2章 診療所「イーレトレン・クリニック」8
「行くっつったって、どういう理由で行くんだ?まさかクリニックの診断にケチをつけに行くつもりか?」
行政の人間が大した理由も無いまま、医療機関に抜き打ちで立ち入ることはあまりない。医療過誤や法規違反の恐れがあって、かつ事前に立ち入る旨の通告を行うと証拠が破棄される可能性がある場合は抜き打ちだが、イーレトレン・クリニックにはどれもあてはまらないことは明白だった。
「まさか、違いますよ。でも”原因不明の遺伝性疾患”の診断を代々下してきたクリニックなんですから、そのことについて聴取することくらい、許されるんじゃないですか。未知の疾患の情報を収集するのも保健所の役割だと思います。私とアンバーさんで今度こっそり行っちゃいましょうよ」
「そうは言ったってなあ、多分所長、キレるぞ」
病院や診療所をはじめ、医療機関に立ち入る際は医師である所長を筆頭にするのが王都では常であった。つまり医療機関に立ち入る時は所長に事前に伺いを立てるものなのだが、先程のアロイの発言は、”(所長を通さずに)こっそり行っちゃいましょうよ”とも解釈できたことから、アンバーはしり込みした。
「やっとここの出張所に慣れてきたのに、所長に目付けられるのはなあ…」
とは言え、アンバーにもクリニックに立ち入りたいという意欲が無い訳ではなかった。少ない期間ではあったが、私的な時間を潰して勉強してきた遺伝病について、医療機関の現場ではどのようなプロセスで診断を下しているのか、という関心が既にアンバーには生まれていた。
それを後押しするかのように、アロイは
「何ビビってるんですかアンバーさん。ちょこっと立ち寄って、ちょこっと話を聞くだけですって。向こうの機嫌を損ねなきゃ穏便に済みますよ。それにクリニックに立ち入るにあたって、ダミーの立ち入り理由も用意しときますし」
と言って、胸を張った。アンバーが当然、ダミーの立ち入り理由の詳細について聞き出そうと口を開いたが、アロイはそれを今度は手で制した。そしてもう片方の手には手の平サイズの本が収まっている。
「ま、それは大したことじゃないんで気にしないでください。とりあえずアンバーさんは、イーレトレン・クリニック立ち入りまでの間にもう少し遺伝病の勉強をして頂ければ大丈夫なので」
「また教科書か…。”感染症要覧”って題名だけど、遺伝病の本なのかこれ?」
アロイの手に収まっている本の表紙には”感染症要覧”と書かれている。どうやら主要な感染症についてまとめた本らしかった。
「ええ。異世界の”感染症法”と”家畜伝染病予防法”に準拠してこっちの世界風にマイナーチェンジした本ですから、内容はボリュームがありますけど読んでおいて損はありません」
感染症法は、異世界において感染症の人類社会への蔓延を防止する目的で作られた法律で、様々な種類の感染症を分類している。その分類毎に医療従事者や医療機関が講じるべき措置についてまとめられており、さしあたって人類にとって重要な感染症を知るには最適な法律である。
家畜伝染病予防法は産業動物への感染症の蔓延を防止することにより畜産の振興を目的とする法律で、感染症法とは異なり、産業動物にとって脅威となる感染症を分類している。こちらの世界には亜人種以外にも人型の種族が多数存在することから、感染症法と同様に感染症の情報収集には重用される法律となっている。
「なるほど。それじゃこの本の中身を頭に入れておく。それで、クリニックへの立ち入り予定日はいつだ?」
「うーん、来週の今日でどうでしょうか。私は外出する用事もあって長時間執務室にいなくたって同僚からはそんなに怪しまれないでしょうし。アンバーさんの予定は?」
「今のところ外出の予定は無いから、適当に外出しなきゃならん仕事をでっちあげとく」
そういいながら、アンバーはアロイから借りた”感染症要覧”を持って自分の執務室に戻る準備をした。そろそろ昼休憩が終了する頃合いである。
「”感染症要覧”は絶対に勉強しておいて下さいね。絶対ですよ」
アロイの念押しを背中に受けつつ、アンバーはアロイのデスクを後にした。あとは午後の勤務を終わらせれば自由だが、来たるクリニック立ち入りと、”感染症要覧”の内容に対する期待であまり仕事に身が入ることはなかった。
その日の終業の時間がやってくると、アンバーは自身の荷物をすぐにまとめ帰路につくことにした。自宅までの道すがら、半ば義務のように”感染症要覧”のページを何気なく繰っていると、いくつかのページにはアロイのものと思われるメモが付されていることに気付いた。
(まずはアロイのメモが付いているページを重点的に読むか)
アロイの関心、つまり”原因不明の遺伝性疾患”に関わりのある感染症を記載したページにメモがなされているのだろうとアンバーは推測し、”感染症要覧”を読んでいった。しかし、該当のページには「遺伝」という単語は一切現れず、わざわざこんな本を手渡したアロイの意図は不明なまま、自宅に到着した。
その後はメモの付されていないページも含め”感染症要覧”を読み進めていったアンバーであったが、”原因不明の遺伝性疾患”との関わりはつかめないまま、クリニック立ち入り日がやってきたのであった。




