1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」6
「まず、クリプトスポリジウムは大部分の皆さんが想像する寄生虫とは異なります。”寄生虫”というとミミズのような姿の細長い虫を思い浮かべる人がいますが、クリプトスポリジウムはそういった虫の仲間ではありません。細長い虫体の寄生虫というと、サナダムシとかエキノコックスとかが含まれる蠕虫というグループです。クリプトスポリジウムは蠕虫ではなく、”原虫”というグループに入ります」
病原体、というより一生物種を他人に説明する時は大体、その分類を大雑把に明らかにしてから、というのが保健所のルールになっている。というのも、いきなり病原性や性質を挙げていっても相手の頭にイメージが無いまま病原性のイメージが先行してしまい、先入観や偏見を生む原因になるためだ。
もっとも、寄生虫は寄生虫と言うだけで悪いイメージが先行してしまうのが常だが。
「ふうん、エキノコックスは知らないけどサナダムシは細長いってイメージだったからクリプトスポリジウムもそうかと思ってたわ。それじゃあクリプトスポリジウムはどんな形なの?」
「クリプトスポリジウムは発育の過程で色んな形を取るので一概には言えませんが、簡単に言うと球です。ですが、私達が発育の過程で精子とか卵子とかの細長い、あるいは球形の形態を取るように、クリプトスポリジウムも細長い形態を取ったりします」
寄生虫には精子だとか、卵子だとかの概念はないのでもちろん、唯の比喩である。保健所がたまに行う、小さな子供相手の講習会で精子だとか卵子だとかいった言葉を使うと親御さんから叩かれるので言葉選びには慎重になるが、風俗店関係者だとその心配が無くてある意味説明がしやすい。
「加えて、クリプトスポリジウムは全ての発育過程において、虫体を肉眼では見ることが出来ません。これもサナダムシとの大きな違いです。虫体を見るには顕微鏡が必要で、ちなみにこれが今回検出された虫体です」
カバンから黒い箱を取り出し、ゆっくりと手の上に置いた。手のひらに収まるサイズではあるが、そのサイズ感からは考えられない程重たい。この重量は箱の中に固定している「あるもの」に起因しており、その正体を自分は知っている以上、重量感の他に不気味さも感じてしまう。いくらうちの課の予算が少ないからと言って、念写師一人雇えないうえ、こんな年代物を使わされるのはかなり抵抗がある。
黒い箱は全ての面が黒く塗られており、その一面だけ切込みが入っている。また、別の面には小さな突起が付いている。
「この中にクリプトスポリジウムが入っているの?」
「いえ、正確にはその写像です。この箱の中に入っているのは実は”バックベアードの眼球”でして、この館に来る前に、顕微鏡で覗いたクリプトスポリジウムの虫体を眼球に凝視させて、結像させておいたんです。ここの突起を押すと切込みが広がるので、中を覗くと、まあ多少気持ち悪いかもしれませんが、眼球がこっちのほうを向いています。そのまま眼球を見つめ続けると、頭の中でバックベードが凝視した光景が現れるんですが、その中央に見えるのがクリプトスポリジウムの”オーシスト”です」
この黒い箱、正確には「バックベアード結像機」と言い、保健所にある道具の中でも1,2を争うレベルで女性職員に使われていない。樹脂製の立方体と眼球を固定する糸、そして眼球というシンプルな構成であり、切込みの向こうには気味の悪い眼球が鎮座している、という気持ち悪さのおかげで、一時は呪具だとさえ職員に思われていたらしい。
ネイザーも使いたくないようで、仕方なく自分が持ち歩いてきたという訳だ。大昔に職員が転生者と一緒にバックベアードを討伐した時に、転生者に言われて作成したという噂だが、何を考えて妖怪の目玉なんかを箱に固定しようと思ったのだろうか。転生者の考えることはわからない。
「別に虫体を観察するのは構わないけれど、バックベアードって妖怪の類でしょう?そんなの見つめ続けて大丈夫かしら?」
「討伐したバックベアードから取ってきた眼球ですから、そんなに悪影響は無いと思います。でも長時間は見ない方が無難ですね、気持ち悪いですし」
妖怪の眼球とはいえ、結像・写像機能が残っているだけです、とルーセット氏を説得して、結像機を覗いてもらった。病原体は実物を見てもらった方が、より説得力に繋がるのだ。それに、義務項目の病原体が検出された時にはその病原体の実物を責任者に見せることがガイドラインで推奨されている。
箱を覗き込んだルーセット氏の動向を観察していると、20秒程経ってから口を開いた。
「頭に白い景色が浮かんだけれど、どれがそのクリプトスポリジウムかわからないわね」
「白い景色の中央に、ちょっと白色が歪んで見えるところがありませんか?その歪みに沿って黒い円形の線が見えていれば、それがオーシストですよ」
「歪み歪み…ああ、この丸い粒かしら。あらぁ、こんな見た目なのね。もっとミジンコみたいな、複雑な形をしてるのかと思ったわ」
「ミジンコはクリプトスポリジウムと違って、多細胞生物ですから、ミジンコの方が複雑な構造が見えると思います。あ、そろそろ箱から目を離した方がいいですよ」
ルーセット氏はひとまず観察を終えたが、何が不思議なのか、今度は箱そのものを観察している。
突起を押して切込みが開く仕掛けや、眼球を固定している糸を観察しているようだ。その目には好奇心も感じられるが、暗く輝く何かも感じる。
「ふーん、写像、結像ねえ…。この作業を眼球じゃなくて、Μ▲ιюЯ☣●に行わせたら…」
と独り言を言っている。最後の部分は何語だろう。まあ、あまり気にしても仕方ないか。
「それじゃあ、次の説明に入りましょうか。さっきクリプトスポリジウムの”オーシスト”と言いましたが、オーシストというのは簡単に言えばクリプトスポリジウムの卵です。このオーシストが私達の口に入ると感染が成立します。つまり、宿主体内に入ったオーシストからは次の世代が生まれる、ということです。今は便宜上”次の世代”を幼虫と呼んでおきます。本当は違うんですけど」
原虫には実のところ、精子・卵子の話と一緒で、幼虫・成虫の概念はない。この概念があるのは蠕虫の主だった面々である。
「………」
ルーセット氏はまだ箱を観察しているが、こちらの説明を聞いているだろうか?先ほどネイザーに「きっちり説明しなさい」と言われた手前、この後の説明はどうしても聞いてもらいたい。そう思いながら、
「ルーセットさん。今話してること、後で口頭で問題出しますからね、ちゃんと聞いといてください」
と言うと、やっと目をこちらに向けた。先ほどの暗い輝きは感じられない。
「あぁ、ごめんなさいね。この箱が気に入っちゃって。それで、何だったかしら、問題が後で出てくるとか」
「そうです。今日こちらに来た目的は主に調査と指導ですが、それ以外にも責任者への衛生教育もありますので。衛生教育の効果測定ということで、調査が終わったら問題を出します。正答できたら私とネイザーは帰ります」
法律では効果測定まで義務付けていないが、衛生教育をするだけしてその成果を確認しないというのも味気ない。ということで自分は頭の中で効果測定の問題を考えつつ、次の説明に移った。
「次に幼虫の話をしますが、まず幼虫の目的について考えましょう。やっと卵から孵化した幼虫が生きる目的は何でしょう?」
「え?うーん…感染者の体内で生き残ることじゃないかしら?免疫に殺されないように生き残ることが目的とか?」
「それもありますが、幼虫が至上の目的とするのは、次の世代の生産です。つまり繁殖ですね。クリプトスポリジウムというより寄生虫全体に言えることですが、寄生虫は繁殖することにアグレッシブです。そのために色々と創意工夫をして生きてきた訳です」
「どの生物も最後は繁殖ね。この館もそういうオプションがあるし」
それは初耳である。今度そのオプションも付けて利用したい、と思いながら続けた。
「ですが、幼虫が繁殖するためには何が必要でしょうか?私達でも、子供は繁殖できませんね?」
「成人すること?」
「そうです。幼虫は成虫まで成長し、繁殖しなければなりません。ですが、幼虫も成虫も、体の構造が未熟なため、自身では十分に成長・繁殖ができないんです。そこで考えたのが、”寄生”という生活スタイルです。幼虫は成虫に発育するまで、成虫は繁殖に至るまでの栄養と、その場を宿主から間借りします。ここで大事なのが、幼虫・成虫が間借りする場所です。クリプトスポリジウムの場合、多くの種が腸管上皮細胞の微絨毛を間借りします」
「腸管上皮細胞の微絨毛?」
そろそろルーセット氏の頭上に?マークが湧出してきているようだ。小さな子供相手ではこの説明は省くことが多いが、今回は義務項目を逸脱した責任者である。ここの説明も理解できるよう願う。
「私達の腸管の表面、つまり、摂取した食べ物の栄養が直接流れる部分にも、皮膚のような細胞が分布しています。これを上皮細胞と言います。私達の体表にある皮膚細胞は外部からの衝撃吸収や発汗等の機能を持ちますが、腸管の皮膚細胞は腸管の仕事に特化しています。何かわかりますか?」
「栄養の吸収、かしら?」
「その仕事に特化するために腸管上皮細胞が特別にこしらえた構造が、微絨毛です。つまり、微絨毛は栄養吸収のための構造です。クリプトスポリジウムが微絨毛を間借りする、という意味がわかりますか?」
「本来なら上皮細胞が得るべき栄養をクリプトスポリジウムが横取りしているのね」
「それだけではありません。あくまで、クリプトスポリジウムは微絨毛を間借りしているだけです。成長しきった時、繁殖が終わった時、クリプトスポリジウムは微絨毛を退去するんですが、その時にとんでもないことをします。微絨毛を破壊するんです」
「微絨毛が破壊されると……栄養が吸収できなくなる?」
「それに、腸管の内容物が栄養だらけになると、詳しい説明は難しいので省きますが、上皮細胞から水分が漏れ出してきます。これが過剰になって、便が軟化、さらに液状化し、水分豊富で滝のような下痢が起きる訳です。下痢が起きる原因はわかりましたか?」
「なんとなくはわかったわ、ありがとう、保健所さん」
これだけ説明して”何となく”か……。やはり他人を理解させるのは難しい。職員をやってきてある程度は向上していると思うが、それでも他人に自分の持っている知識を100%理解させるのには経験やスキルが必要である。
とりあえず、クリプトスポリジウムの説明は終わったし、後はネイザーと配管図を待つのみだが、まだ来ないようなので、義務項目になっている理由も併せて説明しておいた。
「それと、クリプトスポリジウムは以上の病原性を持ちますが、特効薬はありません。水の消毒に使われる塩素にも強い耐性を持っているので、義務項目の一つになっています。なので、塩素注入していれば安心、という考えは捨てましょう」
「………分かったわ。クリプトスポリジウムの重大性は理解してあげる。熱心に説明してくれたしね。残りの問題はマナ濃度、よね」
”重大性は理解”とのことなのでこの調査に協力的な姿勢を見せてくれる、ということだろうか?しかし、自分はマナ濃度にはそこまで明るくない。その担当はネイザーなので、ネイザーが帰ってくるまでの時間をクリプトスポリジウムの話で稼いだのだが、本当に遅いぞ、ネイザー。
「そうですね。マナ濃度の調査も並行して行う必要があります。そっちの調査もネイザーが戻ってから開始になると思います」
「あらそう。ところで、マナ濃度のことで相———」
ギィ、と金属のこすれる嫌な音が響いたので自分もルーセット氏もドアの方に振り向いた。
ネイザーからはさっきの怒気は感じず、涼しい顔でドアの向こうに立っている。片手に丸めた紙を持っており、それを自分の目の前で広げた。各フロアの平面図に、濃い色で管の走行が記入されている。
「ここの従業員、って人からさっき配管図をもらったわ。基準逸脱があった水を採水した部屋は確か、1階103号室の浴室だから、給水管がこの部屋のボイラーから103号室に行くまでに通る部屋と廊下を調査しましょう。ルーセットさんも同行ね」
「わかりました、先輩。あと、ルーセットさんにマナ濃度の説明、よろしくお願いします。自分はクリプトスポリジウムの説明は終わったんで」
ネイザーは「やるじゃない」というふうに微笑を浮かべてくれた気がした。そのすぐ後には涼しい顔に戻って廊下の方に歩き出してしまったのだが。
ボイラー室から廊下に出てネイザーの後を行ったが、自分の背中にルーセット氏の暗い視線が刺さっていることには気づく由もなかった。