1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」4
事務室から給水管があるという場所までルーセット氏が案内してくれている道すがら、自分は浴槽水におけるクリプトスポリジウムの意義を反芻していた。
”クリプトスポリジウムは寄生虫で、塩素消毒はほとんど効かないんだっけ………。だから、塩素消毒の済んだ浴槽水にコイツがいてもピンピンしてて、浴槽水を飲み込んで感染成立、滝みたいな下痢が出る…と。あとエイズと併発するとどうたらって他の課の職員が話してたような…ま、いいか”
そもそも、こんな反芻をする必要が出たのは、ルーセット氏とネイザーの会話が原因だった。
「クリプトスポリジウムって…あぁ、下痢を起こす寄生虫だったかしら。マナ濃度は生物が”排泄”してるエネルギーのことよね」
「そう。浴槽水の基準じゃクリプトスポリジウムは陰性———つまり検出されないこと———、マナ濃度は1リットルあたり20から60メラン。だけど、ここの水ときたら、クリプトスポリジウムが検出されるわマナ濃度は100を超えるわで、正直、衛生状況が破綻しかけているのは目に明らかよ。今はたまたま患者が出てないだけで」
ネイザーの口調はかなり強くなっていて、ルーセット氏の神経を逆撫でしそうな程の迫力が出てきている。後々保健所にこの立ち入りの苦情が入っても知らないですよ、ネイザー先輩。
「あらあら、それは申し訳なかったわね。でも、物知りな保健所さんに一つ伺いたいのだけれど、うちの浴槽水は塩素消毒を受けてるわ。それに、これからお見せするけれど、給水管にはマナ安定槽を接続してる。これでどうやって検査値が基準から外れるのかしら?」
「その原因を調査するためにわざわざこんな店に来たのよ。原因がすぐにわかる訳ないでしょう?」
いやクリプトスポリジウムが塩素効くかはわかるだろう。さすがに。
「”こんな店”だなんてひどいわね。これでも歴史のある館なのに。それで、どうなの?結局のところ、クリプトとやらは塩素でも死なないの?生きてるの?保健所さんがそんなこと知らないわけないわよねぇ。ウフフ」
「………えぇぇ、そんなことは、保健所の人間なら誰でも知ってるわよ、もちろんここにいるテイクもね!それじゃテイク、後でクリプトスポリジウムの解説、よろしく!」
ネイザー、クリプトスポリジウムのことあんまり知らないのか………それなららそうと、立ち入り前に言ってくれればいいのに。そう考えながら、
「わかりました。クリプトスポリジウムの説明でよければ、しますよ」
「あらあら、こっちの保健所さんは物知りなのね、相方とは違って。頼もしいわ」
ルーセット氏は明らかにネイザーを見下し始めているようだ。初対面の相手に衛生状況が破綻、なんて言われたら仕方がない気もするが、事実、クリプトスポリジウムが検出されるなんてそうそうないことである。マナ濃度にしても、他の施設で逸脱することはあるものの、100オーバーをたたき出した施設はダーク・ミクスチャーをおいて他にはない。衛生状況が破綻している施設であることが事実なのは、自分も思うところである。
「ですが、王都に浴槽水を提供する施設は数あれど、今回の検査値はそうそうお目にかかれるものではないです。クリプトスポリジジウムの説明の見返り、というと聞こえは悪いですが、保健所の職員としてここに足を運んだ以上、何かしらの調査結果は持ち帰る必要があります。調査結果を下すのに必要な資料や帳票の類は一通り揃えて頂きますからね、よろしくお願いします」
「ハイハイ、そんな取引めいたこと言っちゃって、可愛いんだから。クリプトの説明なんかされなくても、アナタ達には無条件で協力しなきゃいけないってことは知ってるわよ。衛生向上技能員、だったかしら?記録とかの用意も含めて、調査には協力してあげるから、安心してくださいな。ウフフ」
衛生向上技能員———法律で定められ、保健所職員に付与された権限———のことまでルーセット氏は知っている。先ほどの「義務項目」と「努力項目」のくだりに加え、保健所職員の持つ権限にまでルーセット氏の知識が及んでいることに、自分は驚きばかりでなく、脅威を感じ始めていた。権限の行使は法律で認められてはいるが、誤用と濫用まで行き過ぎるて、もしそれに施設の責任者なり営業者が感づいてしまうと確実にこちらが叩かれることになるためだ。主に自分たちの身内、監査課に。
ネイザーもそのことに気づいたのか、耳打ちをしてきた。
「アンタ、私達の権限を振りかざすような言い方はやめなさい。後で監査課にチクられたらメンドいわ。それと、クリプトスポリジウムの説明はキッチリやって、コイツに吠え面かかせてやんなさい」
こうして自分はかつて勉強した、クリプトスポリジウムの知識を頭の中で掘り起こすことになったのである。
幸い自分は寄生虫に関心が高い学生だったので、「塩素消毒はクリプトスポリジウムにほぼ無効」という知識以外にも、ライフサイクルや病原性に関する知識も掘り返されてきた。もっともその中には、寄生虫学の教授が話してくれた全く無駄な知識も含まれていたりするのだが。
頭の中でクリプトスポリジウムの知識が一通り掘り起こされたところで、タイミングよくルーセット氏、ネイザー、自分の足が何の変哲のない鉄の扉の前で止まった。考えてみれば事務室からここに来るまで3度くらい、階段を下りた気がする。ということはここは地下2階だろうか。自分がこの館を利用した時にはそもそも地下があるとは知らされていなかったため、一般利用者には知られていない空間なのかもしれない。
「ここがボイラー室よ。給水管から引っ張ってきた水は最初にここのボイラーで加熱されるの。それじゃあまずはここを調査してくださいな。ウフフ」
ルーセット氏が鉄の扉を重そうに、そしてゆっくりと開き、ボイラー室調査は始まった。
寄生虫マニアの皆さん、クリプトスポリジウムのオーシストの温度耐性に関する文献があったら教科書でも論文でも教えてください!