を梳いていると、ふと背筋に何かが這ったような感覚を覚える。
私はそれに少しだけ怯えながら、後ろをゆっくり振り返る。けれど、当然ようにそこには何もなくて、ただ大きな浴槽が目の前に広がるだけだった。
「……ふぅ」
今日の昼に見た幻覚が頭を掠めるが、すぐに振り払って、呼吸を整える。あんなのは疲れが見せた幻だから、ただの錯覚だから、そう自分に言い聞かせて、視線を前に向け直す。鏡に映るのは、少しだけ顔色の悪い私と、ゆらゆらと漂う温泉の湯気だけで――
「……え?」
私はそれを見て、思わず声を出してしまう。……いや、でも、そんなはずないのに。そんなものが見えるはずないのに……っ。
私はそれを見ていた。鏡の中に映るそれと目を合わせていた。あるはずのない『瞳』。どこにもないはずの誰かの目が、そこにはあった。
覗いている。さっきまでは閉まっていたはずのガラス張りの窓の隙間から、その目はこちらを覗いていた。
「……な、あ……」
声が、でない。
赤い、血走った二つの眼球。腐って壊死した死人みたいな瞳がギョロギョロと動いて、私の身体を睨め回す。恐怖と怖気に呼吸が荒くなり、視界が切れかけた電灯のように明滅する。それでも私は、鏡から目を離せない。縛りつけられたように、意識はその目に引き寄せられてしまう。
声も出ず、ただ見ていることしか出来ない私を嘲うように、それは瞳を細くして、窓を指で引っ掻き始める。
……かり……かり……かり……きぃ……きぃ……
窓に映る暗い影は、人間のそれとは比べものにならないほど細く強張っていて、同時に、酷く異様に長かった。そんな腕と思しきものが、小さく窓を揺らしていく。その指が、窓枠をゆっくりと確かに掴み始める。……こっちへ、来る……っ。
それが分かっていても、私は叫び声一つ上げることができない。喉を何かに絞められている感触。言葉は海に溺れたように白い息となって、湯気に消えていく。
「……たす……けて」
鏡の中の窓が次第に嫌な音を立てて開けられていく。まるで、私の悲鳴の代わりとでもいうように、ゆっくりでいて確実に脳を締め上げてくる音。
窓が半分ほど開けられたところで、そいつの指が窓枠から離れる。残ったのは、私を見つめる赤黒い目と、女と思しき痩せこけた半貌。骨に紙を張り付けたような肌と、乱杭歯じみた歯の並ぶ薄紫の唇。異常で、歪んだその形相の持ち主は、何故か少しだけ笑っていた。ケタケタと音もなく、気が狂いそうな私を見て。
……何で、私だけがこんな目に。何も悪くないのに。何で――
私の苛立ちも恐怖も、そいつを目の前から消す結果には結びつかない。明らかに私は呑まれる側だった。この異常に一方的に蹂躙される人間でしかなかった。
そいつは、笑う。音もなく笑って、窓からはみ出した口で言葉を紡ぐ。私にだけ聞こえる何かを呟く。
……お前も――
「ねぇ、大丈夫? ぼーっとしてるけど」
「……っ!」
瞬間、視界が明けて、部員たちの声が耳に入ってくる。動かなかったはずの喉は当然のように動いて、呼吸も普通に行えるようになっていた。さっきまでは張り付けられていたように見ることしかできなかった鏡には、閉じられた窓と私しか映っていなくて、頭を混乱が圧迫してくる。
「いったい……何なのよ……」
有り得ない幻覚と声が出せなくなるあの現象。少しもまともじゃなくて、どうかしていて――怖い。
あの目。血の溜まったあの瞳は確かに、私を見ていた。呪い殺すような強い恨みと、嗜虐の混じった視線。私が何をしたというのだろう。何で私にだけ見えてしまうのだろう。
「ねぇ、ほんとに大丈夫? 顔色悪すぎだよ」
「あぁ……しっかり寝れば大丈夫。ありがと」
表情筋がうまく動かなくて、しっかり笑えていたかは分からないけど、どうにか誤魔化す。――誰に言っても駄目だ。私にしか見えていないなら、何かあれに付きまとわれる原因が私にあるはずなんだ。
眩暈と吐き気に襲われながらも、私は一人、この恐怖と向き合うことを決めた。あの異常から逃げ回ってるだけじゃ、いつか本当に殺されると思った。
「…………」
楽しかったはずの合宿の中、私は無性に、桜の持ち帰った指輪のことが気になっていた。