1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」5
「ボイラー室」という名の通り、部屋の中で一際強い存在感を放っているのは巨大なボイラーだった。
巨大な円柱が部屋の中央に横たわり、向かって左側に1本、右側に多数の管が繋がっている。円柱の左から伸びる1本の管には水滴が付着し、床に水たまりを作っている。円柱の右側から伸びる多数の管は左側に比べて細く、加えて湯気を放っている。どの管にも恐らくは右側の管が給水管で、左側の管は館の各階に浴槽水を供給しているのだろう。
何年か保健所職員として立ち入り調査等をしてきた自分としては、この部屋は「不衛生」な部類だった。部屋にはボイラーの他に、その点検に必要な工具が置かれているが、どれも汚れているか古びていて、まともに使用された形跡はない。加えて、床にできた水たまりの周辺には墨をまいたように黒カビが繁殖している。薄暗いのでよく見えないが、小さな虫も飛んでいるようである。カビや虫の発生は定期的な清掃を怠っている施設ではよくみられる状態で、さらに悪化すると各部屋にも波及する。
ボイラーの方は管轄ではないので詳しくはわからないが、その表面は床とは違い中々キレイナ状態を保っている。かなりの高温まで加熱されるボイラーの表面に好き好んで繁殖するカビもいないとは思うが。
「案の定、な部屋ね」
ネイザーがため息交じりに言った。自分も同意見だが、もっと言い方があるだろうに。
「そもそもフーゾクに衛生状態を求める客もいないと思うけど、この部屋は汚なすぎよ、ルーセットさん。水道管から出てくる水は一応、キレイってのが前提なんだから、それを最初にこの館に受け入れる場所が汚くちゃ意味がないでしょう」
「私もボイラー室に入るのは久しぶりだけど、まさかこんなに汚れがたまってたなんて驚きだわぁ。保健所さんには感謝しなくちゃね」
「そうじゃなくて、定期的に掃除しなさいよね。カビの胞子が空気中に舞って、管の接続部分から侵入することだってあるんだから」
ネイザーとルーセット氏の噛み合わない会話を聞きながら、自分はサンプル採取用のチューブを取り出し、そこに指ではがした黒カビを落とした。次いで、床にたまった水をスポイトで採取して同じチューブに滴下した。この館の衛生状況を反映するサンプルでもあるし、何かしらの研究用途に使えるかもしれない。とりあえずこの部屋を飛んでいる虫も採取しようかと思い、折り畳み式の虫網を取り出そうとしたが、
「あ、テイク。虫の採取はいらないからね。どうせチョウバエでしょうし」
とネイザーに先に言われてしまった。その目は「虫取りなんて遊びしてないで仕事しろ」と語っている。
以前も別の職員と立ち入り調査をしたときは虫取り作業は出来ず終いだった。この、虫取り作業を軽んじる態度は、保健所職員が持つ数ある欠点の中でも早急に改善すべき点だと思う。虫取りの結果得られる情報はその虫の種の同定と、保有する病原体程度だと思われがちだが、実はまだあるのだ。その虫の発育状態をみれば周辺の餌、つまり生ゴミ等の残渣の有無がわかるし、周辺の幼虫、成虫、蛹の割合が算出できればいつからその虫が住み着いたのかも推定できる。警護隊が死体に湧いたウジを調べて死亡時刻を推定したりするのと同じ技術だが、あまり保健所職員に知られていないのはもったいないことである。
もっとも、虫取り作業が楽しくて、あえてする必要のない虫取りをすることは往々にある。ネイザーはそれを指して虫取りを遊びと決めつけているのであるが、意義のある虫取りくらいは許してほしい。
虫取り作業は諦めて部屋の奥に進んだところで、ボイラーの陰に隠れて机が置いてあるのに気が付いた。机上にはカビだらけの紙の束と試薬らしき液体の入った瓶が収まる箱があった。どうやら水質検査用の試薬らしいが、どれも使用期限を1年以上過ぎている。つまり、この館は自主的な水質検査をすることなく少なくとも1年以上は営業していたことになる。これでは水質基準を逸脱するのも必定だろう。
「先輩、奥の方は一通り見終わりました。期限切れの水質検査薬があったくらいですね」
「はぁ、この部屋だけで色々と問題ありまくりね。床のカビに虫に試薬に。どれもクリプトスポリジウムとマナ濃度にはあまり関係ないけど、保健所として改善を指導するべき内容ね」
ネイザーはポケットから小冊子を出し、ふせんのついたページを開いてルーセット氏に突き付けた。責任者に指導を行う際は、指導事項に該当する法律の条文を相手に見せて強制的に納得させる習わしになっている。自分たちが通常する指導は大抵、施設清掃と決まりきっているので自分は該当ページを覚えることにしたが、ネイザーはふせんを目印にしているのだ。
「ルーセットさん、あなたにボイラー室の清掃、虫の駆除、使用期限内の検査試薬の設置を指導します。これは法律に基づく指導であり拒否権は無く、また、改善後の報告を求めます」
「ま、これだけ汚かったらしょうがないわねぇ。でもいい機会だからキレイにやっておくわよ、ウフフ。その改善後の報告はどうやってすればいいの?」
「今この場で、いつまでに改善が可能か期限を設定して。その期限よりあとに折を見てもう一度ここに来るわ」
ルーセット氏が「5日」と答えたのを聞いて自分の頭の中で5日後のスケジュールを思い出す。確か用事はなかったはずだ。ということはまたこの館に来るのか………。顔を覚えられたらもうここは利用できないな、と今後の風俗ライフを考えていたところで大事なことを思い出した。
「あ、ルーセットさん。とりあえず給水管の確認はできたので、書類の用意をお願いします。まずはここの水関係の配管図と、過去の水質検査記録、あと、マナ安定槽の稼働記録に、女性達の出勤記録。記録を探し出すのが難しければ、配管図以外は後でいいですよ」
「あら、そんなに必要なの?事前に言ってくれればすぐに用意していたのに」
「だから、無通告の立ち入りなんだから、前もって伝えるはずないでしょ、全く」
水の調査とマナの調査と言えば、まず必要なのが配管図や検査記録、マナ安定槽の稼働記録だが、ここは娼館、しかもダークエルフの、である。ダークエルフや一部の亜人は、周囲のマナ濃度を無意識の内に上下させることがある。マナ濃度が逸脱した原因に、こういった人為的なものが含まれる可能性を考慮して出勤記録をお願いしたのだが、ルーセット氏はきっちり書類をそろえてくれるだろうか。
一抹の不安を感じつつルーセット氏の様子を見たところ、今ネイザーに小言を言われてから、言葉を返すでもなく、その場に立ったままである。目を閉じ、手は脱力し、僅かに唇が動いている。
しかし、改めてルーセット氏を見ると本当に美しい。目を閉じて静かに起立している様は彫像のようであり、見る者の心を吸い込むような魅力がある。もっと間近で彼女を見たい、その魅力に癒されたい、すぐ目の前に彼女のまぶたが見える。このまま———
と、ルーセット氏のまぶたが急に開いて自分は我に返る。ルーセット氏にキスをする直前であった。気恥ずかしさを紛らわすために、これもダークエルフの能力なのかと考えているとルーセット氏が口を開いた。
「念話中の女性にキスしようだなんて、なかなか思い切ったことするのね」
自分とルーセット氏の体が離れた。後ろでネイザーが自分の腕を引っ張ったようだ。
「調査相手にキスしようだなんて何考えてんのよこのバカ!こんな娼館にいるからムラムラしてきたんじゃないの!?このサル!」
と顔を真っ赤にしてまさに烈火の如く怒っている。そんなつもりは―――と申し開きをしても聞き入れてくれず、ヒステリーをおこしたように捲し立てられ、強制的に申し訳ない気持ちにさせられてしまった。
「まぁまぁ保健所さん。私は怒ってないのよ?いつも仕事でやっているし。それと、今書類の用意を指示したから配管図はそろそろ部下が持ってくるわ。それが届いたら案内して欲しいところを言って下さる?」
ルーセット氏のフォローのおかげか、ネイザーの熱は下がってきたようだ。
「………わかったわよ。それじゃ配管図が来たら別の部屋に行くわよ。検査で採水した部屋は確か103号室だから、次は多分そこ。あとアンタ、私トイレ行ってるからその間頭冷やしなさい。またキスしようとしたら今度こそシリンジぶちこむからね」
「ハイ、スイマセン、先輩………」
ネイザーはボイラー室を出ていった。廊下を歩く音がするので、本当にトイレに向かったようだ。
「ルーセットさん、すいません。失礼をした挙句、フォローまでしてくださって」
「あら、いいのよ、気にしてないから。それとも、キスの先までしちゃおうかしら?彼女が戻るまでに二仕事くらいできるわよ、ウフフ」
ルーセット氏の視線が妖艶に蠢き、自分の体に絡めている気がした。どうしてもこの淫猥な空気を打破したく、自分は提案した。
「いえ、それは遠慮しておきます。職員が不動化すると始末書ものなので。ひとまず先輩や配管図が来るまでの間、クリプトスポリジウムの説明をしておきましょうか」




